報道ステーションGood Job!:憲法判例百選の執筆者198人にアンケート調査

報道ステーションがとても良い調査をし、その結果を公開してくれている。

憲法判例百選の執筆者198人にアンケート調査を行い、151人の方々から返信をいただきました。
(調査期間6月6日〜12日 他界した人や辞退した人などを除き、アンケート票を送付)

この調査の良い点は調査対象を機械的に決めており、かつ、網羅性が高いということ。これは「憲法判例百選」という本の存在が大きい。こういう本が企画され、かつ、出版され続けているということがこの分野の素晴らしい点だと思う。こういう本は標準的な解釈をする人たちが選抜されているはずなので、少なくとも日本の学界において標準的な人たちに意見を聞けているのだと思う。

そして、この中から選抜したのではなく、他界した人や辞退した人などを除き、アンケート票を送付したというのも素晴らしい。これにより、報道ステーションの立ち位置による偏りをある程度消すことができている(もちろん、アンケートの設問で偏りがでている可能性はある。実際、回答の中には質問が不適切という指摘も結構ある)。

最後に実名公表を良しとした人だけだけれども、コメントを載せているのも素晴らしい。改行なしで読みづらいことから編集を加えていないことが予想されるので、それも、この場合は良いと思う。

ひととおり、全部目を通したけど憲法学者の方々はいろいろな大学のいろいろな学部にいらっしゃり、意見がいろいろと違っているというのも分かる。個人の政治的立ち位置からの批判もあれば、政策的な批判、立憲主義に基づく手続き的批判、もちろん、賛成もある。こういうばらつきの中で、多くの学者が指摘している「立憲主義の下で、現行憲法からすると違憲」という共通意見は傾聴すべきだと思う。

特に以下の方のコメントは勉強となった(改行はnext49がいれた)。

現在、憲法学者たちが一番問題にしているのは、集団的自衛権という政策の是非ではない。いくら良い政策でも、憲法に反することはやってはいけない、というのが、立憲主義=憲法によって権力を拘束するという、現代の憲法が立脚する思想である。

フランスでは1999年、男女平等を推し進めるため、パリテ法(男女同数候補者法)を議会が採択したが、憲法院はこれを憲法違反、平等違反と断じた。つまり、これは現行憲法では認められていない、正当化するためには憲法制定権力(=国民)の決定が必要だとされたのである。そこでフランスは、まずは憲法改正を経てから、ようやくパリテ法を実施することができたのである。

平等という、誰も文句をつけられない目的を達するためでさえ、憲法に違反することを、権力はしてはいけないのである。今回のことも同じことである。集団的自衛権を認めることが良いか悪いかの問題ではない。現行憲法は集団的自衛権を認めていない、だからもし認めたいのであれば、きちんと憲法改正手続を経なさい、ということなのである。 

昨年の閣議決定は、本来憲法改正(=国民投票)をしなければならなかったはずのことを、内閣限りで変えてしまった。下位法が上位法を変えることはあってはならないにもかかわらず。憲法学者なら皆、ナチスがやった同じことを思い起こしたはずである。国民の意思を一部の権力者が勝手に改変する、これはもはや民主主義ではない。

(金沢大学:金沢大学法務研究科・稲葉実香氏のコメント)

私は賛同しないけれども、賛成意見を実名で載せているのも学者として素晴らしい姿勢と思う。

憲法には、集団的自衛権の行使について明確な禁止規定は存在しない。それゆえ、集団的自衛権の行使を明らかに違憲と断定する根拠は見いだせない。

集団的自衛権の行使禁止は政府が自らの憲法解釈によって設定したものであるから、その後に「事情の変更」が認められれば、かつての自らの解釈を変更して禁止を解除することは、法理論的に可能である(最高裁が「判例変更」を行うのと同じ)。そこで問題の焦点は、集団的自衛権行使を禁止する政府見解が出された1972年と現在との間に、解釈変更を基礎づけるような「事情の変更」が認められるかであるが、約40年の間に生じた国際情勢や軍事バランスの変化に鑑みれば、おそらく認められるだろう。

政府は、新たな憲法解釈の「論理的整合性」を強弁するが(違憲説の根拠もこれである)、これが戦略的に誤りであった。「事情の変更」に基づく解釈変更であると言い切っていれば(つまり、初めから従来解釈からの断絶を強調していれば)、従来解釈との整合性が問われる余地はなく、その後において実質的な政策論議が展開されたかもしれない。この点、過去の解釈に拘る内閣法制局に引きずられ過ぎたのではないか。もちろん、政治的には難しかったのかもしれないが。ある憲法解釈が妥当か否かは、憲法学者の多数決や学者の権威で決まるものではない。重要なのは結論を支える理由や根拠である。集団的自衛権の行使許容論(上記)が憲法上可能な主張であることも紹介してほしい。

安全保障という高度に政治的で、また、刻々と変転する国際情勢の動きに機敏に対処しなければならない課題を、憲法解釈という枠組みで論じることの是非こそが問われるべき。70年前の憲法の文言や40年前の解釈との整合性に腐心するのは、意味ある議論ではない。「歯止め」については、それを憲法に求めるのではなく、選良である国会議員や首相・大臣の判断をもう少し信用してはどうか(それが民主主義であり、たいていの国はそうしている)。重要な決定を迫られる緊張感に耐えてこそ、民主主義は逞しくなるのではないか。
(九州大学大学院法学研究院准教授・井上武史氏のコメント)

上と同じではないけれども、同様に解釈によって集団的自衛権限定容認もありえるとしているのが以下のコメント。

かつて自衛隊も違憲だと考えていた「護憲派」も、日本国憲法は自衛の権利を否定するほど非常識ではないはずだといった理論で合憲と考えるようになった。政府の集団的自衛権限定容認論は、「国際状況の変化によりアメリカと共に集団的自衛権を行使することが日本の平和にとって不可となったことはいまや常識である」というふうに、その論理を踏襲している。政府の憲法論の問題点を根本から明らかにするにはこの種の「常識」論をどうするかが重要ではないか。

憲法論とは別の問題だが、政府は、新安保法制のリスクやデメリットを正直に、合理的に国民示していない。当面リスクを背負う自衛隊と自衛官にどれくらいの負担をかけるのかを、メリットとともに示していないことが、この新法制への不信感の根本にあるように思う。政府がリスクとデメリットを示そうとしないなら、過去の事実を踏まえ、シミュレーションして、それを早急に国民に示すことはジャーナリズムの重要な使命ではないか。
(専修大学法学部教授・田村理氏のコメント)

たぶん、九州大学大学院法学研究院准教授・井上武史氏の主張に対する批判は以下のコメント

集団的自衛権の違憲性をはじめとする今回の安全保障法制の憲法上の諸問題についてはすでに多くの論者が批判しているとおりです。これまでの批判的意見に私からあらたに付け加えるべきことは現時点ではありません。

ただ、憲法の扱い方に関連して若干意見を記述しておきたいと思います。政府は、自らの憲法解釈に広い裁量的判断の余地があることを強調しています。しかし、そもそも立憲主義的憲法の下では、国家権力の憲法解釈権には強い縛りがかかっています。憲法以前の存在である人には自由があり、その自由は憲法に違反しないかぎり保障されるのに対して、憲法以後の存在である―いうまでもなく人権主体ではない―国家は、憲法によって与えられた権限を憲法に従って行使することが許されるにすぎません。たとえ憲法が明文で禁止していなくても授権していないことは、政府や国会の裁量で出来るわけではありません。集団的自衛権の解禁、自衛隊の後方支援活動の拡張、武力行使解禁いずれもそれを授権する規定は憲法にありません。それにもかかわらず反論されても同じ回答を繰り返す、そういう立憲主義のいろはを理解しない人々が政権の中枢にいる恐ろしさを感じずにはいられません。

なお「率直に事情変更を訴えればよかった」という考え方があるようですが、事情の変更によって憲法の解釈を自由に変更できるわけではないことは、叙上の簡単な説明でも明らかなとおりです。
(関西大学法学部・村田尚紀氏のコメント)

憲法というのが権力を持つ政府を縛る鎖であるというのは、大学院生時代に読んだ小室直樹:痛快!憲法学―Amazing study of constitutions & democracyで初めて知ったのだけど、でも、この本の体裁から「この小室という人の独自解釈かな」と思っていた。今回の憲法学者のコメントを読んで「ああ、あの時読んだ本の解釈は正しかったんだ」と分かった。

もちろん、高校までの教育において憲法が政府を縛るものであるということが明確に教えられるべきだけど、なぜ、そうなのかを立憲主義から法律の解釈の仕方までを説明できる人材が各地方で輩出できるのは重要だと思う。また、そもそも、どういう経緯で立憲主義が生まれて来たのかとか、立憲主義によって文化や制度がどう変わったのかも説明できる人材も同じように重要。もちろん、人間が学べることには興味の量や方向、時間の制約があるので、別々の人がそれぞれ学び、2〜3人のつてを通して、知り合えるようになっている社会がやはり良いと思う。

追記:立憲主義 vs 民主主義

へぇー。

衆参両院で多数を占め、盤石の民主的正統性を自負して安保法案の成立を目指す安倍。14日に維新の党最高顧問の橋下徹と会い、野党取り込みに動く。多数決の論理を持ち出す前に、幅広い合意形成の努力を演出する狙いだ。民主政治の複雑な磁場である国会に、立憲主義の言説はどこまで届くのか。樋口はこう説く。

「立憲主義と民主主義はぶつかりあうこともある。民主主義は人民の支配。立憲主義は人間の意思決定を超えた規範がある、という真の意味の法の支配だ。この2極をどう近づけ、妥当な中間線に統治機構や政治決定を持っていくかを憲法学者は議論している。『立憲デモクラシー』の言葉に託すのもそこだ」

(日本経済新聞:東大法学部大教室に現れた「立憲主義の地霊」 より)