『ローズマダー』に見るハーレクイン・ロマンス観

 前回の記事ではスティーヴン・キングの『ミザリー』におけるハーレクイン・ロマンス観を論じた。今回は同じくキングの『ローズ・マダー』(1995)。確認のため一応再読してますが、通読はしてないのでカテゴリー「思い出し鑑賞記」。ネタバレ注意。

 夫のDVを受け続けていたヒロイン、ロージーもまた、ハーレクイン・ロマンスを愛読していた。しかも例として挙げられているのは、ポール・シェルダンのミザリー・シリーズである(いわゆる「キング・ワールド」)。
 ただし彼女はこの趣味がDV夫に「露見」して、流産するまで殴られる羽目になる。夫はその理由を、この手の本は「屑」(トラッシュ)だからと述べる。
 以来、ロージーはハーレクイン・ロマンスには一切近づかず、10年後に家を出て逃げ込んだ先のシェルターで偶然遭遇してしまった時には、トラウマが呼び覚まされてしまう。

 ロージーの前にハーレクイン・ロマンス(奇しくも同じミザリー・シリーズ)を持ち出したのは、シェルターを運営するアンナという女性である。彼女はこのジャンルを「ボディス・リッパー」(ヒロインの衣服が引き裂かれるのがお約束の官能ロマンス。訳文では「ロマンス小説」となっていたが)と呼び、「屑」(トラッシュ)だと断じる。なぜなら、このような本の中の世界では、あらゆる物事にきちんと理由があり、あらゆる物事がきちんと説明されるからだ。
 現実の世界では、物事には理由がないことのほうが多い。それなのに多くの人が、あらゆる物事に理由があると考えたがり、アンナはそれが嫌いだ。
 しかしハーレクイン・ロマンスの世界では、あらゆる物事に理由があるのが真実であり、だから「心が安らぐ」。「ほんのつかのまとはいえ、神は正気で、本のなかでは自分が好きな人に災難が降りかかることはないと信じさせてくれる」だからだとアンナは言う。
 しかしそれゆえにこの手の本は「屑」であり、しかし「太ることはないからチョコレートよりましだし、出てくる男も現実の男よりまし(現実に女を煩わすことはないから)」なのである。だからアンナはこのジャンルをこっそり愛読し、「わたしの秘密の悪癖」と呼ぶ。

 実際、ハーレクイン・ロマンスに代表されるフォーミュラ(型に嵌まった)・ロマンスに対するアメリカでの一般的な評価は、「屑」(トラッシュ)である。肯定的な評価でさえ、文学的な価値は不問にし、日常的にストレスに晒されている女たちにとっての「慰め」の機能を持つ、というものだ。
 総合すると「カロリーゼロのジャンク(屑)フード」といったところだろう。ジャンクフードは短期的だがストレス解消の効能がある。カロリーゼロなら、長期的にはともかく短期的には何も悪いことはなさそうである。アンナが言うように、「チョコレートと違って太らない」。普通のジャンクフードだったら短期でも太るからな。

 後述するように、ロージーはこのアンナのハーレクイン・ロマンス論には特に感銘を受けないのだが、物語的にはこの「秘密の悪癖」をロージーに明かすことによって、アンナは聖女でも偽善者でもなく、高潔だが平凡な弱さや愚かしさも併せ持ったバランスの取れた人間として示される。そのための小道具というハーレクイン・ロマンスの扱いは、『ミザリー』に比べてだいぶよいように思われる。
 ただしこの場面が置かれているのは、まだ全体の4分の1のあたりだ。ロージーが新しい人生を始める一方で、DV夫は彼女の行方を追い、その過程で次々と殺人を犯していくのだが、終盤間近、その手はアンナにも及ぶ。
 殺害の場面はアンナ自身の視点で叙述されるのだが、殺人鬼に荒々しく抱き竦められたその時、彼女がつい連想するのはハーレクイン・ロマンスお約束の熱い抱擁であり、死の直前、彼女の脳裏を掠めるのは、ミザリー・シリーズのヒロインにならこんな理不尽でおぞましい災難が降りかかるはずがない、という思いだ。

 アンナが殺人鬼に遭遇する少し前から、彼女の視点で物語は進んでいくのだが、そこで彼女が実はハーレクイン・ロマンスの愛読という「秘密の悪癖」よりも、もっと深い「秘密」を抱いていると明かされる。それはシェルター運営の成功が、彼女の虚栄心を満たしているだけでなく、さらなる成功と称賛も望んでいる、ということである。
 まあ罪深いというほどではないが褒められた心持ちでないのは確かで、つまり彼女は自分で思わせたがっているよりもさらに愚かで卑小な人間だった、ということになる。

 このように、さらなる弱さや愚かしさ(ただし罪や汚点と呼ぶにはあまりにも軽い)が明かされることで、アンナをより身近に感じて直後の殺害場面の衝撃をより重く受け止めるか、それとも「バカ女ざまあ」と快哉を上げるか、それは読者次第だが(キングはどっちの効果も狙ってそうである)、ハーレクイン・ロマンスという小道具に注目すれば、殺害場面でわざわざアンナに思い起こさせることで、彼女の愚かしさをさらに強調している。

 そして改めてヒロインのロージーとハーレクイン・ロマンスとの関係に立ち戻ってみれば、彼女自身がこの手の小説をどう思っているかは、一切言及されない。この手の「屑」を読んでいたからと言って夫は彼女を流産するまで殴ったが、殴る口実があればなんでもよかったのだと彼女は思う。
 それはそのとおりなのだが、しかしロージーを追うDV夫の回想によれば、彼女はミステリ小説を愛読し続けていた。そんな「屑」を読むのをやめろ、と彼は言い聞かせ続けた――おそらく言葉だけでなく拳も使ったのであろうが、彼女が文字どおりの半死半生になり、その後は目にするだけでフラッシュバックを引き起こすほど「厳しく」言い聞かせはしなかった。つまりは読み続けることを許した(ただしなぜか、ロージー自身がミステリ好きを表明する記述はない。私の読み落としかもしれんが)。
 ハーレクイン・ロマンスは確かに口実に過ぎなかったが、もしその「口実」がミステリ小説だったら、巻頭に置かれたあの場面のインパクトも彼女の惨めさも、あれほど強烈ではなかったのは間違いない。

 そして上記の、アンナがハーレクイン・ロマンス論を語る場面、ロージーのフラッシュバックというかたちで流産の場面が生々しく再現されるが、彼女自身がアンナの御立派な評論をどう思ったかもまた、一切述べられない。
 アンナの御高説のうちロージーが賛同するのは、「現実においては、なんにでも理由があるわけではない」という部分だけである。しかもその際、彼女が思い浮かべるのは、「夫の暴力には理由などない」という、長年かけて文字どおり骨身に叩きこまれた真実だ。

 夫や恋人に虐待される多くの女性たちを、アンナは救ってきた。その過程で、「理由のない災難」を嫌と言うほど見聞きしてきただろう。妻や恋人を所有物と見做して取り返そうとする男たちに、脅迫や嫌がらせもされただろうし(命の危険まではなかったにせよ)、そこまでしても救えなかった女性もいるだろう。
 それは確かに逃げ出したくなるほどの大変な経験であるが、しかし結局のところ、虐待されているのはアンナ自身ではない。逃げることができなければ死ぬまで殴り続けられる人生に、ハーレクイン・ロマンスは「慰め」となり得るのか?
 この問いに対するキングの答えは明白である。アンナの説く、「慰めを与える」というハーレクイン・ロマンス有用説に、ロージーは完全に無反応であり、その代わりに夫の暴力を生々しく回想する。

 ロージーが流産させられたのは、結婚5年目の頃である。それまでは彼女も、ハーレクイン・ロマンスという「カロリーゼロのジャンクフード」に「慰め」を得ていたのだろう。仮に夫に「露見」することがなければ、そのまま読み続けていたはずである。苛酷な日々ももう少し耐えやすくなっていたかもしれない。
 その結果、彼女は逃げ出すことなく、自分が殺されるか夫が運よくぽっくり逝くかするまで耐え続けたかもしれない……とまでは言わないが、いわば重病人に「カロリーゼロのジャンクフード」を与え続けるようなものである。短期的な「慰め」にはなっても、「救い」には決してならない。
 生々しい暴力の回想を背景に、アンナの「慰め」理論は実に虚しく響く。アンナは、ロージーが必死に動揺を押し隠しているのを、ちょっと上の空になっているくらいにしか思わない。

 さて、ロージーの夫は、なぜ彼女の愛読書として三文ミステリ小説は許して、三文ロマンス小説は許さなかったのだろうか。
 一つには同じ三文小説でも、(少なくともアメリカでは)ミステリよりロマンスが「より屑」と見做されているからだが、それだけではない。以前の記事で述べたように、ロマンス(『パミラ』以降の)とは「女が必ず男に勝つ話」なのだ。
 欧米における「愛」(愛と恋の区別はない)とは男女間闘争でもあると同時に、キリスト教においても、もっと近現代的な道徳においても「絶対善」である。だから「ロマンス」(悲恋も含む「恋愛もの」全般ではなく、結婚がゴールにしてハッピーエンド)とは、「恋愛という名の男女間闘争で女が必ず勝つ話」であり、また「婚外交渉という悪行を繰り返す男を、愛という絶対善の戦士である女が必ず改心させる話」でもある。

 これは女から見た場合であり、男にとっては「恋愛という名の男女間闘争で男が必ず負ける話」であり、「婚外交渉し放題という特権を持つ男を、愛という絶対善を笠に着た女が必ず屈服させる話」である。
 もちろんそんなことを意識してハーレクイン・ロマンスを読んでいる女性読者は、いたとしてもごくわずかだろう。何しろこのジャンルでは、なんであれ「剝き出し」は忌避されるらしい。アンナが述べるように、登場人物たちに「理由のない災難」が降りかかることは決してない。露骨な暴力描写がないのと同様、露骨な性描写もない。セックスはひたすら情熱的だが具体性のない言葉で描写される。
 当然、男を屈服させ支配せんとする女の欲望も、露骨に描かれることはない。ヒロインの容姿や性格も、一部の例外を除き、地味で控えめだということになっている。

 しかし男たちは女たちのこの欲望に、自覚の有無にかかわらず気づいているのではないだろうか。欧米におけるハーレクイン・ロマンスへのバッシングの激しさは、「くだらないから」という理由だけでは説明がつかない。
 だから『ローズマダー』の巻頭、ロージーが流産するまで殴られた「きっかけ」は、他のどんなジャンルでもなくハーレクイン・ロマンスでなくてはならなかった。大量の血を流して倒れている彼女の傍らに、引き裂かれて散らばっているペーパーバックは、ハーレクイン・ロマンスでなくてはならなかった。女を屈服させ支配せんとする「男の欲望」の権化であるこのDV夫が、「女の欲望」の結晶であるハーレクイン・ロマンスを「許す」はずがないのだ。

 ところで、アンナがハーレクイン・ロマンス論を述べる気になったのは、ロージーに見せられた1枚の油絵をに触発されたためである。ローズマダー(赤紫色)のドレスを着た女の後ろ姿を描いているのだが、どこか煽情的であり、それがハーレクイン・ロマンスを連想させたというのだ。
 この絵が「異界」(文字どおりの)への入り口となり、物語はサイコサスペンスからダークファンタジーへと舵を切る。この転換には賛否両論あるが、キングは安易に幻想世界を持ち出してきたわけではない。絵の中の世界は暗くおどろおどろしく、狂気と恐怖に満ちている。

 この「絵の中の世界」とその女王、ローズマダーは、つまるところ「女の欲望」の象徴である。『ミザリー』についての記事で、アニーが耽溺するハーレクイン・ロマンスは、男を支配せんとする女の欲望の象徴だと述べた。
 女の欲望をソフトにソフトに糊塗したハーレクイン・ロマンスでは、女を屈服させ支配せんとする男の欲望には対抗しえない。思うにキングは、そんな男の欲望に対抗し得る「ロマンス小説」を書こうとしたのではなかろうか。だから男の欲望も女の欲望も、包み隠さず剝き出しに描いた。
 ただし「剝き出し」に描いたことで、ハーレクイン・ロマンス――とこの記事で通称してきたが、英語圏で言うところの「フォーミュラ(型に嵌まった)・ロマンス」の型からは完全に外れてしまっている。『ミザリー』では、ハーレクイン・ロマンス(フォーミュラ・ロマンス)という「屑」を文字どおり命懸けで書かざるを得なくなったポール・シェルダンは、それを傑作へと昇華するのだが、しかしやはりフォーミュラ・ロマンスの型からは大きくかけ離れてしまっている。

『ローズマダー』に話を戻すと、フォーミュラ・ロマンスという「定型」からは外れてしまってはいるものの、あくまでも「ロマンス」である以上、「男の欲望の権化」がDV夫という「現実世界の住人」であるのに対して、「女の欲望の権化」をロージー自身ではなくローズマダーという「異世界の住人」にした、つまりロージーから切り離して「外部化」したのは必然的な処置である。「女の欲望の権化」を「現実世界の住人」として設定したら、まんまアニーだからね。それはさすがにキングの手腕をもってしても、ロマンスにはならんでしょう(少なくとも大多数が認められるロマンスにはならない)。

 それとはまた別に、キングの意図は『ローズマダー』を「すべての女を救い得る寓話」にすることだったのではないか、と私は思うのである。そのために、「ロマンス」というジャンルを借りたのではないか。そもそも「女が必ず勝つ物語」としてのロマンスの元祖である『パミラ』からして、作者のサミュエル・リチャードソンは寓話として書いたのだ。
 まあこれについては後日、別の記事で。

 言わずもがなのことですが、私自身がハーレクイン・ロマンスに代表されるフォーミュラ・ロマンスをこのように見做しているのではなく、アメリカのフォーミュラ・ロマンス観を踏まえた上で『ローズマダー』を読むとこういう解釈できる、という話です。自分の意見を持てるほど、このジャンルは読んでないんで。

関連記事:「『ミザリー』に見るハーレクイン・ロマンス観」
     「男女間闘争としてのロマンス」

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『ミザリー』に見るハーレクイン・ロマンス観

 今、「シークもの」読んでます。
 ……つらいです。つくづく恋愛小説は性に合いません。読者レビューなどを参考に、このジャンルの「典型」だと判断した3冊を読むことにしたんですが、1冊読んでは気力をごっそり削られ、他ジャンル(主にSF)を何冊も読んで回復してから次の1冊に挑んでいます。
 というわけで、「シークもの」評はもう少し先になります。

 さて今回は、アメリカでは一般的にハーレクイン・ロマンスすなわち女性向け紋切り型量産ロマンスがどのように評価されているのか、翻訳小説を例に見ていきたいと思います。一応ネタバレ注意。

 まずはスティーヴン・キングの『ミザリー』(1987)。主人公のポール・シェルダンは、女性向け通俗ロマンス「ミザリー・シリーズ」の作者である。このシリーズはハーレクイン・ロマンス・レーベルから出ているとされてはいないものの、「女性向け紋切り型量産ロマンス」なのは明白で、ポールの口を借りてその「くだらなさ」を散々に腐される。彼が志向するのは、「文学的」な作品である。
 尾崎俊介氏によると、ロマンス作家はごく少数の例外を除いてほぼ全員が女性だそうなので、ポールはその数少ない例外の一人ということになる。

 ところでこれを読んだのは20年余り前、確かハードカバーではなく文庫だったが、口絵付きであった。白黒写真で、胸を肌蹴た逞しい男性と長い髪をなびかせた美女が抱き合っているという構図だが、男性は顔だけキング本人というコラージュである。
 巻末解説によると、これはポール・シェルダンのミザリー・シリーズ「最新作」『ミザリーの生還』の表紙、というキングのお遊びで、ハーレクイン・ロマンスの表紙のパロディなのだという。

 ……と鮮明に記憶しているのに、ググってもこの「『ミザリーの生還』の表紙」であるところの口絵は画像が見つからないどころか、存在の確認すらできない。んんん~?
 判明したのは、文藝春秋社刊のハードカバー版には、カバー下の本体表紙が『ミザリーの生還』の表紙となっているが、写真ではなくイラストで、カバーイラストを手掛けた藤田新策氏によるもののようだ。文庫版にはこのような仕掛けはないとのこと。

 英語サイトでオリジナル(原書)版と思しき画像も見つけたが、これも写真ではなくイラストだ。

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 まあ明らかに顔だけキングだし、構図も記憶にあるものと同じである。写真だと記憶違いしていたにしても、いったいどこで見たんだろうという疑問は残るが。

 とにかく、ここまでなら「お遊び」で済むんだが、問題は狂気のおばちゃんヒロイン、アニーがミザリー・シリーズの熱狂的ファンだということだ。
 つまり「ハーレクイン・ロマンスの愛読者」であることは、彼女の狂気を構成する小さからぬパーツなのである。
 以前の記事で述べたように、アニーは「男性を精神的に導く女性」像のホラー版である。彼女はポールを、「芸術の高み」へと導く。さらに、身体の自由を奪われた(当初は事故によって、後にはアニー自身によって)ポールを、献身的に世話し、かつ支配する。ロチェスターに対するジェイン・エアのように。

「男性を精神的に導いてくれる女性」への希求と、その裏面である「男性を躾けて軟弱にする女性」への恐怖・嫌悪は、換言すれば「完全なman(男/人間)になる手助けをwo-manにしてもらいたい」願望と「wo-manによってun-man(軟弱化、男らしさの喪失、去勢)される」恐怖であろう。
(ポールやロチェスターが負わされる身体欠損は、去勢の暗喩だと読める)

 このように『ミザリー』では、ハーレクイン・ロマンスは「女の欲望」を象徴する小道具である。ただし先日の記事で述べた、ハーレクイン・ロマンスのヒロインと読者の「関係性」の問題、つまりアニーがミザリーに「自己投影」(自分とキャラクターを同一化するという意味での)していたかどうかは、あいにく忘れてしまった。
 いや、図書館から借りるなりして確認すれば済む話なんですが、あれを再読するのはちょっと……あの閉塞感にもう一度耐えるのは無理です。「暗くて狭い」というシチュエーションは、物理的なのだけじゃなく精神的なのでも駄目なんだよ。以前、手放したのも、二度と読み返せないのが自分でわかってたからだよ……

 というわけで、次回は同じくキングの『ローズマダー』(1995)について。

関連記事:「本当は怖い『ジェイン・エア』

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本当は怖い『ジェイン・エア』

 ネタバレ注意。

 前回の記事で紹介した『ホールデンの肖像』によると、サミュエル・リチャードソンの『パミラ』(1740)で創出されて以来、現在のハーレクイン・ロマンスまで連綿と受け継がれてきた「ロマンスの3条件」というものがあって、それはだいたい次のようなものである。

 ① ストーリーはすべてヒロイン視点で語られる。
 ② ヒーロー(ヒロインの相手役)はハンサムで傲慢な大金持ちとして登場するが、ヒロインの「愛の力」によって、最後には改心させられる。
 ③ ヒーローとの結婚によって、ヒロインの身分が上昇する(玉の輿)。
 そして『パミラ』に続く古典的ロマンスとして挙げられるのが、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』(1813)とシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』(1847)である。

『高慢と偏見』は、数年前に『高慢と偏見とゾンビ』の予習として読んでおり、言われてみれば確かに「3条件」を満たしているなあと納得したのだが、『ジェイン・エア』ってそんな話だっけ?
 読んだのは35年ほど前で、子供向けにリライトされたものだが、序盤のジェインの境遇が、子供向けフィクションではあまりお目にかかれないひどさだったのと、精神を病んだ妻の存在を隠して二重結婚を目論んだロチェスターの屑っぷりとで、強く印象に残っていた。
 火事で都合よく妻が死んでくれたものの、ロチェスターは屋敷も財産も失ったばかりか、一生介護が必要な身体障碍者となってしまう。
 そんな彼を支えて生きていくことがジェインの幸福となるので、ハッピーエンドではあるのだが、紋切り型ロマンスの紋切り型ハッピーエンドとは言い難い。
 まあ読んだのはだいぶ昔だし、ジュヴナイル版だしな、と、この機会に光文社の新訳を読んでみた。数ヵ月以上前なので「思い出し鑑賞記」。

 だいたい記憶にあるとおりだったが、再読してもまったく記憶が蘇らない箇所もかなりあった。昔読んだのは子供向けとはいえ対象年齢やや高めで分量も多かったが、それでも多少は省略されてたんだろうな。
 しかし、ロチェスターの妻の存在が暴露されてからジェインが彼の許に戻るまでの経緯がまるごと記憶になかったのは、省略されていたとも思えないので、当時の私にはよく解らなくておもしろくなかったから忘れてしまったのだろう。

 絶望の余り荒野をさ迷い、行き倒れかけたジェインを助けてくれたのが、これまで存在も知らなかった実の従兄だった、という古典的な御都合主義は、古典的すぎるがゆえに理解不能だったと思われる。えっ、そんな偶然ってあり得る? どういうこと??? と混乱したのではあるまいか。
 また、この従兄セント・ジョンは清教徒的という意味で狂信的で独善的な人物で、宣教師としてインドへ赴任するために妻を必要としており、ジェインに白羽の矢を立てる。貧困に慣れているジェインなら宣教師の妻に相応しいと考えたからだが、互いに恋愛感情がないことを理由に彼女が断ると、「神聖な使命のために愛のない結婚をすることは殉教である」という謎理論を持ち出して結婚を迫る。
 なかなか興味深い人物造型と展開だが、10歳かそこらの子供には、ただただ理解不能でおもしろくなかっただろうな。

 そんなわけでセント・ジョンに関わる情報はきれいさっぱり記憶から抜け落ちていたので、彼の父親すなわちジェインの叔父の遺産のことも忘れていたのであった。この遺産のお蔭で、ジェインはロチェスターを養っていくことができるようになったのである。

 憶えていた以上に御都合主義だった……というのが三十数年ぶりの再読の感想だったが、先日、偶々読んだ川本静子氏の『ガヴァネス ヴィクトリア朝時代の〈余った〉女たち』(中公新書)で考えが変わる。
「ガヴァネス(女家庭教師)小説」の古典として『ジェイン・エア』を論じているのだが、それによると、ジェインは①不美人である、②何よりも自立を望んでいる、という2点において、まったく新しいヒロインであった。

 ロチェスターに妻がいることが露見する以前、ジェインに彼との結婚を躊躇わせたのは、社会的および経済的な格差だった。愛する男性とは経済的にも精神的にも対等でありたい、というジェインの願いは、結局のところ時代の制約によって御都合主義(川本氏は「強引なプロットの展開」と表現する)でしか叶えることができなかった――と川本氏は結論する。

 ……あれ? ジェインが願ったのは「対等」だけど、結果はロチェスターが経済的にも精神的にもジェインに依存することになってるよね? これって「猿の手」的展開じゃね?

 ジェインが手に入れた遺産は絶縁状態だった叔父のものだが、これがすごく親しい間柄で、若くして非業の死を遂げてたりしたら、まるっきり「猿の手」だ。
 いや、「猿の手」なら、ジェインは「こうなることを望んだわけじゃ……」と絶望に沈むはずだが、それどころかロチェスターが彼女に依存せざるを得ないことになって、心から満足しているのである。「猿の手」より怖いじゃねえか。

『パミラ』は刊行後直ちに大ベストセラーになったが、「こんなに巧く行くわけがない」とか「道徳が押しつけがましい」と反発する読者も多かったそうだ。人気作家ヘンリー・フィールディングもその一人で、『シャミラ』と題するパロディを翌年発表する。パミラは実は計算尽くで玉の輿に乗ったのだ、という内容だそうだ(邦訳があるので、そのうち読みます)。
『ジェイン・エア』も、遺産が転がり込んできたのもロチェスターが金も健康も失ったのも彼の妻が死んでくれたのも、全部ジェインが仕組んだことだった、ということにしたら、立派なクライム・ノベルの出来上がりだな。
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草の上の月

 ここのところつらつら綴っている「男性を教化する女性」像で思い出した、昔観た映画。
 レニー・ゼルウィガー、ヴィンセント・ドノフリオ主演、1996年。

 何度か当ブログの映画レビュー(「鑑賞記」カテゴリー)で書いているが、ゼルウィガーは私が嫌いな数少ない女優の1人である(ほかはメリル・ストリープくらい)。
 何が嫌いなのかというと、「わたしってこんな馬鹿な女を演じられるのよ、ほんとは違うんだけどね」的な演技である。「馬鹿な」の部分は作品によって「がさつな」「無教養で下層階級の」等に置き換えられたりもするが、とにかく「ほんとは違うんだけどね」がありありと見て取れる(少なくとも私には)のが、ものすごくイラッとさせられるのだ。

 で、この嫌悪の次には「昔はあんなに可愛かったのに……」という嘆きが来る。「昔」というのは『ザ・エージェント』(1996)と『ライアー』(1997)のことである。野暮ったい初々しさというか、垢抜けないんだけど可愛いんだ、すごく。
『草の上の月』はこの2作と『ブリジット・ジョーンズの日記』(2001)の間に撮られたと思ってたんだが、この記事を書くために確認したら、『ザ・エージェント』の1つ前じゃん。えー……
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 ああ、思い返してみれば確かに、『草の上の月』の無神経なヒロインには「ほんとは違うんだけどね」感がない。無神経な女だとは思わずに演じてるっぽい。素で無神経なんだ……ということはつまり、『ザ・エージェント』と『ライアー』が例外だっただけか……
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 原作は、先日の記事で触れた「蛮人コナン」の生みの親ロバート・E・ハワードの恋人だったノーヴェリン・プライスの回想録である。
 1930年代、小説家志望の小学校教師ノーヴェリン(ゼルウィガー)は、地元の小説家(ドノフリオ)と、彼がどんな作品を書くのかも知らないまま、小説家だというだけでお近づきになる。その後初めて、彼が「低俗なパルプ作家」と周囲から見下されていること、彼自身も相当な変人であることを知るが、それでも交際を始める。
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 交際を始めてしばらくしてから、ようやくノーヴェリンはハワードの作品を読み、その「野蛮さ」に強いショックを受ける。
 そこでハワードにこう訴えるわけだ。「世の中には美しいものがたくさんあるのに、どうしてそれについて書かないの?」「人間の精神を高めるような作品を書くべきよ」――十数年前の鑑賞なのでうろ覚えだが、だいたいこんな感じのことを言い募る。
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 それに対しハワードは曖昧に流して済ませるが、ノーヴェリンはその後も「母親離れすべきだ」「もっと大人になるべきだ」等々苦言を呈し続け、ハワードも反発を強めていく。
 やがてノーヴェリンは自らの才能に見切りをつけ(つまりハワードに書かせようとしていた「清く正しく美しい小説」を書く才能が自分にもないことを悟り)、教師としての道をまっとうすることにする。それとともに、ハワードにも「見切りをつける」。
 一方ハワードは、以下ネタバレというかネタバレも何も「コナン」の読者なら誰でも知っている悲劇に向かって、まっしぐらに進んでいくのであった。
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 私は美少女がばっさばっさと人を殺しまくる野蛮なSF(パルプ雑誌によって育てられたジャンルである)を書く女で、幸いにして「世の中には美しいものがたくさんあるのに、どうしてそれについて書かないのか」「人間の精神を高めるような作品を書くべきだ」などと言われたことは一度もないが、仮にそんなことを言われたら、相手が男だろうと女だろうと、とりあえずまあ埋めてやろうかくらいは思いそうである。
 つまり本質的にはジェンダー無関係なわけだが、ノーヴェリンの場合、ハワードにあれこれ説教したのは、ヴィクトリア朝の「家庭の天使」に代表される「男性を精神的・道徳的に導く女性」像(同時代の米国では「真の女性」と呼んだそうだ)に従ってのことだったように思われる。
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 ハワードの死から半世紀後に出されたノーヴェリンの回想録は未読なので(私の英語力では本1冊読むのに時間がかかりすぎる。そこまで時間をかけるほどこの問題に興味があるわけではない)、当時および半世紀後のノーヴェリンの心情は知らないが、「男を教化する」「真の女性」の観点からすれば、彼女はハワードの「教化」に失敗したのであるが、悪いのは「教化」の試み自体ではなく、受け入れなかったハワードだということになる。
『草の上の月』のノーヴェリンには、ハワードへの態度を悔いている様子がまったく窺えず、彼女から見たハワードは、「せっかく導いてあげようとしたのに、受け入れずに自滅した憐れで愚かな人」として描かれているように思われる。
 これが、演じるゼルウィガーの滲み出る無神経さゆえか、それともノーヴェリン本人が、当時も半世紀後も、ハワードをそのように見做していたためなのかはわからない。
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 一方で、ノーヴェリンの視点を離れたところでは、ハワードは「世間の無理解に追い詰められた孤独な天才」として描かれている。こちらの視点では、ノーヴェリンは「世間の無理解」の一部もしくは代表であり、「男を教化(しようと)して、男の野性やら才能やらを矯める女」である。
 あくまで推測だが、この齟齬の原因は、原作であるノーヴェリンの回想録におけるハワード像が「せっかく導いてあげようとしたのに、受け入れずに自滅した憐れで愚かな人」であるのに対し、映画制作者側のハワード像が「世間の無理解に追い詰められた孤独な天才」であり、それでいてノーヴェリンのハワード像をそのままにしていることにあるのではないだろうか。
 監督、制作、脚本が全員男性なのと関係があるのかどうかは、敢えて論じない。
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 もちろん、一つの作品内に複数の視点・観点があるのは悪いことではない。しかしこの作品の場合、「Aという見方もあるが、Bという見方もある」ではなく、「原作者ノーヴェリンから見たハワード」と「映画制作サイドから見たハワード」を不器用に継ぎはぎしたかのような噛み合わなさなのだ。
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 何が原因だったにせよ、どうにもちぐはぐで変な映画でありましたよ。
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「自然」と「文明」の性別は 「男性を教化する女性」像について。「蛮人コナン」にも言及。
アパルーサの決闘 レニー・ゼルウィガー評の一例。

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すばらしきウィルフ

『ハヤカワ文庫SF総解説2000』の刊行(2015年)以来、未読のSFの山脈から、おもしろそうなものをチェックしては片っ端から読んでいる。
 80年代半ばにジュヴナイルSFを卒業して、早川や東京創元に「進学」したものの、数年で「冬の時代」が来てSFから離れてしまい、ブランクは10年に及ぶ。SF作家のくせにSFを充分読んでいるとは言えなかった私だが、お蔭でようやくそのブランクを埋めつつある。.

 古典的傑作として名前だけは知っていたが読んでいなかった作品、名前も知らなかった埋もれた傑作、そこまで行かずとも、忘れられているのが惜しい佳作・良作にたくさん出会うことができた(まだリストは長いので、今後も出会えるであろう)。
 明らかな外れには、一度も当たっていない。執筆者諸氏が限られた字数で、的確に解説をされておられることの証左であろう(私が担当した4本もそうだといいんだが)。客観的な出来の良し悪しだけでなく、単に好みじゃなかった、ということも今のところない。
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 とはいえ、「ここをこうすれば、もっとおもしろくなっただろうに」という、残念な作品にはそれなりに当たっている。「ここをこうすれば」というのが解りやすいものばかりなので、それはそれで勉強になるから、「残念な読書」だったということにはならない。
. そういう作品の一つが、ゴードン・R・ディクスンの『こちら異星人対策局』(1998年 原書THE MAGNIFICENT WILFは1995)である。もう1年くらい前になるかな。大好きな『地球人のお荷物』(解説を担当させていただいた)の作者の片割れだし、ファンタジーの『ドラゴンになった青年』も結構おもしろかったので、読んでみた。
 中村融氏の解説に「職人技の娯楽作といったところか」とあるとおり、ベテランが力を抜いて書いた感じの軽いコメディである。残念ながら「軽妙洒脱」の域にまで達していないのは、おもしろくなりそうなアイデアを幾つも出しながら活かしきれていないのが主因であろう。
 以下、ネタバレ注意。
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 各章は短く、番号が振ってあるだけでタイトルはない。しかし幾つかの章がまとまって1つのショートストーリー(事件とその解決)をなしており、長篇というよりは連作短篇の体だ。
 その「第1話」では、主人公の若い夫婦の飼い犬が送信型のテレパシスト(自分の思考を相手に伝えることはできるが、相手の思考は読めない)になってしまう。「第1話」ではたいへんなドタバタを引き起こすのだが、「第2話」以降、この設定はまったく活かされない。第1話でこの犬が可愛いだけに残念である。
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 こういった「おもしろくなりそうなのに活かされていないアイデア」の一つが、「ウィルフ」である。なお本記事タイトルは、上述した原題THE MAGNIFICENT WILFに拠る。
 ある事件で主人公のトムは、異星人の暗殺者に無理やり弟子にされる。その暗殺者が、トムの妻ルーシーを、「ウィルフ」と勘違いする。トムはその勘違いを利用して、命じられた暗殺をせずに済ませる。ルーシーは「ウィルフ」がなんなのか知らないが(トムは知っている)、話を合わせる。
 一件落着後、ルーシーはトムに、ウィルフとは何かを尋ねる。
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 トムの口調は鈍くなった。「ウィルフは地球人の女性に似た姿をしてる。ともかく、異星人にはそう見えるらしい。でも、地球人とは全然ちがう種族だ。性別もない。宇宙のあちこちで、ほかの種族を慕ってつきまとう。いったん親しくなった相手には、とことんまで尽くす」
(中略)
「ウィルフ人は非常に道徳観が強い。その上、正義感も強い。ほかの生き物の性格を変えて、自分たちと同じ道徳観を持たせることに大きな喜びをおぼえる。当然、ほかのウィルフ仲間の性格を変えるのは難しい――みんな、もともと道徳観が強いからね。だから、ほかの異星人に近づいて、非常に知的なやりかたで絆を結ぶんだろう」
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 この「ウィルフ」の定義、「家庭の天使」に代表される、西洋近代の女性像に当てはまる。「家庭の天使」とは、ヴィクトリア朝の中・上流階級における主婦の理想像であり、彼女たちの役割は夫と息子に自己犠牲的に献身し、また次世代の「家庭の天使」(娘)を再生産することだ。
 といっても、こうした階級の主婦は家事も子育ても子供の教育もすべて他人任せにするのが理想とされたから、夫と息子への献身とは彼らに慰安を与えること、そして「道徳的・精神的に導く」ことである(後者は「家庭の天使の再生産」にも適用される)。
「道徳的・精神的に導く」とは具体的には、家庭内のモラルを監督することだったらしいが、女性にそれが可能とされたのは、「女には性欲がないから、男より道徳的に優れている」というものだった。
「家庭の天使」という名称は英国のものだが、他のヨーロッパ諸国や米国でも、似たり寄ったりの理想の女性像が形成されていた。
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 さて、「ウィルフ」とは「ばか、まぬけ」を意味する俗語である。このことが如実に示すように、ウィルフとは上記のような女性像のパロディである。
(なお、wilfは手持ちの英和辞典に載っていない上に、ググってもこの意味でのヒット件数は少ない。この作品が出た1990年代の米国でも、あまり使われない語だったかもしれない) 
 トムの「押しかけ師匠」は、ルーシーをウィルフだと誤認すると、こう叫ぶ。
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「おまえ、そのウィルフに苦しんでいるのか!(中略)わしが救ってやる」
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 要するにウィルフ(ルーシー)を排除してやろうというのだ。しかしトムは次のように主張する。
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「昔のぼくなら標的を前にすれば、ためらわないで分解器(暗殺者の武器のこと)を使ったでしょう。きっと、大いに楽しんだと思います。でも、ウィルフの感化でぼくは変わりました。今のぼくのほうが……そのう……昔のぼくよりも、はるかにましです」
(中略)
「ぼくが標的に狙いをつければ、ウィルフは当然、ぼくの分解器の前へ身を投げだすはずです」
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 最後の台詞は、トムに罪を犯させないために、ウィルフが我が身を犠牲にするはずだ、という意味である。師匠はトムの不甲斐なさに憤懣やるかたなくも、諦めるしかない。
 トムに上述のウィルフの定義を教えてもらったルーシーは、憤然として述べる。
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「あたしは道徳観も正義感も弱い女よ。でも、あなたはそれでもいいんでしょう? “そうだ”と答えたほうが身のためよ」
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 西洋文化における「男性を道徳的・精神的に導く女性」像には、幾つかのタイプがある。「家庭の天使」のような「自ら規範を示すことによって男性を導く有徳の女性」の原型は、中世後期(12、13世紀)の貴婦人崇拝、『神曲』(14世紀初頭)のベアトリーチェ、『デカメロン』(14世紀半ば)のグリゼルダ辺りか。
 このうちグリゼルダは貴族の奥方とはいえ、元は貧しい村娘で、ひたすらの敬虔と貞節と自己犠牲によって横暴な夫を改心させる。
 時代はずっと下って1740年、リチャードソンの『パミラ』は女中のヒロインがその高潔さによって、不道徳な主人を改心させ、最後に2人は結ばれる。彼女のモラルはキリスト教的というよりは市民的である。
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 まあなんにせよ、「自ら規範を示すことによって男性を導く有徳の女性」像は、それが逍遥されたのと同じ時代にすでに揶揄・パロディの対象となっていた。「小市民的道徳によって男の野性を矯めて殺してしまう女」である。
 言い換えれば「尻に敷く」タイプなわけだが、クサンティッペを典型とする「男の才能を理解せず、瑣末な俗事(=食っていくための仕事など)に縛りつけようとする」悪妻とか、中世のフォークロアにあるような、小言ばかりか暴力にまで訴えて夫を虐待する悪妻とはまた違う。
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 子供の頃から翻訳ものばかり読んできたが、児童文学を含め欧米の小説には、この「男に小市民的道徳を押し付ける女」が少なからず登場するように思う。男に「お行儀よくしなさい」と言う女だ。
 児童文学に多いのは、「少年の母親代わりのオールドミス」である。『トム・ソーヤーの冒険』(1876)のポリー伯母さんが典型だろう。主人公の少年に勉強と礼儀作法と家の手伝いと信心を押し付け、「冒険」を邪魔立てする存在だ。『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885)でハックの養母となったオールドミスもこのタイプである。
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 このタイプの「オールドミス」(念のために言うと、敢えてこの語を使っているのである)が登場するのは、児童文学だけではない。このタイプを繰り返し作品に登場させたサキ(1870-1916)は彼自身、母親を早く亡くしてこのタイプの叔母に育てられた(そして深く根に持っていた)そうなので、未婚女性が多かったヴィクトリア朝(および老いた彼女たちが生き残っていた20世紀前半)には、このタイプのオールドミスが実際にいたのは確かだが、サキと同じような身の上でもない作家たちまでがこうした役柄を、それを本来果たすべき母親ではなく未婚の年配女性に押し付けたのは、一言で言えば都合がよかったからだろう。  
 つまり、少年の「冒険」を邪魔立てする小うるさい女、という役柄を実の母親に与えてしまうと、「家庭の天使」像の根幹を成す母性のイデオロギーに抵触する。元から軽んじられ揶揄されてきたオールドミスなら無問題、というわけだ。
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「母」ではなく「妻」なら作家にも躊躇いはなく、海外児童文学も含めて、「英雄」(的な活躍をした男性主人公)が、意中の女性を射止めて結婚するが、彼女に「躾けられ」てすっかりお行儀よくおとなしくなって「しまい」、良き夫・良き父として「家庭に収まってしまう」、というオチを幾つも読んだ覚えがある。タイトルも物語自体も一つとして思い出せないが。
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「ウィルフ」すなわち「小市民的道徳によって男を矮小化する女」という隠然たるステレオタイプの存在に気づいたのは、『こちら異星人対策局』を読むさらに数ヵ月前、一昨年のいつかだったかに読んだ、ゾラの「スルディス夫人」(1880年。光文社古典新訳文庫『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家」所収)によってである。
 ネタバレ注意。
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 非凡な才能を持つ画家が、妻の経済的な支えお蔭で描き続けることにより、名声を得る。しかし成功したせいで、かえって才能は枯渇し始める。創造性はないものの優れた技術を持つ妻は、夫の絵を手伝うようになる。夫の名声が上がるのと比例して、妻の「手伝い」の比重は上がっていき、夫が描くのは下絵だけ、スケッチだけとなり、ついには妻がゼロから描いた絵にサインをするだけになる。そして酒に溺れる。
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 夫の「才能」はインスピレーション(息/精神を霊的存在によって吹き込まれること)で、妻の「才能」は小手先の技術(必要なのは「精神」ではなく肉体のみ)とする辺り、ゾラのジェンダー観は実に解りやすいが、単なる価値観の問題に留まらない。この夫妻には、モデルがいるんだそうな。
 国語の教科書の「最後の授業」でお馴染みのアルフォンス・ドーデとその妻である。「スルディス夫人」の巻末解説によると、ドーデの作品が妻ジュリアとの共同執筆であることは「公然の秘密」だったそうだ。
「公然の秘密」という表現だけでも、「妻との共同執筆」が世間でどう思われていたかを窺わせる。Wikiによるとドーデ自身はジュリアの文学的才能を高く評価しており、1888年には彼女を中傷した新聞の主幹と決闘している。
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「スルディス夫人」のモデルがドーデ夫妻だと確定しているわけではないが、ゾラが同作品をドーデの死後の1900年までフランス国内で発表しなかったことは有力な根拠の一つだ。1894年のドレフュス事件で、ゾラがドレフュスの無罪を主張したのに対し、ドーデは反ドレフュス派となって反目したそうだが、少なくともジェンダーに関しては、ゾラは当時の価値観から一歩も踏み出すことができなかったわけだ。
 それは抜きにしても、友人とその愛妻をモデルにこういう話を書くのは人としてどうなの、と思う。1886年の『制作』でも、少年時代からの友人だったセザンヌをモデルとした主人公に悲惨な人生を送らせて本人を怒らせてるしな。
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 少々話が逸れた。「凡人」(小市民)には理解できない「高尚」な夫の才能を、凡人に理解できるレベルに「矯正」する、具体的には「小市民」の客間に飾れる「お行儀のよい」絵に変えてしまう妻の物語である「スルディス夫人」を読んだことで、「小市民的道徳によって男を矮小化する女」というステレオタイプの存在に気づいた数ヵ月後、「ウィルフ」というガジェットによって、さらに明確に意識するようになったのであった。
 意識はするようにはなったが、このステレオタイプが登場する作品を幾つも読んだ覚えはあっても、ほとんどのタイトルが思い出せないので調べようがない。そもそも「ウィルフ」と名付けられたのも、このステレオタイプに名前がないからだ。
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 日本の場合はどうだろ。母性のイデオロギーに疑義が呈されるようになれば、「抑圧的な母親」像も描かれるようになる。それは日本でも変わらない。文学、漫画、映像作品を問わず、母子の泥沼の確執を描いた作品は、私が思いあたるものだけでもそれこそ無数だ。
 同時にまた母性のイデオロギーは未だ健在だから、特に子供向け作品ではヒーロー(少年・青年)の母親は、冒険の「障害物」となる前に存在を抹消される。『ONE PIECE』はその典型で、作者自ら「冒険の対義語は母親」と明言している。
「妻」も同じく「冒険」の障害物として認識しているのだろう。主要なキャラクターには30代以上の男性も大勢いるが、彼らの多くは独身または配偶者の有無不明である。
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 しかし妻または恋人として「小市民的道徳を押し付けて男を矮小化する女」を描いた作品って、日本にあるのかなあ。いや、私が知らんだけで、ないってことはないんだろうけど、少なくとも欧米ほどは隠然たるステレオタイプを形成してないのは確かだ。
 現実においてなら、男が女をそういうふうに見做すことがあるのは確実なんだけどね。
 大学ではある男子に彼女ができてしばらくすると、その友人(男子)たちが「あいつはすごくおもしろい奴だったのに、良識的でつまらない奴になった」と、それがその彼女の「教化」によるものだとして寄ってたかって彼女の陰口を言うというケースに何度か遭遇したものである。いやあ実にホモソーシャルな情景ですな。そういうのを題材にした作品て、ありそうなんだけどなあ。御存知の方がおられましたら、是非とも御教示ください。
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「男性を道徳的・精神的に導く女性」像なら、それなりに作品数があると思う。この女性像には幾つかタイプがあるが、特に「女の自己犠牲」と結びついたものは好まれてるだろう。
 ちなみに『ミザリー』のアニーはこの女性像のホラー版だが(最後に殺されるのも「自己犠牲」だと言えなくもない)、そのオマージュとされる『ジョジョ』第4部の山岸由花子も、単なるストーカーに留まらず、康一の「精神的な成長」(文字どおりの意味でも、精神の力であるスタンドのパワーアップという意味でも、学力向上という意味でも)を「導く」役割をきっちりこなしている。あ、ネタバレでしたね。
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 というわけで、せっかく「名前のないもの」に名前を付けたというのに、一発ネタで終わらせてその後の展開がまったくないことも含めて、『こちら異星人対策局』は残念な作品なのでした。
 いや、実はこの「ウィルフ」が表わす女性像は、オリエンタリズムと関わりがあるんですよ。で、オリエンタリズムは一昨年から呻吟している作品と関わりがあるわけです。しかし「ウィルフ」と執筆中の作品とでは、直接の関わりはないので、一年ほどかけて、折を見てちょっとずつ調べてきて、とりあえずどうにか考えをまとめられるだけの知識を集められたわけです。
 無関係なことにかまけて執筆をさぼってたのではないですよ、という話。いやほんとに。
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 というわけで、次回に続く。

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スターダスト

 映画版が好きなんだが、原作者がニール・ゲイマンだということを(というか、そもそも原作があるということを)つい最近まで知らなかったのであった。いや、その情報には一度ならず接しているはずなんだが、なぜだかその都度、記憶の底に沈んでしまってたようだ。
 そういうわけで、同名の原作(角川文庫)を読む。以下、原作と比較しながら映画版の思い出し鑑賞記。

 んー、映画を最初に観て気に入ったがゆえの感想だというのは承知の上で敢えて言うが、映画のほうがおもしろかったなあ。もう何年も経ってるから忘れちゃってる部分もあるけど、プロットに関しては、映画のほうが枝葉が刈り込まれててシンプルだった(すなわち原作は枝葉が多い)印象だ。
 キャラクターについては逆に、映画のほうが作り込まれている。全体にどのキャラクターも、原作を土台に役者の個性が巧く活かされて、より魅力的になってる感じ。主人公、ロバート・デニーロ演じる空中帆船の船長(原作では印象が薄い)、謀略好きだが間抜けな王子たち(ジェイソン・フレミングとかルパート・エヴェレットとか)、主人公の父親(の青年時代を演じたベン・バーンズは、この後のカスピアン王子よりずっといい)らにも言えることだが、特にヒロイン(クレア・デーンズ)、悪い魔女(ミシェル・ファイファー)、悪い国王(ピーター・オトゥール)の三人については役者の個性によるところが非常に大きい。

 世間知らずで(何しろ、落ちてきた星の精である)子供っぽいけど、意外にがさつというか図太いヒロインと、魔法で一時的に若返ってるけど本当は超高齢の魔女のどちらも、一時ほどの人気がなくなっていたデーンズとファイファーの二人だからこそ、このように演じられた役だ。
 若返りの魔法がどんどん解けていって、皺やシミが出るどころか髪までなくなっていく過程を嬉々として演じるミシェル・ファイファーも凄いが、普通なら原作どおりの「女の子」を演じるには薹が立ちすぎているにもかかわらず、敢えて子供っぽく演じることで、年齢を超越した星の精を表現している(しかも可愛い)クレア・デーンズには感心した。

 しかし何より素晴らしいのは、邪悪な国王ピーター・オトゥールである。登場場面は十分にも満たないし、臨終の床に横たわってるだけなんだが、圧倒的な存在感である。あんなふうに邪悪かつ愛らしく微笑むことのできる役者が、彼のほかにいるであろうか、いやきっといない。実に素晴しい笑顔なんだ。あの年齢だからこその笑顔であって、オトゥール本人でも若い時分には無理だね。

 もう何年か経ってもう少し記憶が薄れたら、あの笑顔のためだけでも再鑑賞したいものである。

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ハーフィズ詩集

 読んだ直後に書いたメモを基に思い出し。

『ハーフィズ詩集』 黒柳恒男・訳 平凡社東洋文庫 1986
 シャムス・ウッディーン・ムハンマド(1320?-1390)、シーラーズ生まれ。ルーミー(1207~1273)の時代はモンゴル侵攻の最中だったが、ハーフィズが生きたのはイル汗国が崩壊し、イランが分裂した時代。

 ハーフィズ(現代ペルシア語ではハーフェズと発音)は、守護者とか保管者という意味で、コーランを丸暗記した者に与えられる称号。その作品は神秘主義的傾向が顕著な叙情詩、と見做される。アラビア語の「抒情詩」の原義は「恋愛詩」だそうで、彼の作品の大半も恋と酒を主題としたものである。
 現代に至るまで戒律に厳しいイスラム国家でもハーフィズの詩が許容されてきたのは、酒と恋の讃歌が神の讃歌とも解釈できるからである。まあ実際、そういうつもりで書いてるんだろうけど、同時に酒と恋を讃えているのも明らかで、だから庶民は彼の詩を愛好してきたわけである。
 単に酒と恋を賞賛の対象にするだけじゃなくて、禁欲を偽善と言い切り、そういう偽善者が集う場所ではなく異教徒が経営する酒場で私は神の栄光を見る、といったような結構過激な表現が多い。その辺、現代イランなんかではどう解釈されてんだろうなあ。

 もう一つ気になったんが、彼の詩で謳われる「恋人」は男女どっちとも解釈できるものが多い。ライラとかシーリーンのような伝説の美女に喩えられてる場合もあるが、イスラムでは美男の代名詞であるヨセフに喩えられてる「恋人」も多い。現代ペルシア語では品詞に性がないし、彼・彼女の区別もないけど、中世ペルシア語ではどうだったんだろうとか、「美女」と訳されてる語は、果たして女だけを指すのかとか。
 少なくとも『アラビアン・ナイト』では美女と美少年の形容はほぼ一緒で、ただ美少年特有の形容としては「顔の産毛(生え始めの柔らかい髭)」がある。ハーフィズの詩にも、顔の産毛の賞賛は幾つかあるんだよね。女だって顔に産毛は生えるけど、脱毛する習慣だったろうしなあ。

『アラビアン・ナイト』(東洋文庫版)には「美女と美少年、どちらが具合がいいか」を巡って美女が稚児趣味の法学者(だったか、とにかく宗教的に権威のある人)と論争する、という実にしょうもない話が収められている。あんまりしょうもないんで、どんな結論だったかは忘れた。飲酒も自由恋愛も同性愛も刑罰対象の現代イスラム諸国と違って、昔のイスラムはいろいろと寛容でしたね。

映画『ハーフェズ ペルシャの詩』感想

オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』感想

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300

 すりーはんどれっど。ヘロドトスの『歴史』(松平千秋・訳、岩波文庫)を読んだので、比較しつつ思い出し鑑賞記。

 前4808月。前492年から前449年にわたったペルシア戦争の中で、マラトンの戦い(前490年)、サラミス海戦(前4809月)と並んで著名なテルモピュライの戦いを描く。
『歴史』での該当記事は全9巻(文庫では3分冊)中、巻7、201239節。

 マラトンの戦いではギリシアが勝利し、ペルシア王ダレイオスはこの敗北の心痛が原因だったのか直後に死亡するが、後継者のクセルクセスは周到に準備を行い、陸海ともギリシア勢を遥かに凌ぐ大軍を率いてヨーロッパに攻め込む。
 アナトリア以東、エーゲ海からギリシア本土に至るまでギリシア系、非ギリシア系を問わず多くの国や町がほとんど抵抗することなくペルシアに降り、残るはアテナイとスパルタを盟主とするわずかな諸国同盟だけになっていた

 エーゲ海沿いに、ぐるっと回って南下してきたペルシア陸海両軍を、ギリシア勢は本土とエウボイア島との間の狭い海峡アルテミシオンと、テルモピュライの狭隘な山道で同時に迎え撃つことにした。アルテミシオンの主戦力はアテナイ勢、テルモピュライはスパルタ勢である。
 この二箇所の地勢については『歴史』巻7175177、アルテミシオンの海戦は巻8、1~22で述べられている。
 テルモピュライとアルテミシオンは近接しており、映画の中でも山上からペルシア海軍が嵐で難破しているのを俯瞰する場面がある。この嵐のお蔭でペルシア海軍は弱体化し、劣勢だったギリシア海軍とはっきり勝負がつかないまま終わるのだが、テルモピュライのほうは、言うまでもなくレオニダス王以下スパルタの重装歩兵300人の全滅である。アメリカ人も玉砕や特攻が大好きなんだよねー。

スパルタではこの時期、アポロン・カルネイオス祭が重なっていた。この期間(9日間)の出征は禁じられているんだが、どんな理由であろうとスパルタが参戦しないとなると、すでに浮き足立っている同盟勢力が一斉に寝返る可能性が大いにあった。そこで士気の鼓舞のため、先遣隊として王自らと精鋭中の精鋭である親衛隊が赴くことになったのである (『歴史』巻7、206)

こういう特例を認めるんだったら、総兵力を出してもええやん、と思うんだが、つまりそれくらい神事と禁忌は重要だった、ということである。それに、祭が終わって直ちに駆け付ければ充分間に合う、と誰もが思っていたのであろう。
 映画じゃ、こうした経緯は全部すっ飛ばされてたね。出征が決まるまでにウダウダ揉めてた理由はなんだっけか。

 ヘロドトスによれば、テルモピュライ直前のペルシア軍(戦闘部隊)は陸海併せて264万(ペルシアに付いたギリシア勢力も含む)、うち陸軍の、さらにペルシア領内から動員された兵だけでも180万である(巻7、185)
 言うまでもなく誇張であり、映画では100万に減らされてるが誇張なのは変わりない。80万も減らしたのはなんでかね。語呂の問題?

 侵攻に先立って、クセルクセスはギリシア諸国に「土と水」を要求する。この言い回しは映画でも使われており、ジェラルド・バトラー演じるレオニダスは使者を殺すという暴挙に出る。これは現代だけでなく当時の感覚でも暴挙だ。ヘロドトスもそう述べている。
『歴史』では服属を要求するペルシアの使者をスパルタ人が殺したのは前491年か490年で、両国の王とも先代の時である。こういうことをやったものだから、スパルタでは以後、占卜で不吉な卦ばかりが出て、使者を殺した呪いだということになり、ペルシアへ償いのための使者を派遣するのである。
 父の跡を継いでいたクセルクセスは、「外国の使節を殺害するという暴挙によって国際間の慣習を踏みにじった」スパルタ人を寛容にも許したのであるが、ともかくこの先例があったために、遠征開始時、スパルタには使者は派遣されなかったのであった(巻7、133136)

 ペルシア側に間道の存在を教えたエピアルテスについてヘロドトスは、地元の出身者で莫大な報奨金目当てだった、とするのみである(巻7、213)。ところが映画では、わざわざ彼をスパルタ人で身体障害者であるとしている。
 スパルタの風習である身障児殺しを逃れて生き延び、なおスパルタ人として誇り高く戦うことを夢見るエピアルテスを、レオニダスは重装歩兵として戦うのは無理だから、という理由で戦闘に参加すること自体を憐れみ深く拒絶する。絶望したエピアルテスはペルシア側に走り、そうするとヘロドトスが偉大で寛容で、しかも容姿端麗にして堂々たる体躯の王者として描いたクセルクスはドラッグ・クイーンで、彼の随員は身障者ばかりでなのある。

 公開当時、ペルシア=悪=イスラムとしている、としていくらか批判が起きていたが、それ以前の問題だろう。

 私は過剰な筋肉が嫌いだ。教師の体罰と子供同士の殴り合いが日常茶飯事という小学校時代を送ったために、筋肉自体に対して条件反射的な警戒があるが(いや小学校卒業以来、殴り合いはしてないですが)、それはそれとして何か別の目的のための努力の副産物としての筋肉は美しく思うこともある。
 が、実用性のない過剰な筋肉それ自体を誇示する目的で造り上げられた過剰な筋肉には、それ自体への警戒と不信を抱く。それを賛美する精神にもだ。そんな人工的な筋肉は、身体改造以外の何ものでもない。是非や好みの判断は別として、ボディピアスや刺青、整形とどう違うというのか(いずれも相応の苦痛と危険を伴う)
 筋肉が増大しすぎるのを抑える遺伝子があることや、ステロイドで増大させすぎた筋肉が心臓や骨に負担を掛けることを持ち出すまでもなく、過剰な筋肉は人工物であり一種の異常である。グロテスクだ。無論、グロテスクなものも鑑賞の対象にはなりうるが。

 この時代、死後の救済を保証する宗教ではなく、国家の自由といった理念のために「全滅するまで戦う」のはギリシア人、それもごく一部だけである。国家が国民をそういう精神状態にまで追い込むことに再び成功するには、19世紀まで待たなくてはならない。
『300』のスパルタ人たちが纏う過剰で人工的な筋肉は、「全滅するまで戦う」ために障害児を殺すことをも厭わない精神の歪みが肉体に現れたかのようだ。もちろん当時のスパルタ人の歪みではなく、彼らを賛美する現代人の歪みである。つまりこの映画で描かれるのは、ヨーロッパのフリークスvsアジアのフリークスなのである。
 で、フリークスであるという自覚を持つアジアのフリークスと、自分たちが「健全なる肉体に健全なる精神を宿した自由の戦士」だと信じて疑わないヨーロッパのフリークスでは、どっちがたちが悪いのかは言うまでもない。

 なんてことを作り手も観客の大半も思わずに、「健全なる肉体に健全なる精神を宿した自由のヨーロッパ戦士vs悪のアジアのフリークス」だと思ってるんだろうなあ。

 なんでガチムチが嫌いなのに鑑賞する気になったかというと、偶々観たい映画がなかったのと、戦闘シーンに多少の期待があったのと、『シン・シティ』があまりにひどかったんで少しはマシになってるだろうかという好奇心があったから。
 映像としては『シン・シティ』より遥かに進歩してたし、戦闘シーンも見応えがありました。
 あと、ペルシア軍が間道を通ってギリシア軍の背後を突こうとしているのを、ギリシア勢は直前に投降者からの情報によって知っていたんだが、それで大半のギリシア兵が戦意を喪失したため、レオニダスは彼らに帰還を命じる。それでもスパルタ兵たち以外にも残って戦い、共に最期を遂げた部隊もいた(巻7、219222)。彼らを省略しなかった(あんまり目立たせなかったが)点も評価できる。
 それ以外については、あまりに呆れて却って感心してしまったっつーか、2007年にもなってこんな露骨な差別映画を作れて上映できて、しかも大した物議も醸さずに大ヒットしたのは特筆すべき現象だったんじゃないかと。

 レオニダスは先王の末弟で、妃はこの先王の一人娘である。彼女を妻としていたことが、レオニダスが継承争いに勝てた理由の一つだそうな。
 ヘロドトスはどうやら、有能で高貴な女性というのが好きで、そういう女性たちのためにしばしば紙幅を割いている。ゴルゴという素敵な名前のスパルタ王妃もその一人で、紹介されたエピソードは二つ。

 一つは彼女がまだ8、9歳だった頃(幼女ゴルゴ……)、アリストゴラスという陰謀家のイオニア人が彼女の父王を訪れ、ペルシアへの反乱に協力を要請し、渋る王に金額を提示し、値を吊り上げていった。それを傍らで聞いていたゴルゴが、お父様は買収されかかっている、と忠告したため、父王は娘の賢さを喜び、アリストゴラスを追い返した、という(巻5、4951)
 ちなみにこれはテルモピュライの十数年前の出来事である。

 もう一つはペルシア軍の遠征開始直前の出来事で、当時スパルタからペルシアに亡命していたデマラトスという人物が、さすがに祖国の危機を見過ごせなかったのか、密かに手紙でスパルタに知らせるのだが、これは通常の方法では読むことができなかった。スパルタの男たちが揃って首を傾げる(何しろ脳味噌まで筋肉だから)中、王妃ゴルゴが見事に読み方を解き明かしてみせたのであった(巻7、239)

 しかしだからって、映画で緊迫した戦争場面を何度も中断して、スパルタ本国での王妃様大活躍のエピソードを入れたのは、まったくの蛇足。

 戦争とは勇壮、悲壮、悲惨の連続ではなく、間抜けなことがしばしば起こる。この間抜けさをどう捉えるかによって、各人の性格が端的に示されるであろう。
 サラミス海戦で敗北したクセルクセスがペルシアに引き揚げている最中、デルポイの巫女に「スパルタ人はレオニダス殺害の補償を要求し、彼の差し出すものを受けよ」という託宣が下り、スパルタに届けられた。そこでスパルタ人は撤収中のクセルクセスのところまで、のこのこ出掛けていってこう言った。
「メディア人の王よ、スパルタ人ならびにヘラクレス家一族(レオニダスの一族はヘラクレスの末裔を称する)は、あなたがギリシア防衛に当ったスパルタの王を殺害なされたかどにより、その殺害の補償を要求します」

 図々しいんだか間抜けなんだかよくわからないこの要求に、クセルクセスは大いに笑ったという。
 クセルクセスの撤退後も、なおも多くの(ヘロドトスによれば30)の部隊がギリシア北部に残留し、翌春に再度侵攻することがすでに決定していた。残留部隊の指揮官はマルドニオスといい、これはギリシア遠征に乗り気でなかったクセルクセスを焚き付けた張本人である。
 スパルタ人の使者に対し、クセルクセスは笑いを納めた後、このマルドニオスを指して言った。
「いかにも、ここにいるマルドニオスが、相応の償いを与えるであろう」(巻8、114)
 この言葉を受けて使者はスパルタへ戻り、翌年(479)のプラタイアの戦いで、マルドニオスはスパルタ人によって討たれるのである(巻9、6364)

『歴史』と佐藤哲也氏『サラミス』の読み比べ 
 サラミス海戦について。テルモピュライとは非常に対照的。

『300 帝国の進撃』感想

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ボグダーノフ『赤い星』

 カテゴリー「思い出し鑑賞記」は、数ヶ月以上前に鑑賞したものの感想です。

『赤い星』 ボグダーノフ 大宅壮一・訳 新潮社 1926(1908)

 国会図書館にて、マイクロフィッシュ保存されているものを拡大鏡で読む。革命前に表舞台を去った人物の、しかもSFだから、聞いたこともないような出版社から出ているのだろうと思ったら、新潮社だったので少々驚く。1926年当時でも、けっこう大手だったよな。
 しかも翻訳者が大宅壮一である。えーと、大宅壮一って、あの大宅壮一? 国会図書館ホームページの書誌表示では生没年が1900-1970となっていて、あの大宅壮一と一致するので本人のようだ。ドイツ語からの重訳。実は有名だったんだろうか、『赤い星』。

 ロシアの若き革命家レオニードが、メンニという名の外国人と会うのだが、実はメンニは火星人である。レオニードを人類の代表として適格と見込んで、火星に連れて行く。火星人たちは世界各地に潜入していたのだが、ロシアが最も前途有望な国なのだそうである。ああそうですか。

 ボグダーノフのもう一つのSF小説『技師メンニ』は、『ロシア・ソビエトSF傑作選(上)』(早川書房 深見弾・訳)で読める。『赤い星』で主人公を火星に導く(だけの)役柄のメンニが延々と思想を語っているだけである。同じ思想小説でも、先に書かれた『赤い星』のほうは物語や設定のおもしろさがある。

 主人公はネッティという名の若い火星人に惹かれる。ネッティは女性なのだが、火星人たちは外見から男女の区別がほとんど付かないため、主人公は当初ネッティを男性だと思い、なぜ「彼」にこうも惹かれるのだろうと思い悩む(その辺、あまり突っ込んでないが)。
 ネッティが女性だと判明すると、一気に恋愛に発展するが、すぐに火星人の恋愛観や貞操観が地球人(当時のロシア人)に比べてかなり自由であることを知り、嫉妬に苦しむ。wikiによると、このくだりはSFに於けるフェミニズム的主題の走りでもあるらしい。

 火星はユートピア(完璧ではないものの)として描かれ、労働形態や育児方法は「理想的」なものとして描かれる。それが1920年代にソ連で行われた実験的な試みとけっこう合致していたりして、ボグダーノフの影響力の大きさを感じさせる。
 結局、それらの試みは頓挫するわけだが、ボグダーノフ自身も1928年、『赤い星』で描いた「輸血による不老法」を自分を実験台にして行おうとして、それが元で死んでいる。なんつーか、偉大なる奇人だね。

 本文中、三箇所ほど伏字があった。一つは「彼等の間には×隊と証する訓練された人々から成り立ってゐる有力な虐殺團があります。」(地球の制度について)という一文で、伏せられているのは「軍」であることは容易に判るが、ほかは「つまり地球では暴力が××の假面を被つてゐます。」みたいに二字の語が二字とも伏せられてるんで、推測できひんかった。「政府」とかかなあ。

参考記事: 「ロシアのダーウィニストたち」 

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アンダーグラウンド

 エミール・クストリッツァ監督作品。制作は1995年。97年か98年にビデオ鑑賞したんだが、どこでどんな情報を仕入れて手を出す気になったのか、さっぱり思い出せん。

 50年以上にわたるユーゴスラビアの現代史を描いた一大叙事詩……なのは間違いないんだが、それをスラップスティックかつ幻想的な手法で行っている。これは、マジックリアリズムと呼んでしまっていいんじゃないかな。マジックリアリズムは、何もラテンアメリカの専売特許ではない。東欧的(バルカン的)マジックリアリズムとでも言おうか。そして、ラテンアメリカの「現実」がマジックリアリズムでなければ描けなかったように、ユーゴスラビアの「現実」もこれ以外に描き出す手段がなかったのだ。内戦前に制作された『パパは出張中!』と比較してみれば、その違いは明らかである。

 ラストシーン、あれは、彼らの「国」は地上のどこにも存在しえない、ということなんだろうなあ、と思ったら泣けた。つっても涙が滲んだ程度だけど。

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