『ローズマダー』に見るハーレクイン・ロマンス観
前回の記事ではスティーヴン・キングの『ミザリー』におけるハーレクイン・ロマンス観を論じた。今回は同じくキングの『ローズ・マダー』(1995)。確認のため一応再読してますが、通読はしてないのでカテゴリー「思い出し鑑賞記」。ネタバレ注意。
夫のDVを受け続けていたヒロイン、ロージーもまた、ハーレクイン・ロマンスを愛読していた。しかも例として挙げられているのは、ポール・シェルダンのミザリー・シリーズである(いわゆる「キング・ワールド」)。
ただし彼女はこの趣味がDV夫に「露見」して、流産するまで殴られる羽目になる。夫はその理由を、この手の本は「屑」(トラッシュ)だからと述べる。
以来、ロージーはハーレクイン・ロマンスには一切近づかず、10年後に家を出て逃げ込んだ先のシェルターで偶然遭遇してしまった時には、トラウマが呼び覚まされてしまう。
ロージーの前にハーレクイン・ロマンス(奇しくも同じミザリー・シリーズ)を持ち出したのは、シェルターを運営するアンナという女性である。彼女はこのジャンルを「ボディス・リッパー」(ヒロインの衣服が引き裂かれるのがお約束の官能ロマンス。訳文では「ロマンス小説」となっていたが)と呼び、「屑」(トラッシュ)だと断じる。なぜなら、このような本の中の世界では、あらゆる物事にきちんと理由があり、あらゆる物事がきちんと説明されるからだ。
現実の世界では、物事には理由がないことのほうが多い。それなのに多くの人が、あらゆる物事に理由があると考えたがり、アンナはそれが嫌いだ。
しかしハーレクイン・ロマンスの世界では、あらゆる物事に理由があるのが真実であり、だから「心が安らぐ」。「ほんのつかのまとはいえ、神は正気で、本のなかでは自分が好きな人に災難が降りかかることはないと信じさせてくれる」だからだとアンナは言う。
しかしそれゆえにこの手の本は「屑」であり、しかし「太ることはないからチョコレートよりましだし、出てくる男も現実の男よりまし(現実に女を煩わすことはないから)」なのである。だからアンナはこのジャンルをこっそり愛読し、「わたしの秘密の悪癖」と呼ぶ。
実際、ハーレクイン・ロマンスに代表されるフォーミュラ(型に嵌まった)・ロマンスに対するアメリカでの一般的な評価は、「屑」(トラッシュ)である。肯定的な評価でさえ、文学的な価値は不問にし、日常的にストレスに晒されている女たちにとっての「慰め」の機能を持つ、というものだ。
総合すると「カロリーゼロのジャンク(屑)フード」といったところだろう。ジャンクフードは短期的だがストレス解消の効能がある。カロリーゼロなら、長期的にはともかく短期的には何も悪いことはなさそうである。アンナが言うように、「チョコレートと違って太らない」。普通のジャンクフードだったら短期でも太るからな。
後述するように、ロージーはこのアンナのハーレクイン・ロマンス論には特に感銘を受けないのだが、物語的にはこの「秘密の悪癖」をロージーに明かすことによって、アンナは聖女でも偽善者でもなく、高潔だが平凡な弱さや愚かしさも併せ持ったバランスの取れた人間として示される。そのための小道具というハーレクイン・ロマンスの扱いは、『ミザリー』に比べてだいぶよいように思われる。
ただしこの場面が置かれているのは、まだ全体の4分の1のあたりだ。ロージーが新しい人生を始める一方で、DV夫は彼女の行方を追い、その過程で次々と殺人を犯していくのだが、終盤間近、その手はアンナにも及ぶ。
殺害の場面はアンナ自身の視点で叙述されるのだが、殺人鬼に荒々しく抱き竦められたその時、彼女がつい連想するのはハーレクイン・ロマンスお約束の熱い抱擁であり、死の直前、彼女の脳裏を掠めるのは、ミザリー・シリーズのヒロインにならこんな理不尽でおぞましい災難が降りかかるはずがない、という思いだ。
アンナが殺人鬼に遭遇する少し前から、彼女の視点で物語は進んでいくのだが、そこで彼女が実はハーレクイン・ロマンスの愛読という「秘密の悪癖」よりも、もっと深い「秘密」を抱いていると明かされる。それはシェルター運営の成功が、彼女の虚栄心を満たしているだけでなく、さらなる成功と称賛も望んでいる、ということである。
まあ罪深いというほどではないが褒められた心持ちでないのは確かで、つまり彼女は自分で思わせたがっているよりもさらに愚かで卑小な人間だった、ということになる。
このように、さらなる弱さや愚かしさ(ただし罪や汚点と呼ぶにはあまりにも軽い)が明かされることで、アンナをより身近に感じて直後の殺害場面の衝撃をより重く受け止めるか、それとも「バカ女ざまあ」と快哉を上げるか、それは読者次第だが(キングはどっちの効果も狙ってそうである)、ハーレクイン・ロマンスという小道具に注目すれば、殺害場面でわざわざアンナに思い起こさせることで、彼女の愚かしさをさらに強調している。
そして改めてヒロインのロージーとハーレクイン・ロマンスとの関係に立ち戻ってみれば、彼女自身がこの手の小説をどう思っているかは、一切言及されない。この手の「屑」を読んでいたからと言って夫は彼女を流産するまで殴ったが、殴る口実があればなんでもよかったのだと彼女は思う。
それはそのとおりなのだが、しかしロージーを追うDV夫の回想によれば、彼女はミステリ小説を愛読し続けていた。そんな「屑」を読むのをやめろ、と彼は言い聞かせ続けた――おそらく言葉だけでなく拳も使ったのであろうが、彼女が文字どおりの半死半生になり、その後は目にするだけでフラッシュバックを引き起こすほど「厳しく」言い聞かせはしなかった。つまりは読み続けることを許した(ただしなぜか、ロージー自身がミステリ好きを表明する記述はない。私の読み落としかもしれんが)。
ハーレクイン・ロマンスは確かに口実に過ぎなかったが、もしその「口実」がミステリ小説だったら、巻頭に置かれたあの場面のインパクトも彼女の惨めさも、あれほど強烈ではなかったのは間違いない。
そして上記の、アンナがハーレクイン・ロマンス論を語る場面、ロージーのフラッシュバックというかたちで流産の場面が生々しく再現されるが、彼女自身がアンナの御立派な評論をどう思ったかもまた、一切述べられない。
アンナの御高説のうちロージーが賛同するのは、「現実においては、なんにでも理由があるわけではない」という部分だけである。しかもその際、彼女が思い浮かべるのは、「夫の暴力には理由などない」という、長年かけて文字どおり骨身に叩きこまれた真実だ。
夫や恋人に虐待される多くの女性たちを、アンナは救ってきた。その過程で、「理由のない災難」を嫌と言うほど見聞きしてきただろう。妻や恋人を所有物と見做して取り返そうとする男たちに、脅迫や嫌がらせもされただろうし(命の危険まではなかったにせよ)、そこまでしても救えなかった女性もいるだろう。
それは確かに逃げ出したくなるほどの大変な経験であるが、しかし結局のところ、虐待されているのはアンナ自身ではない。逃げることができなければ死ぬまで殴り続けられる人生に、ハーレクイン・ロマンスは「慰め」となり得るのか?
この問いに対するキングの答えは明白である。アンナの説く、「慰めを与える」というハーレクイン・ロマンス有用説に、ロージーは完全に無反応であり、その代わりに夫の暴力を生々しく回想する。
ロージーが流産させられたのは、結婚5年目の頃である。それまでは彼女も、ハーレクイン・ロマンスという「カロリーゼロのジャンクフード」に「慰め」を得ていたのだろう。仮に夫に「露見」することがなければ、そのまま読み続けていたはずである。苛酷な日々ももう少し耐えやすくなっていたかもしれない。
その結果、彼女は逃げ出すことなく、自分が殺されるか夫が運よくぽっくり逝くかするまで耐え続けたかもしれない……とまでは言わないが、いわば重病人に「カロリーゼロのジャンクフード」を与え続けるようなものである。短期的な「慰め」にはなっても、「救い」には決してならない。
生々しい暴力の回想を背景に、アンナの「慰め」理論は実に虚しく響く。アンナは、ロージーが必死に動揺を押し隠しているのを、ちょっと上の空になっているくらいにしか思わない。
さて、ロージーの夫は、なぜ彼女の愛読書として三文ミステリ小説は許して、三文ロマンス小説は許さなかったのだろうか。
一つには同じ三文小説でも、(少なくともアメリカでは)ミステリよりロマンスが「より屑」と見做されているからだが、それだけではない。以前の記事で述べたように、ロマンス(『パミラ』以降の)とは「女が必ず男に勝つ話」なのだ。
欧米における「愛」(愛と恋の区別はない)とは男女間闘争でもあると同時に、キリスト教においても、もっと近現代的な道徳においても「絶対善」である。だから「ロマンス」(悲恋も含む「恋愛もの」全般ではなく、結婚がゴールにしてハッピーエンド)とは、「恋愛という名の男女間闘争で女が必ず勝つ話」であり、また「婚外交渉という悪行を繰り返す男を、愛という絶対善の戦士である女が必ず改心させる話」でもある。
これは女から見た場合であり、男にとっては「恋愛という名の男女間闘争で男が必ず負ける話」であり、「婚外交渉し放題という特権を持つ男を、愛という絶対善を笠に着た女が必ず屈服させる話」である。
もちろんそんなことを意識してハーレクイン・ロマンスを読んでいる女性読者は、いたとしてもごくわずかだろう。何しろこのジャンルでは、なんであれ「剝き出し」は忌避されるらしい。アンナが述べるように、登場人物たちに「理由のない災難」が降りかかることは決してない。露骨な暴力描写がないのと同様、露骨な性描写もない。セックスはひたすら情熱的だが具体性のない言葉で描写される。
当然、男を屈服させ支配せんとする女の欲望も、露骨に描かれることはない。ヒロインの容姿や性格も、一部の例外を除き、地味で控えめだということになっている。
しかし男たちは女たちのこの欲望に、自覚の有無にかかわらず気づいているのではないだろうか。欧米におけるハーレクイン・ロマンスへのバッシングの激しさは、「くだらないから」という理由だけでは説明がつかない。
だから『ローズマダー』の巻頭、ロージーが流産するまで殴られた「きっかけ」は、他のどんなジャンルでもなくハーレクイン・ロマンスでなくてはならなかった。大量の血を流して倒れている彼女の傍らに、引き裂かれて散らばっているペーパーバックは、ハーレクイン・ロマンスでなくてはならなかった。女を屈服させ支配せんとする「男の欲望」の権化であるこのDV夫が、「女の欲望」の結晶であるハーレクイン・ロマンスを「許す」はずがないのだ。
ところで、アンナがハーレクイン・ロマンス論を述べる気になったのは、ロージーに見せられた1枚の油絵をに触発されたためである。ローズマダー(赤紫色)のドレスを着た女の後ろ姿を描いているのだが、どこか煽情的であり、それがハーレクイン・ロマンスを連想させたというのだ。
この絵が「異界」(文字どおりの)への入り口となり、物語はサイコサスペンスからダークファンタジーへと舵を切る。この転換には賛否両論あるが、キングは安易に幻想世界を持ち出してきたわけではない。絵の中の世界は暗くおどろおどろしく、狂気と恐怖に満ちている。
この「絵の中の世界」とその女王、ローズマダーは、つまるところ「女の欲望」の象徴である。『ミザリー』についての記事で、アニーが耽溺するハーレクイン・ロマンスは、男を支配せんとする女の欲望の象徴だと述べた。
女の欲望をソフトにソフトに糊塗したハーレクイン・ロマンスでは、女を屈服させ支配せんとする男の欲望には対抗しえない。思うにキングは、そんな男の欲望に対抗し得る「ロマンス小説」を書こうとしたのではなかろうか。だから男の欲望も女の欲望も、包み隠さず剝き出しに描いた。
ただし「剝き出し」に描いたことで、ハーレクイン・ロマンス――とこの記事で通称してきたが、英語圏で言うところの「フォーミュラ(型に嵌まった)・ロマンス」の型からは完全に外れてしまっている。『ミザリー』では、ハーレクイン・ロマンス(フォーミュラ・ロマンス)という「屑」を文字どおり命懸けで書かざるを得なくなったポール・シェルダンは、それを傑作へと昇華するのだが、しかしやはりフォーミュラ・ロマンスの型からは大きくかけ離れてしまっている。
『ローズマダー』に話を戻すと、フォーミュラ・ロマンスという「定型」からは外れてしまってはいるものの、あくまでも「ロマンス」である以上、「男の欲望の権化」がDV夫という「現実世界の住人」であるのに対して、「女の欲望の権化」をロージー自身ではなくローズマダーという「異世界の住人」にした、つまりロージーから切り離して「外部化」したのは必然的な処置である。「女の欲望の権化」を「現実世界の住人」として設定したら、まんまアニーだからね。それはさすがにキングの手腕をもってしても、ロマンスにはならんでしょう(少なくとも大多数が認められるロマンスにはならない)。
それとはまた別に、キングの意図は『ローズマダー』を「すべての女を救い得る寓話」にすることだったのではないか、と私は思うのである。そのために、「ロマンス」というジャンルを借りたのではないか。そもそも「女が必ず勝つ物語」としてのロマンスの元祖である『パミラ』からして、作者のサミュエル・リチャードソンは寓話として書いたのだ。
まあこれについては後日、別の記事で。
言わずもがなのことですが、私自身がハーレクイン・ロマンスに代表されるフォーミュラ・ロマンスをこのように見做しているのではなく、アメリカのフォーミュラ・ロマンス観を踏まえた上で『ローズマダー』を読むとこういう解釈できる、という話です。自分の意見を持てるほど、このジャンルは読んでないんで。
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