「書痴の幸福なる死」余談 其の二

其の一

 SF Prologue Wave掲載の短篇「書痴の幸福なる死」は、導入部、本論、終結部から構成され、導入部に「〇」(ゼロ)、二部に分かれている本論に「一」「二」、終結部に「x」(エックス)の数字および記号が振られています。
 導入部が「〇」なのはともかく、終結部が「x」なのは、このパートの内容が資料に基づいたものではなく、「私」(エッセイ「書痴の幸福なる死」の「著者」。小説「書痴の幸福なる死」の著者である仁木稔ではない)の「想像」だからです。だからほんとは「虚数を表す記号」を使いたかったんですけどね……それだと「i」になってまうから……読者には伝わらんだろうから……(数学畑の人でも、咄嗟に虚数のことだとは思わんでしょう)
 だからまだ解り易いだろうと「x」にしたわけですが、こういうこだわり方(素直に1、2、3、4としない)は、我ながら感性が中二だと思いました。もう50過ぎてんですけどねー。でもやる。

 さて、前回の記事で、本作には一つだけ嘘(フィクション)が混ぜてあると述べましたが、作中で想像や推測として書かれている事柄は、それには該当しません。「事実」(資料に基づく)として書かれている事柄の一つです。
 で、それがどれなのかは、ネタバレになるので解説しません。ま、興味のある人はいないでしょう。このブログで自作の解説をするのは、私自身のための覚書も兼ねているので、そちらの必要性もないし。

 そういうわけで書物や読書の歴史、本作の「主人公」であるジャーヒズ、アッバース朝の文化や政治等に興味のある方は、以下のテキストをどうぞ。本作の主な参考文献です。

書籍(タイトル:『』は書籍名、「」は収録論文等のタイトル 著者名 出版社名)
『図書館の誕生 古代オリエントからローマへ』L.カッソン 刀水書房
『声の文化と文字の文化』W.J.オング 藤原書店
『ギルガメシュ叙事詩』月本昭男・訳 岩波書店
『紙の世界史 PAPER 歴史に突き動かされた技術』(第一章および第三章のみ参照)マーク・ランカスキー 徳間書店
『紙と羊皮紙・写本の社会史』(Ⅱ章およびⅣ章のみ参照)箕輪成男 出版ニュース社

『書物の文化史 メディアの変遷と知の枠組み』(第一章「東洋の書物史」のみ参照)加藤好郎ほか 丸善出版
『中国出版文化史 書物世界史と知の風景』(第四~六章のみ参照)井上進 名古屋大学出版会

『イスラーム 書物の歴史』小林泰/林佳世子・編 名古屋大学出版会
『ギリシア思想とアラビア文化 初期アッバース朝の翻訳文化』D.グダス 勁草書房
『イスラーム社会の知の伝達』湯川武 山川出版社
『イスラーム全史』(第2章のみ参照)余部福三 勁草書房
『イスラームの国家と王権』(第2章のみ参照)佐藤次高 岩波書店
『聖なる学問、俗なる人生 中世のイスラーム学者』(第2章「学問修得の方法」のみ参照)谷口淳一 山川出版社
『イスラームの生活と技術』(第2章「知識と技術の伝達 紙を中心に」のみ参照)佐藤次高 山川出版
「製紙法の西伝」(『シルクロードの文化交流 その虚像と実像』所収)藤本勝次 同朋舎
「住宅と住宅地」(『イスラーム世界の都市空間』所収)陣内秀信 法政大学出版局
『アレクサンドロス変相 古代から中世イスラームへ』(第3章「イスラーム以前のイランにおけるアレクサンドロス」のみ参照)山中由里子 名古屋大学出版会
『ペルシア語の話』(Ⅲ、Ⅳ章のみ参照)黒柳恒男 大学書林
『中世思想原典集成Ⅱ イスラーム哲学』(竹下正孝「総序」のみ参照)上智大学中世思想研究所・編訳 平凡社
『イスラームの人間観・世界観 宗教思想の深淵へ』(第二、三章のみ参照)和子 筑波大学出版会
『イスラームの世界観 ガザーリーとラーズィー』(序章、第一章、第五章のみ参照)青柳かおる 明石書店
『イスラームから見た世界史』(第七章のみ参照)タミム・アンサーリー 紀伊国屋書店
『宗教の世界史11 イスラームの歴史1 イスラームの創始と展開』(第3章 堀井聡江「生活の指針シャリーア」のみ参照)佐藤次高・編 山川出版社
『アラビア科学史序説』(「付録Ⅳ アル・ジャーヒズの『動物の書』について イスラムのアダブの書の典型」のみ参照)矢島裕利 岩波書店
「けちんぼども」(『世界文学大系68 アラビア・ペルシア集』所収)ジャーヒズ 筑摩書房

雑誌論文
「ジャーヒズとアラブ修辞学の形成過程」濱田聖子(『日本中東学会年報』14)
「ジャーヒズ著『けちんぼども』における逸話と登場人物 文人譚を手がかりに」濱田聖子(『日本中東学会年報』37-2)
「アダブ考 アラブ文化におけるアンソロジーの思想」岡﨑桂二(『四天王寺大学紀要』51)
「アラブ文学における論争ジャンル 「マカーマート」の周縁」岡﨑桂二(『四天王寺大学紀要』48)
「アッバース朝期のセクシュアリティと同性間性愛 ジャーヒズ著『ジャーリヤとグラームの美点の書』の分析を通じて」辻大地(『東洋学報』98-4)
「紙の伝播と使用をめぐる諸問題」清水和裕(『史淵』149)
「イスラム世界における紙の伝播と書籍業 バグダードのワッラークを中心として」後藤裕加子(『日本中東学会年報』7)
「マームーンとムウタスィムの新軍団」余部福三(『史林66-6』)

英文(Web記事)
Al-Jahiz Master of Arabic Prose
Jahiz: Dangerous Freethinker?
Al-Jahiz Bibliography
al-Fatḥ b. K̲h̲āḳān


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「書痴の幸福なる死」余談

 というわけで、SF Prologue Wave掲載の短篇「書痴の幸福なる死」にまつわる余談です。本作は一つの嘘(フィクション)を除けば、典拠に基づいて書かれた歴史エッセイとして通用しますので、「解説」はありません。参考文献は後日紹介する予定ですが。
 歴史エッセイとして通用するくらい、がっつり文献に拠ってはいますが、もし本当に私(仁木稔)が同じ題材でエッセイを書くなら、あそこまで主観と推測を前面に出したりしません。「どっかの知らん誰かが書いたエッセイ」という設定の小説です。

 元々は本当にエッセイとして書きたかったんですけどねー、そんな機会もなかなかなくて半ば諦めていたのでした。で、今年4月、『SFマガジン』6月号(Amazonリンク)掲載の中篇「物語の川々は大海に注ぐ」の最終ゲラのチェックが終わって時間ができたので、以前から読みたかった陸秋槎氏の短篇集『ガーンズバック変換』を読んだのでした。
 収録作のうち「インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ」と「ハインリヒ・バナールの文学的肖像」はすでにアンソロジーで読んでいたのですが、陸氏の他の作品と併せて読むことで、いっそう深く印象付けられました。この二作と「三つの演奏会用練習曲」の一つ目が特に気に入って、数日後、「おもしろかったなあ」と反芻していたその時、卒然と「例のネタは歴史エッセイを装った小説として書けばいいじゃないか」というアイデアが「降ってきた」のでした。

 例によって下調べが大変だった上に、集めた大量の情報を簡潔にまとめるのに手間取りましたが、無事完成の運びとなりました。紛うかたなきスペキュレイティブ・フィクションである一方、サイエンス・フィクションではまったくないので、SFPWに掲載していただいたのでした。
 導入部で述べているとおり、私が「自らの蔵書に埋もれて死んだ世界最古の愛書家」だと見做している人物についての「エッセイ」です。そして、テーマ的に「物語の川々は大海に注ぐ」の「続編」です。
 もちろん内容的にはまったく繋がりはありません。「物語の川々」は歴史小説に分類できるくらい史実に即しているとはいえ、あくまでフィクションですし、固有名詞や術語等を日本人の馴染みのないものに換えて「異世界ファンタジー」を装っています。一方、「書痴の幸福なる死」は嘘(フィクション)を一つ混ぜ込んだ歴史エッセイと言えます。
 では何をもって「続編」とするのかというと、「物語の川々」のテーマが「物語(より厳密には「書かれた物語」)なのに対し、「書痴の幸福なる死」のテーマが「読書」だからです。ちなみに「物語の川々」の直接の続篇を書く予定はなく、まあ書くことはないと思っています。アラブ文化におけるフィクションの地位は現在に至るまで低いままなので、あの世界を舞台に「物語」をテーマにした作品を書いたら、アラブ文化をディスることになりかねないからです。

 そういうわけで、本作が生まれたのは『ガーンズバック変換』にインスパイアされたお蔭なので、陸氏にお会いできる機会があったらお礼を述べたいのですが、いつになるかわからないので、ここに書くことにします。陸氏に見つけてもらえなかったら、運がなかったということで。
 仮に陸氏がこの記事に遭遇することがあったとして、日本語だけでも謝意は伝わるかと思いますが、私なりに
感謝と敬意を可能な限り表すべく、中国語でメッセージを書きました。自力です。機械翻訳の日本語がとにかく嫌いで、逆もまた然りだろうから、とても使う気にはなれない。
 ちなみに私の中国語歴は①1991年に入学した大学で3年間第二外国語として選択、②学部と修士課程での研究テーマがシルクロード文化史だったが、当時は学士論文にも不十分なほど日本語資料が少なかったので、学部時代から日本語よりも中国語の資料(学術文献および漢籍)を多く読んでいた、③10年以上前に初級を勉強し直した、のがすべてです。しかも中国語作文はテストで簡単な短文を書いたくらいしかない。だからこれだけの長さの文章を書いたのは初めてです。
 こんなに短い文章中にも文法ミス、語句の誤用、失礼な言い回しが多々あるのではないかと思いますが、無学ゆえだと憐れんでお目溢しください。

陸秋槎先生:

 您好! 我叫仁木稔、日本科幻作家。
 在您短篇集《根斯巴克變換》的启发下、我会写短篇小说《书痴的幸福的死》了。
 我非常感謝您。
 祝愿您今后更上一层楼。


  又及;我长篇小说《彌哈伊爾的楼梯》有两个少女主角、她们的友情得到读者的好评了。
  想请您读这个。 

 ところで、これを書くのに当然、「中国語の手紙の書き方」等のサイトは参照したんですが、今は「先生」という敬称が普通なんですね。30年前は、ほぼ死語だったんですが。中国語そのものが、だいぶ変化してるんだろうな。当時は同輩間や目上から目下への呼び掛けが「同志」だったりしたからなあ。

其の二

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新作短篇「書痴の幸福なる死」

 SF Prologue Waveに、新作短篇「書痴の幸福なる死」が掲載されています(リンク)。400字詰め換算30枚と短めです。
 短いだけでなく、軽めの歴史エッセイの体裁を取っているので、だいぶ読みやすいかと思います。が、間違いなく小説です。
 嘘(フィクション)は一つだけ、後は推測も含め、資料に拠っています。あ、「エッセイ」の「著者」が私(仁木稔)ではない、というのも入れたら、フィクションは二つになりますが。「どっかの知らん誰か」という設定です。

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十三

其の一其の二十二
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 いろいろ片付いたんで再開。手術するかどうかは、来週の検査の結果次第です。
 全体的にネタバレ注意。 紀年は特記がない限りはADです。

 今回は、「初期イスラム時代(7-10世紀)のムスリムは、偶像(崇拝対象)をどう捉えていたのか」という問題についてと、それに間接的に関係のある本作の小ネタの解説です。
 ムハンマドがカアバ神殿に祀られていた大量の偶像をはじめ、各地の偶像(聖樹など自然物も含む)を破壊させた、という現存する最古の記録は、8世紀後半か9世紀初めに書かれた『偶像の書』です。邦訳が出ています。イスラム(およびアラブ)研究は、どんな分野であろうと遡るほど同時代記録が少ないという問題に付き纏われるんですが、これは比較的早いほうですね。
 著者は邦訳版では「イブン・アル=カルビー」という表記で、本作で名前が挙げられている「イブン・カルビー」父子の息子のほうです。「カルビー」は彼らの先祖の名前なので、この場合の「イブン・カルビー」は「カルビーの子孫」くらいの意味になります。

 本作で言及しているとおり、父のほうのイブン・カルビーは前イスラム期の伝承に詳しく、息子の著書には本人が収集した情報のほか、父から直接聞いた伝承も記されています。子の没年は820年前後で、史料によって819年から823年までの幅がありますが、生年のほうはさらに728年から747年と、ちょっと幅がありすぎる……。『偶像の書』がいつ書かれたのかは不明ですが、生年に20年近くも幅があると、推定できる年代にも幅がありすぎます。まあ本作の時代(8世紀半ば)にまだ書かれていなかったのは確実ですが。
 息子イブン・カルビーの生年は、本作では間を取って730年代後半を想定しています(享年が80代だったという史料もあるので、このくらいが一番確実です)。757年時点で30代後半にさしかかっているイブン・ムカッファよりだいぶ若いが、自ら伝承収集を行って数年になるくらいの年齢になります。。

 イブン・ムカッファはインドの数学・天文学、古代ギリシアの哲学・科学の知識がある(ペルシア語訳で読んでいる)上に、マーニー教を介してユダヤ・キリスト教に加えて仏教の知識もあります。もちろんペルシアの歴史やゾロアスター教についても知っている。しかし本作でも言及しているように、アラブ・ムスリムの異教への無関心は自分たちの先祖の宗教にまで及んでいるので、8世紀前半時点でそれについて知ろうとするなら、相当熱心に古伝承を収集しない限り無理だろうと思われます。
 が、幸いなことに彼と同時代にイブン・カルビー父子がいたわけです。しかも彼らが住んでいたのは、イブン・ムカッファが住むバスラと同じユーフラテス流域の都市クーファです。だからイブン・ムカッファが彼らから情報を得ていた可能性はある。まあバスラとクーファは500キロ近く離れてますけど。

 其の十二の最後のほうで言及したバラーズリー(892年頃没)の『諸国征服史』(花田宇秋・訳 岩波書店)、その第25章「シンドの征服」は、ウマイヤ朝による711年のシンド(西北インドというか、パキスタン)遠征についてです。イブン・ムカッファが『カリーラとディムナ』の原典をはじめとする、インドの物語集について聞き取りをした「シンド人の解放奴隷」は、この遠征以降にシンドから連れて来られたことになります。
 本作では古代インド(シンド)に物語集を3つ挙げ、『カリーラとディムナ』の原典(題名は出していないが『パンチャタントラ』は『カター・サリット・サーガラ(物語の川々は大海に注ぐ)』の一部、
『カター・サリット・サーガラ』は『ブリハット・カター(大いなる物語)』の一部、としています。実際の三者の関係は、其の十一で解説しました。
 で、史実において、『パンチャタントラ』はカシミールで成立したという説が有力で、『カター・サリット・サーガラ』はカシミールで成立したことが確実、『ブリハット・カター』はどこで成立したかは不明、パイシャーチーという言語で書かれた原典も逸失、幾つかの系統の翻訳版が現存するが、完本はカシミールに伝わるものだけなので、原典もこの地域と関係があるかもしれない。
 カシミールは現在の印パ国境地帯に位置します。つまり作中のシンド人解放奴隷が、この地に伝わる物語を口承で知っていた可能性は高い、ということです。

 ちなみにこの遠征の指揮官は、イブン・ムカッファの父をムカッファ(「手萎え」)にしたイラク太守ハッジャージュの娘婿で、イブン・ムカッファを処刑することになるスフヤーンの祖父ヤズィードの讒言によって715年に殺されました。ヤズィードは作中で言及されているようにハッジャージュに恨みがあったので、彼が714年に没すると、直ちに一族や配下の粛清に掛かったのでした。

 この『諸国征服史』は、ムハンマドの没後からウマイヤ朝期までのイスラム帝国の征服活動を記したものですが、何しろ文字記録がほぼ行われていなかった時代なので、情報源は著者バラーズリーの時代まで口承されてきた物語か、8世紀後半(本作より少し後)からようやく書かれるようになった歴史書(多くは現存せず)です。
 そうやって書かれた「シンドの征服」によれば、インダス川支流域のある寺には「預言者アイユーブに似た偶像」が安置されていたそうです。「預言者アイユーブ」は旧約聖書(キリスト教による差別的な呼称ですが、ほかに簡潔な日本語呼称もないので)のヨブのことですね。ムスリムは異教に無頓着なので「ある寺」が仏教のものかヒンドゥーのものかも不明ですが、どちらにせよ、そんな場所にある「ヨブに似た偶像」とは?
 第24章の、ゾロアスター教の曝葬としか思えない葬儀を望んだ「血筋もよく敬虔」なアラブ・ムスリムの指揮官のエピソードでもそうですが、この「ヨブ像」についても訳者の解説は一切ありません。しかしこれ……ガンダーラ美術の「釈迦苦行像」なんじゃないか? 出家直後の6年間の苦行で骨と皮だけに瘦せ衰えた、あの有名な座禅像です。これが神に試されてやつれ果てたヨブに見えたんじゃないかと。ガンダーラ近いし。どうなんですかね?

『諸国征服史』には、この「ヨブ像」も含め、イスラム軍が各地の偶像をどうしたかについては述べられていません。原則としてイスラムは強制改宗は行わないので、侵略時の略奪や破壊を除けば、現地民の信仰は納税と引き換えに保証されます。まあ私的な「異教徒いじめ」はいくらでもあったようですが。
 しかし「ソグドの地」(現在のウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン辺り。本作の時代には「ソグド」と呼ばれる人々の国々があった)では例外的に、組織的な強制改宗が行われました。
 上記のスフヤーンとその祖父ヤズィードは軍人家系のムハッラブ家当主でしたが、その名祖でヤズィードの父(スフヤーンの曽祖父)ムハッラブは698年、上記のイラク太守ハッジャージュによってソグドの地征服の任に就きます。本作でも言及しているように、ムハッラブは軍人としてまあまあ有能だったので、そこそこの成果を上げつつ大過なく生涯を終えました。本作の55年前、702年のことです。
 その跡を継いだヤズィードは、本作で述べているとおり、私腹を肥やすことと身内びいきをすることしか頭にない無能だったので、ハッジャージュはヤズィードを解任して兄弟たちと共に投獄し、クタイバという人物を後任にします。

 クタイバは軍人としては非常に有能で、ソグドの国々を次々と征服していきますが、ナルシャヒーによる11世紀半ばの『ブハラ史』(ブハラは現ウズベキスタンのオアシス都市。アラビア語原典は失われ、12世紀のペルシア語訳が現存。邦訳なし、英訳あり)によれば、 当時の常識に反して住民たちを強制的に改宗させ、多くの宗教施設と偶像を破壊します。ソグド人の抵抗があまりに激しかったからなのか、クタイバが狂信的だったからなのかは不明です。
 その後、ソグド人たちは従順なふりをして、こっそり先祖伝来の神々を拝み続けては、バレて罰せられる、ということを繰り返します(そして罰が厳しすぎて叛乱を起こす)。ちなみにソグド人はペルシア人と同じイラン・アーリア民族で、宗教もゾロアスター教です。ただしサーサーン朝が国家宗教として改革したゾロアスター教は光明神アフラマズダ以外の神々は下級神とし、偶像崇拝も禁止したのに対し、ソグド人はアフラマズダ以外の神々も偶像も大いに崇拝していました。

 一方、投獄されたヤズィードは脱獄し、カリフ後継者候補の一人に取り入ります。この人物が、ハッジャージュ(およびその配下のクタイバ)と対立していたからです。ヤズィードがこの対立を煽ったので、714年にハッジャージュが死んで、翌年にこの後継者候補がカリフになると、大粛清が始まります。上記のシンド遠征の将軍が殺されたのは、この時です。
 次は我が身だと恐れたクタイバは、叛乱を起こします。しかし数ヵ月で鎮圧され、殺されます。ヤズィードはハッジャージュとクタイバの地位を引き継ぎ、大いに権勢を振るい、私腹を肥やすのですが、何しろ無能なのでソグド人の叛乱が相次ぎ、次々と失地しました。他の不正と同様、隠蔽していたのですが、カリフが代替わりすると誤魔化し切れなくなり、本作で述べているとおり、720年に叛乱を起こし、半年で鎮圧されるのでした。

 小ネタは後もう一つ。
 イブン・ムカッファ誕生以前の彼の父親については、ペルシアはファールス地方の名門出身だということと、上述のイラク太守ハッジャージュ(714年没)の下で書記兼徴税吏をしていた、ということくらいしか判っていません。後はダードエという本来の名前のほかにムバーラクというムスリム名も持っているので、改宗者であること、しかし改宗時期は不明であること。イブン・ムカッファの誕生前か幼少期なら、彼のことも改宗させているはずですが、彼の改宗
は父の死の数年後なので、イブン・ムカッファが独り立ちした後であろうと推測できる(おそらく、生まれ育ったイラクのバスラを離れてペルシアに赴任した後)、くらいですかね。
 ペルシアの名門ってことは、古くからの大土地所有者です。彼らは領地支配が巧みだったので、アラブ・ムスリムの征服者たちもペルシアの直接支配ではなく、彼らに任せることを選びました。もちろん改宗も強制しませんでした。
 イブン・ムカッファの父は、若い頃とはいえイラクまで赴いてハッジャージュに仕えてるので、後継ぎでなかったのは確実です。名門でも末端で食い扶持を稼ぐ必要があったのか、でも「あの」ハッジャージュに横領の疑いを掛けられたのに、拷問はされたけれど放免されて、故郷に帰って息子をもうけている。だから当主の弟で兄と折り合いが悪かった、という設定にしました。

 イブン・ムカッファはペルシア生まれではあるものの、幼いうちに、父親はその教育のためにイラクのバスラに移住します。明らかに教育費を惜しまず、しかもイブン・ムカッファはペルシア貴族の洗練を身に着けていたというから、相当裕福に暮らしていたでしょう。片腕が不自由な身で改めてアラブの支配層に仕えられはしなかったでしょうし、一族の援助だけで賄えたとも思えない。
 で、バスラといえば、文化都市というだけでなく、8世紀当時はイスラム世界最大の貿易港です。イスラム成立の遙か以前から、ペルシア人は南海(インド洋、南シナ海)交易を独占していました。アラブ・ムスリムはイラクとペルシアの征服後、南海交易はそのままペルシア商人たちに任せました。
 バスラは638年にアラブ・ムスリムが軍事用に建設しましたが、その後、運河の開削によって港湾都市としても栄えることになります。ペルシア湾から50キロ以上遡った河港で、ティグリス・ユーフラテスを通じた内陸部との物資の往来もありましたが、ここでも南海交易はペルシア人のものでした。
 南海交易に従事するペルシア商人のうち、船舶の所有者を「船主」と言います。船主には①小型船1隻を所有し、自ら船長として乗り組む者、②中型船を何隻か所有し、他人に貸し出す者、③複数人で大型船(4、500人乗り)に共同出資する者、の3タイプがいました。
 本作では、イブン・ムカッファの父は③の船主となり、イブン・ムカッファもその事業を受け継いだ、ということにしました。

 ちなみにペルシア湾の交易のうち、アラビア半島側はアラブも古くから進出していて、特にオマーン地方のアズド族は海上交易で力を付けました。上述のムハッラブ家の先祖はペルシア人の船乗りで、武勇に優れていたためにアズド族に迎え入れられたと伝えられますが、海上交易を通じた繋がりだったんでしょう。

 さて、ペルシア湾-南海交易について最も古くて詳しい史料は、『中国とインドの諸事情』(邦訳あり)です。「第一の書」が本作の約100年後のヒジュラ暦237年(AD851-852)に書かれ、「第二の書」が別の人物によって910年頃に書かれました。著者は2人ともペルシア湾の商人で(おそらくペルシア系)、記載された情報は伝聞だけでなく実体験もあるようです。
 この『中国とインドの諸情報』では、中国(アラビア語で「シーン」)で の産物として絹織物と並んで絵画と工芸品が絶賛されています。もちろんイスラム世界に輸入されていたわけで、当然、風景画(山水画)だけではなく、人物画や花鳥画なども多かったでしょう。
 さらに「第二の書」には、中国「預言者たちの肖像」を目にしたアラブの話があります。
 大いに繁栄したバスラですが、871年に大規模な叛乱の煽りを食らって荒廃してしまいます。バスラの住人でムハンマドの末裔を称する(そう称するムスリムは大勢いた)イブン・ワハブという男は心機一転、シーン行きの船に乗りました。広東(「ハンフー」)の港に着くと、好奇心の赴くまま長安(「フムダーン」)の都まで行きました。そして皇帝の宮殿へ行き、自分はアラブの預言者の血を引くので住居と生活必需品を寄越せ、と要求しました。皇帝はその望みを叶えてやって上で、ハンフーの代官にイブン・ワハブが本当に預言者の末裔か問い合わせます。代官がイブン・ワハブの血統を保証したので、皇帝は謁見を許します。まあ、話を盛っているんでしょう。

 その謁見の席でイブン・ワハブは、皇帝が所持する「数多くの預言者たち」の肖像画を見せられたのだそうです。ノア、モーセ、イエスらの肖像、それに信徒たちとともに駱駝に乗ったムハンマドの絵といったユダヤ・キリスト教およびイスラムの預言者たちに加え、中国およびシンドの預言者たちの絵も多数あったそうです。
 中国およびシンドの預言者たちは、親指と人差し指を合わせたり、人差し指で天を指すなど、さまざまなポーズを取っていたそうで、仏画であろうと推測されています。イブン・ワハブがイエスやムハンマドらだと認識した絵姿も、仏教や儒教、道教関係か、あるいは世俗の人物像だったかもしれません。

 いずれにせよイブン・ワハブは、冒瀆だと憤るどころか、感激のあまり泣き出したそうです。
 クルアーンに次ぐ「第二の聖典」とされるハディース集(ムハンマド言行録)には、ムハンマドが自身の肖像を禁じたとする伝承もありますが、ハディースどころかクルアーンの文言すら、守るか守らないか、あるいはどう解釈するかは時代や国家、集団、個人によってすら異なる、ということなのです。

其の一 と其の二十四

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前回の続き

 前回、印象的なフィクションを読んだり観たりすると、数日以内にその影響を受けた夢を見ることがある、と書きました。起きた時に、「あー、『〇〇〇(作品名)』の影響だな」と思うのですが、その日の昼頃には、思い返して「『〇〇〇』と全然関係ない夢じゃん」と呆れるくらい無関係な内容です。しかし夢を見た直後にそう思ったからそうなんだろう、と思っています。

 そのようにして見る夢は、だいたい鮮明で印象的です(グロいことが多いけど)。なので、そこからインスピレーションを得られることもあります。たとえば『伊藤計劃トリビュート』所収の「にんげんのくに」は、中学生の時に読んだ中井紀夫氏の「見果てぬ風」からでした。少女が「声」に導かれて密林の奥へと向かうと、古代の機械文明の遺跡があって、機械と一体化した「神」がいる、という。
 どこが「見果てぬ風」やねん、という内容ですが、起きた直後にそう思ったんだから、そうなのです。「にんげんのくに」では主人公を少女から少年に変更しましたが、これは新たな部族に遭遇するたびにレイプの危機を回避する過程を書くのがめんどくさかったからです。少女だったとしても、超人的な身体能力を持っている設定なので、襲ってくる「蛮族」をことごとく返り討ちにすれば危機は回避できますが、そのルーティンを書くのがめんどくさかった。
「機械と一体化した神」のほうは、『グアルディア』に取り入れています。

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「はじまりと終わりの世界樹」も、高校生の時に読んだスタージョンの『人間以上』の影響で見た夢から生まれています。「にんげんのくに」以上に、どこが?な無関係さですが、起きた直後にそう思ったんだから、そうなのです。
 頭のおかしい父親が、双子の姉弟の姉だけ連れ去り、姉弟が成長して再会した時には姉は破壊的な力(具体的にどんなものだったかは憶えていない)を得ていて、世界に禍をもたらす……という内容でしたが、どうも「頭のおかしい父親とその娘」が、『人間以上』第1章の父娘(娘は二人だけど)から来ているっぽい。

 フィクションではなく、現実の陰惨なニュースに接すると、そのショックで同じパターンの夢を見ることもありました。内容は毎回、具体的で映画仕立てで、私は私ではなく、その世界の別の誰かになっている(性別・年齢・人種まで違うこともある)。しかし決まって、自らのモラルを試される内容で、決まって強い後悔と罪悪感と自己嫌悪に責め苛まれて目覚め、2、3日は尾を引くという、たいへん疲弊する悪夢です。
 幾つかの作品に、キャラクターがそういう状況に立たされる場面があるのは、そういうわけです。いや、意図して入れているわけではないので、そのキャラクターたちが私の分身とか、そういうことはありませんよ。そう思われるのは気持ち悪いので、絶対にそう思わないでくださいね。
 意図して入れたわけではなく、話の流れでそういう場面が入っただけですが、何回もやってたら、もう件の夢を見ることはなくなりました。あれは本当にしんどい悪夢なので、ありがたい効果でしたね。

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近況

「物語の川々に大海は注ぐ」の解説、書きかけ記事がまだ幾つかあるんですが、ちょっと体調を崩していて、復調したら今度は放っておいたあれこれを片付けるのに忙しくなってしまったのでした。
 そもそも、今年1月に「物語の川々」脱稿直後に盛大に不調になって(重度の貧血でした)、幸いゲラ作業までにはだいぶ持ち直せたんですが、終わったらまたぶり返したので、回復するまで気を紛らわすためにブログで解説記事を書いていたのでした。

 今はまあまあ元気ですが、貧血の根本原因が子宮筋腫なので、近いうちに手術することになるかもしれません。だから今のちに片付けられることは片付けようと頑張っているので、解説記事は後回しです。もうほぼ書き上がって、手直しするだけの記事が3つほどあるんですが、単にめんどくさくて気分が乗らないので上げていません。いずれいろいろ片付いて、元気になったら上げます。

 話は変わりますが、私は何か印象に残るフィクションに接すると、その日の夜か、遅くとも2,3日以内に、その作品に影響された夢を見ます。で、起きた時に「あー、『〇〇〇〇』(作品名)の影響だな」と思います。後からその夢の内容を思い出して、「『〇〇〇〇』と全然関係ないじゃん」と思うこともしばしばですが、起きた直後の判断のほうが正しいのだろうと思っています。
 最近というか数ヵ月前も、アマプラで観た『進撃の巨人』に影響された、なんかエグい夢を見ましたね。起きた直後に「あー、『進撃』の影響だな」と思ったのと、なんかエグかった、ということしか憶えていませんが。

 いや、なんでこんなことを書いているのかというと、私は1980年代以前の小説は読書記録を付けているのですが、今朝、ゲーテの既読作品を確認するために記録を見返していたら、近い時代のサドの『悪徳の栄え』が目に入って……

「こんなものを真面目に読む人がいるとは思えない。残虐行為の描写じゃなくて説明が延々続くだけで、全然えろくないしな。
 長々しい説明に辟易したせいか、地震か津波で崩壊した家の中で、冷蔵庫もしくはアイスボックスに切断された人間の下半身が入っているという夢を見てしまった。発見したのがアメリカ人と思しきジャーナリストの男で、犯人はどうやらイスラム過激派らしいということが判ったところで目が覚めたんだが」

 猟奇的という以外、どこをどう影響されたんだ、という夢ですが、起きた直後にそうだと思ったからそうなんでしょう。

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十二

其の一其の二十一
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 今回は特にネタバレはありません。 紀年は特記がない限りはADです。

 前回述べたように、クルアーンでは美術品としての人・鳥獣の像も音楽も禁じられていません。一方、口伝されてきたムハンマドの言行をまとめた、いわば「第二の聖典」であるハディース集では、前者は明確に否定され、後者はムハンマドには肯定され、彼の義父には否定されています。
 ハディースというのは、それが編纂された9世紀後半から10世紀初頭の社会状況や価値観を反映したものです。クルアーン編纂はムハンマドの死から20年後の7世紀半ばですが、実はムハンマドが約20年かけて授かってきた「預言」として書き留められたり口伝されてきたものを、そっくりそのまま1冊の書物にしたわけではなく、それなりに取捨選択が行われました。だからクルアーンも、ムハンマドの生前というよりは、7世紀半ばの社会状況や価値観を反映したものだと言えます。

 其の二十で見たように、クルアーンでは崇拝対象としての「偶像」(自然物を含めた、あらゆる被造物)と人が作った美術品である「偶像」は明確に区別されていました。しかし前イスラム期のアラブは、この二種の「偶像」を区別しませんでした。どうやら彼らは異民族、特にギリシア・ローマ系の人々が作る「偶像」(神像および美術品)の作成を、アラブすなわち「人間」には不可能な、ジン(前イスラム期においては「神々」とほぼ同義)にだけ可能な文字どおりの「神業」だと信じていたようです。
 イスラムに改宗したからといって、アラブの多くは二種の「偶像」の区別が出来ないままだったようです。そのため区別が出来るアラブたちも、征服した異民族に作らせた人・鳥獣の美術品を自宅などプライベートな空間だけに飾り、公衆の目に触れないよう気を配りました。例えば現存するイスラム初期の建築物のうち、カリフ一族の宮殿は人・鳥獣の像(立体および平面)などで、モスクのような公共施設は植物文様や写実的な家々の絵などで装飾されています。

 ムハンマドが人・鳥獣像を否定するハディースは幾つもありますが、その一つによれば、彼は妻のアーイシャが部屋のカーテンに鳥獣モチーフのものを選んだのを厳しく叱っておきながら、彼女がそのカーテンでクッションカバーを作ると、非常に満足したそうです。これは同じ自宅用ファブリックでも、他人に見られる可能性が高いカーテンは駄目だが、見られる可能性の低いクッションカバーなら問題ない、と解釈することができます。
 つまりイスラムという宗教にとっては、初期において信徒の大半を占めていたアラブが、出来のいい人・鳥獣像を目にすると拝まずにはいられない人々だったため、それらは競合相手として深刻な脅威だったということです。クルアーン編纂から250年ほども経ったハディース編纂の時点で、美術品の人・鳥獣像を見ると拝んでしまうようなアラブ・ムスリムは、さすがにもういなかったと思いますが、危険性の認識はまだ残っていた、といったところでしょう。

 もう一つ、美術品としての人・鳥獣像が禁忌とされた原因と考えられるのは、アラブ至上主義です。
 前イスラム期から、アラブにとってこうした像は音楽と同様、外来のものであり、贅沢品でした。
イスラムが拡大すると、支配者となったアラブ・ムスリムは奴隷や二級市民の異民族に人・鳥獣像を作らせ、歌舞音曲(当然ながら舞踏も非アラブ文化)を行わせました。
 ほかにもいろいろと贅沢をし、アラブ社会全体が享楽的になってきました。そうした風潮を批判したのが、7世紀末頃から登場する「禁欲家たち」です。本作でも言及しています。純血のアラブもいれば非アラブもいましたが、彼らはムハンマドが存命だった時代のイスラム共同体を理想化したので、造形美術も歌舞音曲も「理想化された素朴なアラブの暮らし」に反するものとされたのです。
 特に歌舞音曲は前イスラム期以来、女奴隷(および少年奴隷)によって行われ、酒の席で鑑賞されることが多かったため、偶像崇拝と結び付きやすい造形美術とは別の意味で不信仰と見做されがちでした。

 こうした位置づけであったところに加えて、ハディース集編纂が始まった9世紀後半は、カリフ主導で外来文化の導入が大促進された時代でした。これら外来文化、特に古代ギリシアの哲学・科学の影響により、新しい「合理的な神学」が誕生したのですが、カリフはこれを保護したばかりか、従来の「合理的でない」神学を弾圧しました。
 当然、反発が起こり、それは外来文化にまで及びました。その後の経済的衰退や社会の不安定化から、外来文化はなんであれ忌避する風潮が広まったのです。その流れで造形美術と音楽も「イスラムらしくない」と見做され、現在の原理主義に至るのでした。

 長々と解説してきましたが、造形美術および音楽の忌避という問題で、本作と関係があるのは「イスラムの競合相手」としての側面です。音楽も「競合相手」になります。まあそれについては後日解説の予定で、次回は小ネタの解説です。

其の一其の二十三

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十一

其の一其の二十
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。 紀年は特記がない限りはADです。

 前回述べたように、クルアーンにおける唯一神は、美術品としての人や鳥獣の像を禁止しているどころか、お墨付きを与えているとすら解釈可能です。それなのにイスラムの長い歴史(1400年近く)の中で、美術品としての人や鳥獣の像はしばしば禁忌とされてきました。根拠とされるのは、預言者ムハンマドや最初期の信者たちの言行に関する伝承(ハディース)です。
 ムスリムたちは、ある行為や考えが信仰にもとるかもとらないかを、クルアーンを典拠に判断します。しかしクルアーンだけでは判断しきれないことは、いくらでもあります。そこで第二の「聖なる典拠」とされたのが、ハディースです。

 ここからしばらく、造形美術とも音楽とも関係ない話になりますが、本作の内容とは関係ありますよ。
 オングの『声の文化と文字の文化』によれば、無文字文化から文字文化への移行に時間がかかる大きな理由の一つは、無文字文化の人々の「書かれた言葉」に対する不信感です。何が書かれていようと、自分たちは読めないので。
 アラブは古くから独自の文字を持っていたにもかかわらず、長い間、非常に低い識字率のままでした。ムハンマドはおそらく文盲でしたが「書かれた言葉」に偏見がなく、何人もの書記を身辺に置き、預言を記録させていました。それらの記録が一冊の本(クルアーン)にまとめられたのは、ムハンマドの死(632年)から20年後、彼の後継者(カリフ)の一人、ウスマーンによってです。
 ウスマーン自身は識字能力が高かったと伝えられるので、文字記録の重要性はよく理解していたでしょう。この編纂事業に反対者がいたという記録はありません。そもそも同時代記録がほぼ皆無なんですが、「反対者がいたと伝えられている」という記録も存在しません。
 本作でも言及しましたが、天界には唯一神自らが執筆した、この世の始まりから終わりに至る全被造物の記録があり、クルアーン(およびユダヤ・キリスト教の聖書)はこの「天の書」とか「書物の母」と呼ばれる書物からの抜粋だとされています。「原典」が書籍の形になっているので、クルアーンも書籍の形に編纂することに、それほど抵抗がなかったのでしょう。また当時は、アラブ自身に「アラブは声の文化」という意識が薄かったのではないかと思われます。

 しかし、いったん「クルアーン」というアラビア語の唯一の書物が出来上がってしまうと、それを神聖視するあまり、「クルアーン以外のどんなアラビア語の文章も書き留められるべきではない」と言い出す者が出てきます。領土の拡大とともに必要となってくる行政文書が、7世紀末になるまで異民族の書記たちによって異国語で書かれていたのは、アラビア語で作文できる者が少なかったのが第一の原因ですが、第二の原因は、このクルアーンとアラビア文字の神聖視です。
 各地の現地語で書かれていた行政文書をアラビア語に変えたのが、本作の主人公イブン・ムカッファ(「手萎えの息子」)の父親を拷問で「ムカッファ(手萎え)」にした、イラク太守ハッジャージュです。クルアーン編纂の時と同じく、同時代史料が皆無に近いので、この改革への抵抗があったかなかったのかすら伝わっていません。しかしハッジャージュは非常に有能であるという以上に
、凄まじく苛烈だったというエピソードが数多く伝えられているので、反対者がいたとしても容赦なく潰したでしょうね。

 この改革が8世紀初頭に完了してしばらくすると、本作でも言及しているとおり、前イスラム期以から口承されてきた古詩を書き留めたり、ギリシア語の「アレクサンドロス宛てアリストテレスの手紙」(もちろん偽書)をアラビア語訳したり、といった文学方面での動きも出てきました。
 しかしおよそ100年もの間、口承されてきたハディース(ムハンマドの言行)が書き留められることはありませんでした。知識を口承するには、それらを記憶し、繰り返し暗唱する必要があります。暗記すべき知識が増えれば増えるほど、必要とされる労力も増えていきます。
 
ハディースは他者の批判や自己正当化の根拠として便利なので、早い時期から捏造が盛んに行われていました。真贋を確かめるにはどうしたらいいか。例えばハディースには、ムハンマドが奇跡を行ったエピソードが幾つもあります。しかしクルアーンで唯一神は、クルアーンそのものが奇蹟なのでムハンマドに他の奇蹟を行わせたりしない、と明言している。じゃあ、これらのハディースは贋物だ、と当時のムスリムたちは考えませんでした。このエピソードは〇〇〇〇〇〇〇 (ムハンマドの親戚の一人)が△△△△△△△(初期信徒の一人)に伝え、彼から◇◇◇◇◇◇◇◇(別の初期信徒)から×××××××(◇◇◇◇◇◇◇◇の息子)へ、彼から……という「伝承経路」が明確かどうかで判断しました。絶対にあり得ない内容でも気にしない。

 当然ながら、時代を経るにつれて「伝承経路」も長くなっていきます。上の例で「AからBへ」といった簡潔な記述にしなかったのは、アラブは姓が無いので父称(「〇〇の息子」という意味で「イブン〇〇」)を付けますが、そもそも名前の種類が少ないので「個人名+父称」だけでは区別がつかない。それで「通名」を付けます。本作でも主人公は「アブドゥッラーフ・イブン・ムバーラク」ではなく、通名「イブン・ムカッファ」で呼ばれます。しかし一般的な通名は出身地や氏族名なので、それだけでは区別がつかないことも多い。そこでさらに職業名を足したり、父称ならぬ子称「△△の父」の意で「アブー△△」を足したり、「イブン〇〇・イブン◇◇・イブン××……」と祖父、曽祖父の名前を足していったりする。
 ハディース自体はどれもごく短いエピソードなんですが、この際限なく長くなっていく「伝承経路」もセットで憶えなくてはならない。しかも伝承経路しか信憑性を保証するものがないので、膨大な数の伝承者たちがどんな人物かも憶えておかなければならない。嘘吐きとされる伝承者によるハディースだったら、当然ながら信用できないということになるからです。

『声の文化と文字の文化』で指摘されていますが、文字記録はこのような暗記の労力をすべて「無駄」にしてしまいます。文字の使用が浸透していくにつれて、ハディースの口伝者も自分たちの努力が無に帰す可能性に気づきます。だから殊更に文字記録を見下し、口伝情報こそ尊い、という価値観を形成する。
 イブン・ムカッファ(720年頃-757年頃)が生きたのは、そういう時代でした。
 彼の死から100年以上経った9世紀後半から、ようやくハディース集の編纂が始まります。それはクルアーンの時と違って国家事業ではなく、何人ものハディース学者がそれぞれ個人で行ったもので、何種類ものハディース集が編纂されました。そのうち9世紀末までに編纂されたもの5つ、10世紀初めに編纂されたもの1つが、最も信頼性が高いものとして「六大ハディース集」と称され、現在に至っています。

 六大ハディース集で最初に完成したのは、ブハーリー(870年没)という人物が編纂したものです。彼は編纂作業の第一段階として集められるだけのハディースを集めたのですが、その数は数十万、一説によると百万近かったそうです。
 こういう数字は誇張がつきものですが、イスラム史は中国史に比べればだいぶ誇張が少ない。多少の異同(内容および伝承経路)があるだけの、ほぼ同じ内容のハディースも別々にカウントしているでしょうし、
後述する六大ハディース集の総収録数からしても、百万近くは大袈裟にしても、六桁行ってたのは確実でしょう。
 ブハーリーはそれらの真贋を「精査」し、数千(数え方によって数が変わる)を「厳選」したと伝わっています。
 で、後に続く5人もそれぞれ真贋を「精査」し、数千を「厳選」しています。六大ハディース集に収められたハディースの数は、数え方にもよりますが、だいたい3万8千だそうです。

 6人全員が同じ基準で選んだのなら、6冊とも多少の異同があっても、ほぼ被るはずですが、重複は多いものの、そうでないもののほうが多い。
 要するに真贋の見分け方は、ちゃんとした伝承経路が付いてるかどうかが第一条件なのは間違いないですが、それ以外は編纂者各自の基準でしかないということです。そしてその基準に、史料批判の観点は入っていない。互いに矛盾した内容のハディースは少なくありません。例えば、音楽に肯定的なハディースと肯定的なハディースがそれぞれ複数ある。それもハディース集同士の間ではなく、同じハディース集の中に互いに矛盾したハディースが収められていたりします。6人の編纂者たちの誰一人として、そんなことを気にしなかったということです。

 では伝承経路以外の、どんな基準で選んだのかというと、当時(9世紀後半~10世紀初頭)のムスリムたちに広く受け入れられていたか否か、と考えるのが妥当でしょう。もちろん編纂者個々人が受け入れていたか否か、も重要だったでしょうが。
 現在に至るまで、クルアーンに次いで全ムスリムの行動指針とされてきた数万のハディースのうち、実際にムハンマドの時代からほぼ変わらない内容で語り継がれてきたものは、たぶん皆無ではないでしょう。しかしそれらも含め、すべてのハディースは六大ハディース集編纂当時の価値観を反映したものなのです。

 そして美術品としての人・鳥獣の像と音楽に話を戻すと、前者についてはムハンマドがはっきりと否定しているハディースが、六大ハディース集すべてに収録されています。一方、後者については音楽に言及しているハディースのほとんどは否定も肯定もしておらず、ムハンマドが肯定するハディースが一つ、ムハンマドの妻の父で、後に彼の後継者(カリフ)となったアブー・バクルが否定するハディースが一つあるだけです。

 長くなったので、続きは次回。

其の一其の二十二

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十

其の一其の十九
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 今回、ネタバレは特にありません。 紀年は特記がない限りはADです。

 前回の冒頭で述べたとおり、唯一神の言葉をそのまま書き留めたものであるクルアーンにおいては、人や鳥獣を象った像(絵画でも立体でも)そのものは禁じられていません。禁じられているのは、「偶像崇拝」です。
 というわけで、まずはイスラムにおける偶像崇拝の定義から説明したいと思います。

 ややこしいことに、「偶像」崇拝と訳されてはいますが、厳密に言えば「すべての被造物」が対象になります。つまり唯一神以外のすべてです。だから(人が作った)像はもちろん、自然崇拝(木、山、川、石、天空などから嵐などの自然現象まで)も、ムハンマドをはじめとする預言者および本作(8世紀)より後の時代に登場する「聖者」と呼ばれる人々の墓や遺品も、彼ら自身も、さらには妖霊(ジン)や天使、多神教の神々といった霊的存在も、すべて唯一神の被造物なので崇拝禁止です。
 なお多神教の場合、その神話体系における最高神を唯一神と同一視し、その他の神々をジンや天使のような格下の霊的存在とすることで、ユダヤ教やキリスト教と同じ、「信仰の仕方が少々間違っているが、一応正しい宗教」としてイスラムとの融和を図る例がままあります。ゾロアスター教や仏教は、そういう扱いですね。まあイスラム側と多神教側の双方で、認めていない人が多いんですが。

 前イスラム期のアラブは、外来の一神教への改宗者以外は多神教徒で、クルアーンでもその存在を認められているジン(妖霊)も神々の一種でした(独自の一神教も何種類かあるにはありましたが、あまり影響力はなく、ユダヤ・キリスト教に同化しがちでした)。
 ジンは霊体的なものですが、物体も崇拝対象でした。元来は明らかに自然崇拝で、山、樹木、泉、洞窟等のほか、自然石(巨岩とかではなく石ころ)も神として拝みました。カアバ神殿の「黒石」も、まあその名残でしょう。近くに聖なる泉もある。

 この自然石崇拝が、加工された石への崇拝へと進展しました。加工といっても、立方体や板状にするだけです。アラビア半島では古くから香料生産と海上交易で幾つもの王国が栄えた南部と、遊牧と隊商が中心で発展が遅れていた北部とではだいぶ文化が違うんですが、造形美術を発達させなかった、という点では共通しています。前1世紀、紅海貿易で栄えた北西部のナバテア王国について、ローマの歴史家ストラボンが「浮彫細工、絵画、彫刻は地元では産しない」と記していますが、これはアラビア半島全土に言えることです。
 新石器時代から青銅器時代にかけて、アラビア半島の住民(アラブの先祖かどうかは不明)は多くの岩絵を残しています。しかし前1200年頃、鉄器時代に入ると、造形美術の伝統は途絶えてしまいます。以降のアラブが造る彫像は板状の石に浮彫の目を付けただけの稚拙なもので、岩壁などに刻むのは絵よりも文字でした。
 こうしてカリグラフィーとしてのアラビア文字が発達しましたが、文学にはまったく利用されませんでした。

 ではアラブは造形美術を嫌っていたのかというと、まったくそんなことはなく、ヘレニズム期(前3世紀~)に入ってギリシア風彫刻が入ってくると、熱狂的に愛好しました。
 ナバテアや南アラブの豊かな諸王国では、それまではせいぜい目を彫った石板で表現していたアラブの神々を、ギリシア系の移住者たちに、理想化された人間の姿として彫刻させました。そのような資金も人材も確保できない内陸部のアラブたちは、他所で買ったり略奪してきたギリシア風彫像を、それが本来なんであるのかを無視して、「神」として拝み始めました(「拾ってきた」という伝承も残っています)。ムハンマドが伝道を始めた当時のカアバ神殿には数百体の偶像が安置されていましたが、その多くはこうした彫像だったと思われます。

 このように、外来の彫像を「神」と崇めるほど愛好していたにもかかわらず、なぜかアラブ自身は造形芸術を作ろうとはしませんでした。本当に、理由が不明なんですよね。自分たちには作れないと思い込んでいたかのようです。

 前述したように、神像として作られたのではない人や獣の像も礼拝すれば「偶像崇拝」になります。しかしややこしいことに、これらは礼拝対象ではなくただの美術品としか見做されていなくても、偶像(と邦訳されるアラビア語)と呼ばれます。アラビア語には「偶像」を指す言葉がたくさんありますが、そのうち幾つかは「(美術品としての)彫像」と同義なのです(別の幾つかは、解り易く「おぞましい物」とか「悪魔」と同義です)。
 クルアーン34章ではスライマン(イスラエルの王ソロモンのこと。イスラムでは預言者の一人とされる)が起こした奇蹟について語られますが、そこで彼はジンを使役して(ソロモンが悪魔を使役したというユダヤの民間信仰のアラブ版)「偶像」を作らせ、宮殿を飾ります。ここでの偶像はただの美術品であり、しかもスライマンにジンを操る力を与えたのは、ほかならぬ唯一神なのです。

 ここから解るのは、ますクルアーンにおいては芸術としての人や獣の像は禁止されるどころか、むしろお墨付きを与えられていると言ってもいいほどであること。そして当時のアラブにとって、人や獣の像を作ることはあたかもジンの仕業の如く、超人的な技術だと見做されていたということです。
 つまり当時のアラブは、ギリシア彫刻のように写実的にして理想化された人や獣の像は、自分たちには到底作ることのできない、まさに「神業」だったのです。だからそれらを「神」として拝んだ。
 クルアーンには、「偶像は木石でしかない。そんなものを拝むな」という文言がしばしば現れます。現代人からすると、いや何言ってるの、そんなこと子供でも解るよ、拝まれてるのは偶像そのものじゃなくてそこに宿る「神性」みたいのじゃないの?となりますが、どうも前イスラム期のアラブにとっては偶像は「神が宿るもの」ではなく「神そのもの」だったらしい。

 だから「偶像」という訳語は不正確だと言えます。「偶」は「宿る」という意味ですから。
 クルアーンで語られているアラブの偶像崇拝は6世紀半ば以前のものですが、「木石に過ぎない」像を「神そのもの」とする信仰形態は、さらに何千年も前のメソポタミアと共通しています。しかし古代メソポタミアの人々は、人が作ったと判り切っている像を「神そのもの」と信じ切るのには困難を覚えており、新しく神像を作るたびにそれを「神にする」手の込んだ儀式を行っていました。
 6世紀以前のアラブたちは、古代メソポタミア人よりさらに素朴だったと言えますが、それでも疑問を抱く人は増えつつあり、彼らの多くは政治とは関係なく(国家や氏族が政策としてユダヤ教などに集団改宗することが多かった)、私的にユダヤ・キリスト教等の一神教に改宗していきました。イスラムは、そうした流れの中から生まれてきたのです。

 ムスリムにとってクルアーンは、自分や他の信徒の行動や思考が信仰に適っているかどうかを判断する根拠です。しかしクルアーンだけでは判断がつかない事例は、当初から山ほどありました。
 そこで第二の判断材料とされたのが、ムハンマドおよび最初期の信徒たちの言行です。彼らがある状況や事柄について、こう述べた、あるいはこう行動した、という短いエピソードの数々で、ハディース(物語)と呼ばれました。
 このハディースには、美術品としての人や獣の像(立体でも平面でも)を明確に禁じたものが幾つかあります。その一方で、音楽全般については明確に禁じたものは一つもありません。肯定的に解釈できるものと否定的に解釈できるものが、それぞれあるだけです。

 次回はこれらのハディースも含め、なぜ音楽や造形美術が禁忌とされたのかについて、解説する予定です。

其の一其の二十一

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十九

其の一其の十八
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 今回、ネタバレは特にありません。 紀年は特記がない限りはADです。

   イスラム原理主義が人や鳥獣を象った像(絵画でも立体でも)および音楽を禁忌としているのは、わりと有名だと思います。しかしどちらの禁忌も、彼らが絶対とするクルアーンに根拠はありません。
  クルアーンはユダヤ・キリスト教の聖書と違い、唯一神の言葉をそのまま書き留めたものとされています(だから翻訳すると神の言葉そのままではなくなってしまうので、翻訳版はクルアーンではなく解釈書の類と見做される)。クルアーンで禁止されているのは偶像崇拝で、美術品としての(崇拝対象ではない)人や獣の像は許容されており、音楽(舞踏なども含む)には言及すらしていません。
 なぜ唯一神が禁止していないのに禁忌とされるに至ったのか、研究者も決定的な説明はしていません。あくまで私個人の推測ですが、そもそもイスラム誕生前からアラブ独自の造形美術も音楽も事実上存在しなった、という事実と関係がありそうです。

 前イスラム期(7世紀前半以前)のアラブ独自の芸術はただ一つ、詩(韻文)だけでした(もちろんアラビア語です)。ではその他の芸術分野はどうっだったのか? というわけで、今回は音楽の話をします。
『トーキング・ヘッズ叢書』№.83(Amazonリンク)所収の「禁断の快楽、あるいは悪魔の技」に詳しく書きましたが、アラビア語の歌と詩は元来、境界が不明瞭だったようです。実際、
韻文および押韻散文は、抑揚をつけて朗唱すると、それだけで音楽的になります。韻文は厳格な韻律(押韻、音数などの形式)を持つ文章のことで、韻文詩もこれに含まれます。押韻散文については、とりあえずここでは散文すなわち韻律のない普通の話し言葉だが韻を踏む(押韻の規則性は緩い)と定義します(本来は、アラビア語において韻文・散文と並ぶもう一つの文章形式「サジュウ」に当てられた訳語です)。
 日本語には韻文がないのでイメージし難いかもしれませんが、前者はオペラのレチタティーヴォ、後者はラップ(ただし、どちらも無伴奏)だと考えれば、解り易いかと思います。
 したがって異民族の文化が大量に流入してくるヘレニズム期(前4~前1世紀)より前のアラブ本来の歌は、おそらく単調な単声で無伴奏か単純な打楽器で拍子を取る程度だったと推測されます。
 器楽曲も全然発達しなかったようで、実際、アラブの古典楽器とされるものの多くが、明確に異民族起源です。

 音楽は脳の報酬を活性化しドーパミンの分泌を促すことで、感動や快さをもたらします。それは器楽曲でも歌でも同じですが、歌の場合はそれに加えて、歌詞による感動があります。もちろんこの場合の歌詞は、母語やそれに準ずるくらい充分に理解できる言語のものです。
 そして発声された韻文および押韻散文も、音楽性(押韻のリズムと抑揚)だけでなく「言葉」にも感動できるのだそうですね。詩を「読む」(黙読する)のではなく、「うたわれている」(朗唱する)のを聴くことで生まれる感動です。
 しかし私自身はというと、どうにかヒアリングできる唯一の外国語である英語(だいぶギリギリ)の、それも予め意味を調べておいた韻文詩の朗読を聞いても、全然感動できない(心拍数増加など、ドーパミン分泌による身体反応がない)んですが、日本文化で育って、かつ外国語に堪能な人なら、その言語の韻文に感動できるものなんでしょうかね?

 日本語でラップを作るのが難しいのは、単に日本語が洋楽のリズムに合わせ難いのが大きいのだと思いますが、そもそも韻文どころか和歌の掛詞以上に押韻が発達せず、駄洒落に至っては忌み嫌われている。
 まあ江戸時代までは駄洒落はそんなに嫌われていなかったようなので、日本語の特性というよりは「声の文化」の衰退がもあるでしょう。日本でもかつては五と七の音節から成る(すなわち音数律を持つ)定型詩が、多言語における韻文と同じ効果を持っていたはずですが、現代日本人でその感性を保持している人がどれだけいるのでしょうか。五・七のリズムの言葉の並びを聴くだけで、涙を流すとまでは行かずとも、ドーパミン分泌を増加させ心拍数を上げることのできる感性を保持している人が。
多くの人にとっては、五・七の組み合わせが快い、という程度でしかないでしょう。

 日本語で書かれた文章は絵本やシナリオなどを例外として、ほぼすべて黙読を前提としています。詩集の類も、音読するものとして買う人がどれくらいいるのか。一方、欧米では詩だけでなく小説の朗読会が盛んで、オーディオブックもよく売れています。
 つまり欧米のほうが日本よりは「声の文化」が色濃いと言えますが、欧米人(のアラブ文化研究者)にとっても、アラビア語古典文学で多用される掛詞は駄洒落に感じられてしまうそうです。

 音楽に必要な知覚能力は、リズムの認識とメロディの認識に大別できるそうです。リズムの認識は大脳左半球および大脳基底核、小脳その他広範囲の領域が担っていますが、メロディの認識は右半球に神経基盤があります。で、言語の使用には知覚能力(音それ自体に加え、リズムやメロディの認識)や運動制御に加え、何よりも抽象化能力が必要ですが、これは左半球に依存します。
 左半球に先天的または後天的な障害があると言語能力が阻害される代わりに高い音楽能力を発現する例が多く、また定型発達においても幼児期の高い音楽能力が左半球の発達に伴って失われる例が見らるそうです。このことから、左半球が右半球の音楽能力を抑制していると考えられます。
 またネアンデルタール人の抽象化能力は低かったらしいことからも、音楽能力は言語能力より先に進化したと見ていいでしょう。そんでもって、最初の「音楽」は声を楽器としたハミングやスキャットの類でしょうね。手拍子や足拍子、その辺の物を叩いてリズムを取るのも早かったのではないでしょうか。

 言語能力と音楽能力が別々に進化したものとはいえ、発話にはリズムや抑揚の認識も必要なので、音楽能力がまったく無関係なのではない。しかしメロディに言葉を巧く乗せるには、共に高度な言語能力と音楽能力が必要です。だから詩と「歌詞のある歌」は、共に「抑揚を付けた語り」を起源とすると思われます。
 そして詩がリズムを重視して韻律(あるいは韻のみ、律のみ)を発達させ、歌はメロディを重視して複雑化した上に伴奏をつけたりするようになった。その結果、歌詞が聞き取りづらい歌が多くなった。

 古代のアラブが詩を発達させた代わりに歌および器楽曲を発達させなかったのは、「言葉の聞き取りやすさ」を重視した結果だと思われます。この「言葉(アラビア語)による情動喚起」を何より重視したために、彼らは音楽のみならず造形美術も発達させず、絵や彫刻よりもカリグラフィーを好みました。
 本作でイブン・ムカッファは、書物の一冊も持たないほどアラブの文字文化は未発達だったのに、長大な聖典(クルアーン)を書き起こせるだけの表記体系がすでに存在していたことに改めて驚嘆しています。どうやら古代のアラブは、岩などに碑文を刻むために美しい形のアラビア文字を発達させたようです。とはいえイスラム誕生以前は、独自の芸術と呼べるほどには発展していませんでしたが。

 なぜ彼らはここまでアラビア語にこだわったのか。誰も明確な説明はできていません。また彼らが音楽全般を嫌いだったのかというと、まったくそんなことはありませんでした。流入してきた異民族の音楽に、彼らは夢中になるのです。しかし異民族の音楽家(主に奴隷)に演奏させたり歌わせたりするばかりで、アラブ自身が演奏したり歌ったりするのはもちろん、独自の音楽を作り出す動きは、ないわけではなかったものの、ごく鈍いものでした。
 これらの問題について、またそれほど音楽好きのアラブの人々がそれを禁忌とするに至ったかについては、後日解説の予定です。とりあえず次回は、造形美術について。

其の一其の二十

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