私はなぜ急に男をフッたのか
In the morning waken to the sound of weeping
Someone else should weep for me
Now it's over
Lover, let me beLove is blind
Love is your caress
Love is tenderness and momentary pain
Love is blind
ふー。いつ聴いてもジャニス・イアンの歌、すごいね。最近、Yooutubeから掘り出してきて時々感慨にふけりながら聴いている曲で、この曲を聞くといろいろなことを思い出す。かと言って痛くも痒くもない、どちらかと言うともう恋愛の話はどうでもいい。どうでもいいのに書こうと思ったのは、男を急にフッたのかについては今まで書いていなかったから。話が長くなるので、どういう付き合い方をしていたかは割愛するとして、別れた後、自分の気持ちがとても尾を引いて、実は、この人物と別れてから何年も人を好きにならなかった。そういうことを避けていたという方が正しいかな。後から誰かを好きになったかという話もここでは割愛して。で、フッた側は言うなれば自分で腹を決め、相手に別れを言い渡した側なので、もっとサバサバしていてもよさそうなものだと自分でも思うが、そうではなかった。
今日は、書こうと決めた折角の機会なので、魚を捌く時に使う壷抜きという方法を使って肛門からそっくり内蔵をえぐり出してみようかと思う。
事実上、フッたのは私なんだろうけど、相手よりも私の方が気持ちを長く引きずったのではないかと思った。これは、別れた後の彼の行動を知ったのも理由だった。だからフラれた男がいつまでもgzgzしている状態と大して変わらないと思う。
この時、相手を嫌いになったからではなかった。5年も付き合っていると、そうそう簡単に嫌いになるなんて逆に難しい。嫌だと思う性格や嫌な癖のようなものはあっても、それを含めて嫌いになったという事ではなかった。もっと長い目で見て、つまり結婚とかをある目標点に置いて見た時、彼には変えてもらいたい部分があった。結婚するからには諸々の条件が整わないとできないが、その一部に私の我慢の限界を超えると核心していたことがあり、当時の私は、これはお互いが子どもであるがゆえ折り合いがつかなくなっているだけで、封筒の合わせ目の糊代のような、時間と共に成長すればぴったりくっつき合うだろうくらいに思っていた。しばらく離れて、一人という条件でもう一度自分と相手を見直す時間が欲しいと提案した。だから、お互いを縛り合っている関係を真っさらな状態に戻すことに意味があった。これは、いつまでとか期限つきでは考えられないのではないかと思い、そういう意味での別れだった。
相手に考え直してもらいたい点を伝えて別れを告げたが、必ずいつか縒りが戻ると信じていたというのが私の場合いの「急にフッた」時の気持ちだった。この時の私は、「いつまでも待っているね」と、どれほど言いたかったしれない。この別れが本当の現実になるくらいなら、今別れを告げる必要はないのじゃないか。だったら、このまま結婚に不安や不満があることに蓋をしておけばよろしい。と、何度も同じような考えが去来して苦しかった。でも、これを全て吹っ切って彼に告げることができた理由は、真剣にダメ押しをお互いにした上で結婚したかった、というのが本音だった。だから、彼が私を選ぶかどうかの賭けでもあった。
彼に直して欲しい部分については、それが原因で、結婚しても長くは続かないだろうと直感していた。それが現実になるのが怖かった。その部分については、先日、極東ブログの紹介記事で知った「男はなぜ急に女にフラれるのか?(姫野友美)」(参照)にも書いてあった。ひとことで言うと、やっぱり自尊心のなせる技ということかな。ここまでズバリ言われちゃうと気持よく認めざるをえないけど、自己から発し自己に返るのが我執の苦しみと言うか。マイッタ。
私の、相手に対して直してもらいという要望は、フェアーだと思っていた。どう見ても相手の我儘ぶりの方が激しいからだ。独占欲が強く、私の自由を奪う人であった。彼の性格のせいで私の結婚は不幸になるんじゃないかと、そんな不安や怯えを私にもたらしたのは彼。と、ばっかり思っていた。問題はどちらが正しいかではなく、我執の問題。私に我執がなく、相手の意に反しない人物であれば、何の「我慢」も自分には存在しないはず(実際、こんな世界は知らないが、仏教の教えではそう。もちろん修行もしないといけない)。
この「我慢」は、一体何のためだったんだろうか。これがズシンときて、書きながら考えるのがしんどくなった。ここでもう少し抉ってみた。
一般的に使われている「我慢」とは、気持ちを抑制して耐えるという意味だが、夫婦が「性格の不一致で離婚する」時も恋愛の破局も、心情の質的には同じじゃないかな?「我慢」が心のある領域を超えると直感した時、それが別れを決意する動機につながることはあると思う。
結婚には離婚が、恋愛関係には別れがあるが、恋愛経験の数は離婚の回数よりも多い。これって普通でしょ。結婚は「契約」であるし、極端な話、愛情のない婚姻関係も「契約」の名のもとに存在している。恋愛関係には「契約」のような縛りはないが、関係を解消するとなると心情的にはかなりマイル(私の場合はマイッタ)。子どもをもうけて家族という単位であればなおのこと、離婚は本当にエネルギーを消耗する。結婚すれば、それを長く持続させるためには、お互いが「我慢」という抑制の領域を広げることが重要。そして、それが何かの拍子に恨み辛みに変わらず、自分自身の成長なのだと客観視出来ればきっと長く続くはず。「我慢」の領域を広げて相手に沿うというか、折れるような気持ちになれないと長くは続かない。
話を恋愛相手との別れに戻すと、結局、この「我慢領域」を広げる作業までに至らなかったということかな。この人とやっていきたいという気持ちがあっても、丸ごとオッケーじゃなく、私が許容できない性格の一部に難癖をつけ、自分の許容範囲内で収まって欲しいという欲望を剥き出しにしただけだった。私はこのままで良いという「自尊心」や「相手の性格が悪い」という考えを守る我執が強かったのだなと思う。
別れの後、私が長く落ち込んで引きずった理由まで言ってもいいだろうか。つでに言っちゃうと、相手は私と別れて悩むとか落ち込むとかの隙もなく直ぐに彼女を作っちゃったんだよね。私が時間を置こうと意図したものは何も伝わらなかったみたい。というか、彼は、寂しさを紛らわしたかったようだ。直ぐに結婚して子どももいたようだけど、漏れ聞き知るところによると、「性格の不一致」で離婚したそうだ。
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コメント
優れた家庭料理は同居人を気持ちを豊かにし、料理人への敬意をもたせるから、本来的な生き辛さはなくならないにしても片隅に寄せやすくなるから、過去の痛みも和らぎ、本人もまた豊かさを感じる日々を暮らせると思ってましたが・・・。特に尋常ではない料理力だし。逆にそんな痛みが、そのような並外れた料理力を授けたのでしょうか。
投稿: kamiteku | 2012-02-02 22:15
kamitekuさん、 満たされない部分が心のどこかにあると、料理と言わず、何かに向けてがむしゃらにやろうとするエネルギーにはなったかもしれませんね。今とは時代の空気も違うし、人の心にはなんかドラマのような、物語のような出来事がゴロゴロあったかに思います。バランス感覚は養われているかもしれない。
投稿: godmother | 2012-02-03 04:41