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なりゆき上、性犯罪についての出前講座(?)をしてましたとさ。
さすがにちょっと疲れた。
その中でちょっと気になったこと。
「男の性欲をどうしてくれる!」
「あんたは男ってものをわかってない」
等々を、一部の“オトコ”な方々にさんざん言われました。
さらには「男は獣なのだ!(キリッ)」とさえも。…ああ既視感が。
で、こういうやりとりの中で、私はある重大な発見をしたのでした。
それは、
「男はこういうものなんだ」という人たち(男女問わない)は、
では女性はどういうものなのか、というのをわかってない。わかろうとしていない。
ひたすら「男とは」を説いてくるのみ。
自分の知っていることがすべて。
んでもって「わかってない女にわからせなくては!」という焦りがあるように感じる。
懲らしめてやらなきゃ、みたいな空気を感じる。
もちろん、こちら側の主張を聞こうとしない。
性暴力がどういうものなのか、どれほどひどいものなのか、ということもわかろうとしないし、聞く耳持たない。
被害者なんだから大げさに言っちゃって、くらいに思ってるし、ものすごく被害者を馬鹿にしている。
被害者が論理的に話すということ自体が気に入らないみたいで、必死でこっちを「下」に置きたがる。
とことん上から目線でいようとする。
さらには私は女性全体を代表しているつもりはなくて、
男性が悪気なく性欲ある (そして女性にもある)というのは理解しているつもりで、
その上で話をしているのだけれど、
そうなると今度は
「パートナーのいる女性なら、わかってるはず」と、
その人たちの考えるところの“共通認識”を持ち出されごり押しされる。
(あんた、わかってるやろ?なにかまととぶってんのや、みたいな感じ)
以下、その内容。あちこちで拾ったけどおおむね共通している。
・セックスとはそもそも野獣のようなものだ
・セックスはある程度乱暴な行為
どうも違和感を感じる。
そういうものだけじゃない。
というと、またまた、「ひとむかし前の少女マンガみたいなこと考えてるんでしょ、きゃはは」
とか言われそうだけれど。
そうじゃなくって、本当にリラックスしてお互いをいつくしむというか、
あんまりうまく言えないのだけれど、
槙村さとる氏が「セックスはとろとろに溶け合うもの」というようなことを言っていたけど、
自分じゃうまくいえないので、その言葉に近い立場だと私は思う。
つまり、そういう認識を持ち、それを好む人もいるということ。
だから私は「乱暴な行為だ」と言われると、えええーーーって思うのだ。
そして私だけじゃなく、男性も女性もそういう認識の人は確かにいる。
勝手に一般化してるのはどっちだよ、と思ってしまう。
ただ、こういう意識の面でやりとりしていて、
男性の方が、性犯罪に関する正しい知識を持つと、理解が早いのかなと思うフシが結構ある。
むしろ、
「そんなことに目くじらたてちゃって」「女性がみんな口うるさいと思われるじゃない」という女性の方が結構たいへんなのかもしれない。
私は女性全体を代表しているつもりはないのに。
性暴力に理解のある男性もいれば、理解のない女性もいる。
ただ、理解のない女性からの言葉の方が傷が深い。
私はね。
結局、性差別をどれだけ内面化しているかという話に落ちつくような気がする。
(もちろん私も含めて)
二次加害は、まさに性差別意識からおこる。
「男とはこういうものだ」
「女がそういうことをするからいけないのだ」と。
共通しているのは、すべて被害者である女性に責任転嫁するということ。
そして男性の性被害に関しては、女性以上に理解されないし、ないものとして扱われがちで、「男なら」「男だろう」の抑圧はひどい。
※参考:男性サバイバーからのメッセージ
「男とはこういうもの」「女とはこういうもの」という意識はどこからきているのだろう。
リアルの知り合いの中では、育った環境がやはり大きい。
兄弟姉妹がいるかどうかでも違うように思うし、恋人や友人などで、どういう人と付き合ってきたかでも違うのかもしれない。
とはいえ認識は日々変化していくのだろうけれど。
さらに気になっているのは、
日本のドラマ映画や漫画フィクションと、欧米諸国では、
男女の絡みというかキスシーンやベッドシーンの描き方が違うということ。明らかに。
・・・とりあえず柔軟でいたいと思う今日この頃。
<参考>
■Gazing at the Celestial Blue■
「表現の自由」は誰のものですか?
■はてこはだいたい家にいる■
表現が規制されるのはその表現がすでに暴力で脅威だからだYO!
別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100316/1268768741
こちらは性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。
ただ目の前でおきていないことを人から聞いた場合、内容が信じられないほどひどい場合、
どうしてそれほどひどいことがどうしておきるのか?大げさに言っているのではないのか?
と思ったことがある人は多いのではないだろうか。
性暴力も、DVも、虐待も、戦慄するほどの内容ばかりだ。
正常な感覚を持っている人からすると、どうしてそんなにひどいことができるのだ?
歯止めとなるものはなかったのかと疑問を感じるのが当然の内容。
特に複数の人間が関わっている中で起きる暴力、黙殺される暴力には、そんなにも異常な人が、偶然、集まっているのはありえないのではないかと疑問を抱かれる。
そのために、はては被害者にこそ問題があるのだと思われたりもする。
それこそが加害者の狙っていることなのだ。
加害者の思うツボとならないよう、暴力の構造を多くの人に知ってほしいと思う。
自己愛的な人間―すなわち、第1章で述べたモラル・ハラスメントの加害者になるような人間がある集団に入ってくると、その人間は集団のメンバーを惹きつけ、従順な人々から順番に自分のまわりに集めていく。そこでもし誰かがそれを拒否すると、拒否した人間は身代わりの犠牲者(スケープゴート)にされて、集団から排除される。こうして、そのスケープゴートになった人間を攻撃したり、その悪口を言ったりする形で、その集団のなかにはひとつの社会関係ができあがる。この時、集団は、他人を尊重することを知らず、平気で人を傷つけることができるモラル・ハラスメントの加害者に影響されて、そのやり方に従うことになる。といっても、メンバーのひとりひとりはそれほど道徳的な感覚を失ったわけではない。だが、ためらうことを知らない人間のもとで、批判の能力を失ってしまうのだ。
こうした<権威への服従>について研究したアメリカの心理学者、スタンレー・ミルグラムは次のような方法である実験を行なった。《実験室に被験者を呼び、実験者の指示によって良心の痛みを感じるような行為をしてもらう。それはごく軽度のものから始まって、だんだん重度のものに変わっていく。実験の目的は、実験者の指示に対して、被験者がそんなことをするのは嫌だと言わずにどの行為までをおこなうか、それを知ることである》。この実験の結果、ミルグラムは次のような結論を出した。《このことからすれば、ごく普通の人々でも、行為を重ねていくうちに次第に良心の呵責がなくなり、最後には恐ろしい破壊行為をするまでになるだろう》。このことはクリストフ・ドゥジュールによっても確認された。ドウジュールは<社会のなかで悪は一般化される>と指摘している。実際、世のなかには自分の心の平衡を保つために、上からの権威を必要とする人々がいて、そういった人々は上からの指示があれば悪いことでも平気で行なうようになる。モラル・ハラスメントの加害者はそういった人々の従順さを利用して、被害者に苦しみを与えていくのである。
企業におけるモラル・ハラスメントの加害者―すなわち強度に自己愛的な人間の目的は、権力を手に入れて、どんな方法を使ってもそれを維持することであり、また、それによって自分の能力の欠如を覆い隠すことである。そのためには出世の妨げになる人間や才能にあふれている人間を取り除く必要がある。自分よりも弱い者を攻撃して満足するのではない。相手が身を守ることができなくなるように、邪魔になる人間の力を弱めていくのだ。そこが権力の乱用の場合とはちがうところである。
標的にされた人間は恐怖から加害者に従うようになる。いや、服従するようになることさえある。また、同僚たちもやはり恐怖から見てみないふりをして、加害者の攻撃に口を差しはさもうとしない。これは<各人が己のために、神は万人のために>(それぞれが自分のことだけ考えて、他人のことは神さまに任せておけ)という個人主義が支配する世界だ。加害者が上司であった場合、まわりの人々も被害者に同情を示したら、今度は自分が非難されて解雇の対象になるのではないかと恐れて、行動を起こそうとはしなくなるのだ。会社では波風を立ててはいけない。ただ会社のことを考え、ほかの人とはあまりちがったところを見せてはいけないのである。
「モラル・ハラスメント 人を傷つけずにはいられない」p131~132 ※強調は引用者
「ごく普通の人々でも、行為を重ねていくうちに次第に良心の呵責がなくなり、最後には恐ろしい破壊行為をするまでになる」というのは、たとえば戦争などでもよく見られることだ。
非行グループや暴力団など、いろいろな犯罪集団のなかでもまさに同じことがおこっている。
日常生活のなかでも、実はたくさん起きている。
セクハラも、単なる性的な嫌がらせだけでなく、精神的にじわじわと追い詰め、被害者に自分がおかしいのかと思わせたり、より自分を責める方向に持っていく雰囲気や空気というものが存在することが多い。
皆、忍耐しているのだというのもある意味では「正しい」現実ではあるけれど。
感覚を麻痺させ耐えることができないほどひどい暴力もある。
心ある人はその中に最後まで正常心を保つことはできず去り、残って偉くなるのは、まさにモラハラ加害者のような人物。
そういう組織ばかりとなってしまう。
社会全体がモラハラ加害者を養成しはびこらせるようなシステムとなってしまっている。
自分が悪いのではなかったのだ、自分に原因があったわけではなかったのだ、と思えるのは、
横のつながりが持て情報を共有することから始まるのだと思う。
だけれどそれは、あまりにひどい被害に遭った、多くの被害者が出た状況になったということでもあるのだ。
長いこと時間が経ち、変化したこともある。
小さいレベルでは、おかしいと思う人が他にもいたのだと少し風向きが変わったのを感じる。
報いを受けている、という因果応報ということよりも、
もっと現実的に、情報が蓄積され共有されていったことが大きいと思う。
情報を持つことは武器になる。
それにしても、
肝心なところが一番おかしいんだよなぁとつくづく感じてため息をついてしまう。
慎重に取り扱わなくてはいけないことが毎日の日常となることで、感覚鈍麻がおきる。
感覚鈍麻はおそろしい。
日々の業務に追われる中で、人を人として扱えなくなっているのではないだろうか。
それは警察にも思うこと。
検察にも。裁判官にも。
報道にも。
言ってもなかなか信じてもらえないほど、ひどい状況だ。
もっと自らの仕事に責任を感じてほしいと切に思う。
こちらができることは、情報を集め発信し、多くの人に共有してもらうこと。
息切れしないよう、自分を守りいたわりながら。
モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない (1999/12) マリー=フランス イルゴイエンヌ 商品詳細を見る |
別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100315/1268621869
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