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インドネシアの中学歴史教科書「第21章 インドネシアにおける日本の占領」の翻訳です。教科書の出典は Matroji, Sejarah SMP untuk Kelas VII, Erlangga,  2004, pp223-230. からです。

※上記の写真は日本軍政下のインドネシアで発行されていたグラフ雑誌「ジャワ・バル」(教科書とは関係ありません)。日本語とインドネシア語の両言語で記事が書かれています。表紙にはインドネシア語とカタカナ書きで「ベイエイ ゲキメツ オドリ」の文字も。

第21章 インドネシアにおける日本の占領

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【この章を学ぶ目的】
インドネシアにおける日本の占領は短期間にもかかわらず非常に深い痕跡を残した。それはなぜなのか。そして、オランダ植民地主義期との違いは何か。この章では以上の点について説明する。

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第二次世界大戦、とりわけ太平洋戦争の勃発はインドネシアに変化をもたらした。オランダの支配が終わり、インドネシアでは日本の支配が始まった。日本の進駐は苦しみをもたらしたが、インドネシアへ次第に独立の機会を開いた。

【A インドネシアにおける日本占領の背景】

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写真21-1 睦仁天皇(Tenno Meiji)とその家族。日本は明治政府下において開国し、近代化を図った。

日本では明治期に大規模な改革が行われた。結果として、日本は西洋諸国と肩を並べる近代産業国家となった。この改革は明治維新と呼ばれ、鎖国から帝国主義へと日本の政治指針にも変化をもたらした。

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写真21-2 3A運動のポスター。この運動は日本指導下のアジア地域において兄弟意識を高めるために日本(Nippon)によって喧伝された。

「八紘一宇(Hakko-ichi-u)」という帝国主義政策に基づき、日本は自らの指導下でアジア地域の統一を目指していた。アジア地域の一国として、インドネシアも日本占領の標的となった。日本は自らの意図を実現させるため、アジアの兄弟意識を醸成した。インドネシアにおいて日本は、自らを「長兄」と呼び、太平洋戦争を「大東亜戦争」と喧伝、「日本はアジアの光、日本はアジアの守護者、日本はアジアの指導者」という標語を用いた3A運動を展開した。

日本は軍事・産業国として、産業および軍事兵器の原料資源を大量に必要としていた。豊富な天然資源に恵まれたインドネシアは、日本の需要を十分に満たしていた。

アジア地域に見られた西洋帝国主義に対する反感が、オランダに支配されたインドネシアの早急な占領を日本に促した。こうした反感は日本の日露戦争での勝利に起因していた。インドネシアを含むアジアを支配することで、日本は西洋帝国主義の影響を食い止める意図があった。

【B インドネシアにおける日本占領の目的】

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写真21-3 日本のインドネシアと東南アジアへの侵攻図

日本はインドネシアを産業や軍事兵器に関する素材原料の供給源にした。インドネシア諸島に侵攻した際、日本がまず先に標的としたのは、東カリマンタンのタラカンやバリックパパン、南スマトラのパレンバンなど石油資源が豊富な地域であった。

インドネシア人民は西洋帝国主義と同一視された連合国軍の攻撃を食い止める勢力とされた。日本は鉄道網や要塞を建設するために、労務者(romusha)という強制労働を課した。日本はまた、一部のインドネシア住民に軍事教練を施した。

【C インドネシアにおける日本(占領)政府】

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写真21-4 1942年3月8日(西ジャワ)スバンのカリジャティで行われた降伏協議。写真最左の人物がオランダ領東インド最高司令官のテル・ポールテン中将と思われる。

1942年3月8日、オランダ領東インド最高司令官のテル・ポールテン(Ter Poorten)中将は今村(均)中将が率いる日本軍に無条件降伏した。降伏協議は西ジャワ州スバンのカリジャティで行われた。これはインドネシアにおける日本占領の開始を象徴する出来事だった。

インドネシアは日本の手に落ちると、同国の軍政下に置かれた。インドネシアにおける日本軍政の統治は以下の3つの地域に分割された。

スマトラ地域は陸軍(第25軍)が統治し、ブキティンギに本部が置かれた。ジャワ地域は陸軍(第16軍)が統治し、ジャカルタに本部が置かれた。カリマンタン、スラウェシ、マルク地域は海軍が統治し、マカッサルに本部が置かれた。


【D 天然資源と労働力の搾取】

軍政下に置かれていたため、政治・経済・社会など全ての政策が連合国勢力との戦争に関連付けられた。戦争の利益を目的として、日本はインドネシアの天然資源と労働力を徹底的に搾取した。

●天然資源の搾取
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写真21-5 日本は農産物と労働力を徹底的に搾取した。人民は極度の貧困に苦しんだ。飢餓と疫病が至る所で発生した。

日本は軍需産業用の原料素材の統制および確保を目指した。また、アジア諸国における敵側の食糧供給源を断とうとする計画を持っていた。この計画の実施に関して、日本は二つの段階を踏んだ。第一は支配権の確立であり、第二に軍事物資の需要を満たすために占領地域経済を再編成した。その目的は、支配下の諸地域で日本の需要を満たすことにあった。

オランダ領東インド政府は日本への降伏前に焦土作戦を実行し、石油採掘施設などの重要拠点を破壊した。このため、日本の占領初期にはほぼ全ての経済活動が麻痺していた。これら全てを克服するため、日本占領政府は橋梁や電話網の復活など、経済手段の復旧を行なった。また、キニーネ、ゴム、茶などの農園地は占領政府が直接 監督した。

日本占領政府による農園管理は戦争努力を支援するものでなければならなかった。例えば、食糧作物や、戦闘機類への潤滑油として用いられるヒマ(トウゴマ)が非常に必要とされた。その結果、スマトラでは多くのタバコ農園が潰され、その後にはヒマが植えられた。

1944年に日本が次第に追いつめられると、素原材料の需要要求もますます高まった。やがて、ジャワ奉公会(Jawa Hokokai)、農業組合(Noyo Kumiai : 原文ママ)、およびその他の政府緒機関が物資や食料の大規模後な徴発を行なった。

軍隊への大規模な食糧徴発は当然のことながら人民に厄災をもたらした。ジャワにおける食糧事情は1942年以来 不足が続き、悪化の一途を辿った。日本占領政府は新たな農地を開拓することで、食糧生産の拡大を呼びかけた。タバコ、コーヒー、茶の農地では、食料の栽培が強制された。この政策はインドネシアの全地域で実施されたが、結果として森林破壊が発生した。ジャワ島だけでも50万ヘクタールの森林が農地の確保という名目で無秩序に伐採された。

日本政府による食糧の徴発は稲や他の収穫物を取り上げるという方法で行われた。複数の収穫物から、人民にはその20パーセントの保有が許可され、30パーセントは農業組合(Noyo Kumiai : 原文ママ)を通じて政府への提供が義務付けられた。残りの50パーセントは苗のまま保存され、村の格納場所へ納められた。


●労働力の搾取
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写真21-6 日本軍関連施設を建設するために動員された労務者(romusha)たち。

日本占領政府期における労働力の搾取は、インドネシア社会のあらゆる階層に対して行われた。都市部や村落部出身者、教育を受けたものや文盲を問わず、全員が日本の必要に応じて搾取された。中でも労務者(Romusha: 強制労働者)が最も悲惨な状況に置かれた。彼らは日本によって、主に飛行場、防御用堡塁、線路などの軍事施設を建設するため強制的に徴用された。労務者の大半が村落部の出身で、学校へ通っていない者や最高でも小学校卒業者が多かった。こうした住民を数多く抱えるジャワ島では大規模な労務者徴用が可能となった。何千もの労務者がジャワ島外へ送られただけではなく、マラヤ(マレーシア)、ビルマ(ミャンマー)、シャム(タイ)などの国外へ送られた者もいた。

労務者の待遇は非常に劣悪なものだった。健康は保障されず、食料は不十分だったにもかかわらず、彼らには過酷な労働が課せられた。その結果、数多くの労務者が作業地で亡くなった。こうした悲しむべき状況は人々の口から口へ、全村民へと広がった。

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写真21-7 日本の支配は社会のあらゆる分野および集団に及んでいた。子供たちにも敬礼が教えらえた。この点に関して、肯定的な面と否定的な面を評価してみよう。

日本は住民の不安を解消し、その秘密を隠蔽するべく、1943年から新たな宣撫工作を開始。労務者は経済兵士や労働者の英雄であると喧伝した。彼らは日本軍のために神聖な職務を果たす兵士として描かれていた。

こうした労務者の徴用はインドネシアの社会構造にも変化をもたらした。農業に従事する多くの若者が労務者として送られることを恐れ、農村から脱出した。その結果、農村住民の大半は女性、子供、障害を持つ者で占められた。


日本の戦争のための完全なる搾取

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写真21-8 ジャカルタ訪問中の東条英機首相(左)

1943年に入ると、太平洋戦争における日本の占領に変化の兆しが見える。それまで攻撃側にあった日本が、いまや防御側に転じたのだ。太平洋地域では連合軍による相次ぐ攻撃が日本を追い詰め始めていた。

広大な占領地域を防衛するため、日本は現地住民の支援を必要とした。日本は支援を得るために、インドネシアの青年層を大東亜戦争に協力させるべく動員を図った。インドネシア人民は連合軍の侵攻に備えて、物理的な準備をしなければならなかった。

青年団(Seinendan)
1943年3月9日、青年団(Seinendan)と名付けれた準軍事組織が設立された。14歳から22歳の若者が青年団への加入を許可された。青年団結成の目的は自らの力で祖国を防衛するための若者たちの教育及び訓練であった。しかしながら、こうした目的とは裏腹に、青年団は連合国の侵攻に対抗する日本を支援するために準備された。

婦人会(Fujinkai)
戦時中の徴用は男性だけではなく、女性も対象となった。このため、1943年8月に婦人会(Fujinkai)が設立された。15歳以上の女性が会員となった。これらの女性たちに対しても、準軍事的な訓練が施された。

警防団(Keibodan)
若者たちの中には特別なグループに入り、警察の職務を助ける教育をうけた者もいた。この特別なグループは警防団(Keibodan)と呼ばれ、20から25歳が団員として受け入れられた。警防団はスマトラでは防護団(Bogadan, 原文ママ)、カリマンタンではSameo Konen Hokokudan (原文ママ) 【※訳注】 の名前で知られていた。

【※訳注】:原文の「Sameo」が意味するものは不明。「Konen Hokokudan」は日本語の「興南報国団」と考えらえる。『世界の教科書=歴史015 インドネシア』(ほるぷ出版、1982年)には「…警防団は…カリマンタンではボルネオ興南報国団の名で知られている」(223頁)との記述がある。

軍事組織
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写真21-9 兵補部隊。結成の背景には日本の戦局悪化がある。

日本は1944年に入ると、全ての前線で後退を経験していた。日本は崩壊した部隊に代わる軍隊の追加を求めていた。このため、1944年4月には兵補(Heiho)が設立された。同年10月3日にはジャワ島でPETA(Pembela Tanah Air : 祖国防衛義勇軍)が、スマトラ島では義勇軍(Giyugun)が設立された。

これら義勇軍の結成によって、日本占領期には軍事教育を受けた社会階層が出現した。彼らは後に、インドネシア社会で重要なグループとなった。インドネシアの独立後、彼らの多くはインドネシア国軍(Tentara Nasional Indonesia : TNI)の指導者となり、中には政治的な指導者となった者もいた。

章末の学習
インドネシアにおける日本占領の背景、方法、影響について以下の欄に記述しなさい
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A. 最も適切な選択肢を一つ選べ。

1.明治維新を経験した日本の重要な変化とは?
a. 民主主義支持国となった
b. これまで通り鎖国政策を続けた
c. 帝国主義国となった
d. 西洋帝国主義に立ち向かうべく、アジア民族と一体化した

2. オランダ植民地政府と日本占領政府の主だった違いとは?
a. オランダ植民地政府は独立運動に対してより寛容だった
b. 日本占領政府は中央政府をジャカルタから移した
c. 日本占領政府は軍事政権だった
d. オランダ植民地政府は文民と軍人のバランスがとれていた

3.日本占領期における天然資源搾取の特徴とは?
a. 戦争の利益に貢献した
b. インドネシア住民と日本兵士が共同で保有した
c. 土地所有権が日本の管理下に置かれた
d. 住民は輸出用作物の栽培のみが許可された

4.労務者の徴用を目的として、日本がインドネシア人民の関心を掴むために行なった事とは?
a. インドネシアの将来的な独立を約束した
b. 自らをインドネシア民族の長兄と呼んだ
c. 3A運動の宣伝に非常に力を入れた
d. 労務者を国家に対する神聖な職務であると喧伝した

5.青年団、兵補、PETAが結成された背景とは?
a. インドネシア民衆が軍事的役割の重要性に気が付いた
b. 日本兵の数が日増しに不足していた
c. 日本が太平洋戦争で追い詰められていた
d. オランダ軍のジャワ島へ対する攻撃の脅威があった

B. 簡潔かつ明瞭に回答せよ。
1.日本が3A運動を展開した理由とは?
2.日本のインドネシア占領の目的を述べよ。
3.インドネシアにおける日本軍政の統治で分割された3つの地域を挙げよ。
4.労務者(romusha)の定義を述べよ
5.オランダの植民地政策と比較した日本の占領に関する自身の評価を述べよ。

【参考文献・サイト】
  • インドネシア共和国教育文化省編(森弘之、鈴木恒之訳)『世界の教科書=歴史015 インドネシア』、ほるぷ出版、1982年。※中学歴史教科書の翻訳
  • イ・ワヤン・バドリカ著(石井和子監訳)『インドネシアの歴史-インドネシアの高校歴史教科書(世界の教科書シリーズ20)』、明石書店、2008年。
  • 私の好きなインドネシア:インドネシア歴史教科書「日本軍占領時代」 
    (元インドネシア駐在員の方が運営している個人サイトです。今回のエントリーで紹介した出版社とは別のインドネシア歴史教科書の日本語訳があります)

【管理人コメント】
今回翻訳した歴史教科書を発行しているエルランガ社はインドネシアでも定評のある教科書出版社です。同じエルランガ社から出版されたインドネシア高校歴史教科書は、日本語訳がすでに明石書店から出ていますので、日本とインドネシアの歴史に興味がある方はぜひ目を通してみて下さい。オススメです。

なお、インドネシア歴史教科書の日本軍政期、独立宣言から、対オランダ独立戦争までの一連の記述を丹念に読み込むと、下記の関連記事「インドネシアの独立は日本に与えられたものなのか?」で紹介した「インドネシア人の反応」がおおよそ理解できるはずです。同記事のコメント欄ではインドネシア人の歴史認識に疑問を持つ人も数多くみられましたが、それらの疑問に対する「回答」の大半は現地歴史教科書を読めば分かることだからです。インドネシア側の見解を知る上でも、ひとつの参考意見として 上記で紹介した教科書の翻訳を読んで頂ければと思っています。

【関連記事】
★【激論】インドネシアの独立は日本に与えられたものなのか? 

※蛇足ですが、上記の関連記事を読む際は、できれば僕が訳した300個のコメント全てに目を通してみて下さい。コメント欄で言われているような内容以外にも様々な意見があるということがご理解いただけると思います。それを意図して過剰とも思える分量を訳したのですが、特定の内容を持つ意見のみに感情的に反応する人がコメント欄に溢れていたことが非常に残念でなりません。

【2014年8月12日追記】
【画像32枚】「日本には脱帽だ」-1950年代 日本の戦後復興を目の当たりにしたインドネシア人の反応