佐藤亜紀明治大学特別講義Ⅲ-1
今回は夏休みの宿題に関連したお話にまでは到達しませんでした。『地中海』は第一巻は分厚いし、内容も気候とか地理とか、すごく細分化されて無味乾燥ともいえる記述でしんどいですが、巻を追って薄くなるし、事件や人物(何しろ、そもそも原題は「フェリペ2世時代の地中海と地中海世界」だ)が中心となるので、まだしも読みやすかったです。第五巻なんて本文は100頁くらいしかないし(残りは註)。
次回は11月下旬なんで、一巻で挫折した人は二巻から再挑戦してみてはどうでしょうか、と言ってみる。
今回は体調が悪いとのことで、いつも以上に話があっちこっちに飛びましたが、どっちせよおもしろい話が聞けたので問題なし。今回は「国民」のお話でした。
「近代」はフランス革命(1789)と共に始まる。ギゾーによる「国民」の定義(1822)
peuple: ある主権の領域に住み、同一の法に服す。
nation: ある主権の領域に住み、同一の法に服し、なおかつ出自を同じくする。
フランス革命は「啓蒙主義によって起こった」ことになっている。本当にそうなのか?という疑問を解くべく、アメリカの研究者ロバート・ダーントンは革命直前の貸し本屋の目録を調べた。
たぶんこれだな。『禁じられたベストセラー 革命前のフランス人は何を読んでいたか』(新曜社) あと、これもかも。『革命前夜の地下出版』(岩波書店) amazonで検索してみたら、ほかにもいろいろおもしろうそうな本が出てますね。
で、ダーントンによると、いわゆる啓蒙思想の本は、まったくといっていいほど借りられていなかったそうである。じゃあどんな本が借りられていたかというと、ポルノグラフィー。特に「マリー・アントワネットもの」。
残っている貸し本屋目録自体が少ないので、これだけで「啓蒙主義は普及していなかった」とは言い切れない、とダーントンは結論しているとのことだが、とりあえず教科書で言われてるほど普及してなかったことだけは確かである。
革命だろうとなんだろうと、事件というものが何によって起きるのか。なんとなくの「微妙な空気」としか呼べないものであろう。
今回使用された絵画は二点だけ。 まずはリューベンス(1577-1640)。
女性君主は静止したポーズで、真っ直ぐ鑑賞者を見詰めている。馬も動いていない(左前足を上げているのは見た目のバランスであり、動きではない)。この頃から、「君主の美徳」とは、「動かないこと」となっていた。どっしり座って動かない君主のほうが、臣下たち(各分野の専門家たち)はやりやすい。軽挙妄動されては下が困るのである。
悪い例: フランツ2世(1768-1835)。他人の意見に左右され易く、一度決めたことをすぐに翻す。
良い例: マリア・テレジア(1717-1780)。一度決めたことは最後まで遣り通す。6歳で一目ぼれした相手と結婚まで漕ぎ着ける、七年戦争を戦い抜く、など。
A国の領土がB国に割譲されたら、元の住民は追い出され、その「新領土」にはB国の行政が持ち込まれる。現代の感覚ではそうなる。しかし1789年以前は、住民たちも行政もそのまま残った。会社の社長が交替するようなものだった。
続いてダヴィッド(1748-1825)。
まず馬の描かれ方の違いに注目。躍動的で表情もあり、しかも追い風で尾と鬣は前方へ。馬上の君主はこちらを振り返るが、その手は前方を示し、もちろんマントは前方へと翻っている。
ナポレオンが誰かということをまったく知らない鑑賞者でさえ、「ダイナミズム」を感じるはずだ。そのダイナミズムは、ナポレオンのものではなく、「歴史」のダイナミズムである。
我々が「歴史のダイナミズム」を求めた瞬間はいつか。フランス革命からナポレオン戦争までの間の、ある瞬間である。
ナポレオンが掲げた右手が象徴するもの。この絵を見る者、すなわち「国民」を先導する「指導者」としての役割である。主役は彼ではない。導かれる者、すなわち我々が指導者についていくことで状況が動く。それが「歴史」なのである。
主役は国民であり、指導者はその意思を体現しているに過ぎない、と言える。
その土地に住んでいるだけの「人民 peuple」を国家に組み込み、「国民 nation」とする。それが「動員」である。
| 固定リンク
「佐藤亜紀明治大学特別講義」カテゴリの記事
- 佐藤亜紀明治大学特別講義INDEX(2014.01.22)
- 2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第4回(2009.12.02)
- 2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第3回(2009.10.23)
- 2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第2回-②(2009.07.27)
- 2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第2回-①(2009.07.27)