「友達」について、覚え書き
娘との話に出てきた「友達」のことで、そう言えば昨日、「友達は7人いれば大丈夫・・・」という変な記事を読んだなと思い出し、電話を切ってからその記事を真面目に読んでみた。
あった、これこれ(参照)。
友達は7人いれば大丈夫、人生に必要な7つのタイプの友達
1.大きな車を持っている人
2.パソコンの知識がある人
3.子供やペットの面倒を見てくれる人
4.業界人
5.押しの強い人
6.いろいろな特典を知っている人
7.役得のある仕事に就いている人
これを最初に読んで思ったことは、本気でこんなことを思っている人がいるんだろうか、冗談でしょうと疑ったくらい私とはかけ離れた認識だった。これ、ただのネタでしょと思っていたが、ここまで露骨に集約できずとも案外、「友達」の定義を見失っている現代人も多いのではないだろうか。娘の話を聞いていてそんな風に思えてきた。自分の「友達」に関する認識を挙げると、ともすると上記に似たような項目が挙がったりすることはないだろうか。娘の話にも出てきたことだし、この際、真面目に考えてみようかと思った。
昨日の娘の話は、何年も友達と思ってきた女友達に、自分が都合よく利用されているだけだと感じ始めているようだった。昨年の夏、娘は彼女と彼女が付き合っているという彼を連れて家に遊びにやってきて二泊した事もある。彼らとは、同じ趣味の仲間だそうだが、同じ趣味を通しての付き合いにしか相手が思っていないことが分かってきたそうだ。その大きな原因に頼まれたことを断る事があり、それから段々疎遠になってきて、友達だという認識が崩れてきたそうだ。では、どういう人が友達だと思っているのか尋ねると、「気持ちを打ち明けられたり、わかってくれる人」だと言ってた。つまり、相手の求めることと娘が求めていることが違うというのがはっきりしてきたわけだ。
私も、若い頃はこんな風に思っていたことを思い出した。表現上の問題もあるので一概にこれが間違いだというわけでもないが、上の7つの要件は「友達」と言及するよりも、自分の都合を満たす人であれば誰でも良いということだと思う。では、娘の文脈でいう理解者とは、自分を否定しない人が友達だと思っている節はないだろうか。自分に対して意見するような人が本当に友達だといえるのだろうか。どうもこの思考回路は全て、理屈の上の「自分に都合の良い人」となりがちだ。自分が嫌がることを言わない人が「友達」だったり、嫌なことを言う人も自分にとってはプラスになる人でもある。受け止め方次第で相手を良くも悪くもしてしまうのではないだろうか。こんな風に自分の考えを疑うのは母の影響もあり、お「互いを高めあえる人」が友達の条件だとインプットされている嫌いがある。それはそれで間違いではないが、もっとその奥に言葉になっていないものがあるような気がする。因みに私が友達と呼ぶ人は、私がショックを受けるほどはっきり何でも言ってくれる人で、時にはその怖さから逃げたくもなるような現実をきっちりと教えてくれたりする人でもある。友達って、お節介なもの。放って置いてくれないもの。
そう言えば、この春、20歳を過ぎた長男が、友達に関しての悩みというか、寂しさを打ち明けてきた。大学のことで悩んでいた時、周囲の友達に一切そのことを話したり相談したいなどと思わなかった自分は孤独が好きで、結局本当の友達などいないと言っていた。ただ、辛い時に浮かぶのは、先輩に頑張ってる人がいて逆境に強く、何があっても負けないでやり通す意志の強い人のことだそうだ。息子は気づいていないようだったが、そういう人が本当の「友達」ではないかと思う。自分に頑張れと言ってくれるかどうかよりも、ふと気づくと思い出して自分に勇気を与えてくれたり、励みになるような人物が心のどこかにいつもいる。その人が「友達」ではないだろうか。
他人がそういう存在になるには、時間を共有することから始まると思う。それが趣味や学習の場、運動する場だったりする。そこで自分の役に立つ人が「友達」だと思うのは大きな勘違いで、それらを目的とした友達付き合いは功利的になってしまう。それが分かっているからこそ悩むのだと思う。しかし、上の7つが友達付き合いだと思っている人も最近はいるらしい。それが昨日の娘の話に出てきた女友達のことだった。日本は変わってしまったなと寂しさが残った。
自分のことを振り返ってみた時、私は過去にかなり辛辣に物を言ってきたものだ。本音の話が通じないくらいなら元々友達でもなんでもないと開き直ってぶつけたこともあるが、幸い見捨てられたことはなかった。どこかで誰かが私のことを「友達」だと慕ってくれているのが分かる。だが、私はどうだろうか。そういう人達から本音でというか、本気で何かを言われたことは少ないなあ。気持ちに針を刺すような痛いことを言うという意味ではないが、言われて初めて痛みを感じる言葉はある。かつて、そういう思いをしたことは少なかった自分に気づく。この先、友達作りのチャンスはあるかと問うと、そうはないと思う。交友関係をあえて広げようとういう意欲のようなものはもうあまりない。だた、少ないながらも友達と言える人が何人かいて、温めていたいと思った。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
中学校のとき、尊敬していた先生が「友達とは利用するものだ。」とおっしゃいました。
清く正しく美しく潔癖だった中学生の私は(笑)「利用」という言葉の功利主義的な面ばかりに気を取られ、先生の意見にどうしても賛成することができませんでした。
が、年を取って半世紀もすぎると、しみじみと当時の先生のおっしゃった意味が分かるのです。
利用し、利用されるのが友達同士。それを喜んでお互い利用しあえる、許し合えるのが友達同士。それがいやなら、友達ではないのでは。そんなことをおっしゃりたかったのではないかと今なら思えるのでした。
お嬢さんの場合は、お互いに喜びあえない一方通行の利用の仕方だからお嬢さんの方が傷ついてしまったのでしょうね。そういうおつきあいはやめるが吉ですね。そんな風に感じました。
投稿: minaho_s | 2011-07-06 09:33