豚肉の粒マスタード焼き(改良版):時代で培った価値観があるからこそ
先日実家の母から、豚肉の粒マスタード焼きは簡単で美味しいけど、マスタードの粒がフライパンから飛び出して後片付けが面倒だというクレームがきました。なんというか、とほほ。面倒臭いから何とかして欲しいなどというのは、単に文句言っているだけで、レシピを教えて貰った人に聞くか?(ああ、この文脈は、親子間の確執的なところからの下りがあるので、他の方にそう思っているわけではありません。)私が母に躾られている大昔には「女の子は面倒臭いなんて言うもんじゃない」と言われたものです。ですから、その母の口からこういう言葉が出るとちょっと抵抗を覚えるのです。
美味しいので我が家の定番となっている料理ですが(レシピ☛)、確かに言われてみれば、粒マスタードはまるで胡麻を炒っているのと同じで辺りに飛び散ります。改良の余地があるかもしれないと思い、結構よく使う方法でもある片栗粉をまぶして、接着剤のような効果を期待しました。これって特に何ということはないのですが、肉汁は流れ出さない上大変柔らなく、問題だった粒マスタードの飛び散りも殆どなくなりました。また、実験的にこのような料理には使わないもも肉でも試してみたのですが、大変柔らかく、食べやすかったです。年寄りの言うことには耳を傾けるというものですね。たったこれだけの事なのですが、改善というのは人から教えて貰うことが多いです。
方法は、肉に下味をつけずに片栗粉を両面に指先でぱらぱらと振りかけて軽く焼きます。片栗粉は本当に少しで充分です。肉に火が通ったら一度取り出し、ここで合わせ調味料に浸けて味付けします。味付けの角を取るために、もう一度フライパンで軽く焼き付けます。
材料
- 豚ローススライス・・200g
- 豚ももスライス・・150g
- 片栗粉・・小さじ2
合わせ調味料
- 粒マスタード・・大さじ1.5
- 醤油・・大さじ1.5
- 酒・・大さじ1.5
作り方
- バットに指先で摘んだ片栗粉をパラパラ揉みながら散らす。
- 1の上にスライス肉を置いて指先で片栗粉をパラパラし、その上にスライスをのせて同じように全部の肉に片栗粉をふりかける。
- フライパンに油を引いて肉の両面を焼き、焼けた肉は合わせ調味料に浸ける。
- 肉が全部焼けたら3の肉をもう一度フライパンに戻して仕上げ焼きする♪
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一月が過ぎるのが速かったと思ったら、二月はなんでしょう、もう終わっている。時の流れるのは早いもので、歳を取ると余計にそう感じます。毎朝温泉で合うお婆樣が、三日に一度はそう言うのをほとんど挨拶代わりに聞いていますが、私も同じように思います。
このお婆樣が先日転んで、手の親指を痛めたので不自由だと聞いた時のことです。他所の地域の共同浴場のお掃除を仕事にしているそうで、なんて働き者のお婆様なのかとそれにも驚きました。痛い手を抱えて仕事に行かれそうもないことを苦にして、どうしようかと困っている様子でした。休んでしまおうという発想はなく、何とか仕事に行きたいと考えている様子は理解できました。腫れてしまった場所のうっ血を散らす「Hirudoid=ヒルドイド」という軟膏もありますが、テーピングで補うことはできないものかと思い、その日の午前中にテーピングテープを持って自宅を訪ねたのでした。応急的にテープで固定したのです。楽になったというので、こんなことでも役に立つのものなのかと思いました。
40を過ぎて50に近くなるという頃、次第に自分の経験や勉強が役に立つということを感じるものだと思います。それまで自分が世の中のためになることができるなどと思うどころか、ろくな者じゃない、まともに極めたことも無く、何でも中途半端な人間だと思ってきました。どうせ人には理解されない自分なのだということを前提に、何処かでしらけて生きてきたと思うのです。ただ、しらけて朽ちるだけでは終われないという意地のような部分もあって、何かを取り上げては打ち込んでみたりしたこともあって、中途半端であれ、身についたこともあります。
テーピングが思いがけないことで役立ったと感じたのは、お婆様がテープが緩んだので巻き直して欲しいと家に来た時でした。しかも、畑のほうれん草をお礼にと小脇に抱えて。
人と関わるからこそ自分というものが見えてくるというのはあると思います。大馬鹿者で向こう見ずな20代の頃は、秀でた才能の発掘をするのだというくらいに、やればできる的な自信もあって、秀でるという事が社会的な地位の確立なのだという尺度もあリました。これも、高度成長期のインフレ時代の生き残り必須条件だったのです。この時代は基本的には人との争いを避けては上に上がれないのですから、私は脱落組です。社会的には脱落でも人としては決して品性を落としたわけではない、というのが唯一私の生存価値のようなささやかな望みであり、それを支えに今があるのです。
薄汚い欲得など持たなくとも、気高く生きるのだと言い切りたかった。裏を返せば、言い切る裏付けになる自信が持てなかったのが今の私です。心のどこかに、才能や能力に対する価値観が自分のステータスを築くのだという考え方があるのでしょう。若い頃に身についた、当時の日本で生き残るための価値観だというのに、この歳になってもそれを持っているのだと思うと嘆かわしいことです。 そんなものは無用の長物です。
今回お婆様から気付かされたのは、社会で自分が生かされるという時に、何ら備え持つ必要などなく、これまでの人生で培って持ち合わせていることで充分だということです。近所のお婆樣に役立つのは、話し相手になることだけでもよいのじゃないかと思います。というのは私レベルの話で、私の母が点訳を始めたのは60歳くらいでした。怪我をしたこのお婆様は、70過ぎで共同風呂のお掃除を仕事にしているのです。凄いですね、昔の人は。
このままで良いのだろうか、何かできることがあるとすればこの歳にしてここが最後のチャンスではないのかと思うようなことがあって、少し考えていたことです。これは、年齢からくる焦りや不安からのようなことかもしれません。が、この一件で、ついこの間まで持っていた自分の生存価値みたいな価値観が消えました。
これでは良くないと思うことも、だからと言って身についてしまっていることを剥がし取る訳にもいかず、この荷物をどうしたら下ろせるのかと考えていました。目から鱗が落ちるとはこのことで、お婆様一人が私にとっての「社会」でもあるということに気づくことで、先が少し明るくなったのは確かです。また、だからと言って、今までの価値観を捨て去る必要も無く、逆に、それがあるから見えたのではないかと思うに至ったのです。
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実はまだ話があって、「へぇ、世界史ね」での話に触れて、昨日の私の話の、戦争がもたらした人間教育の実態を知っているのは、戦後生まれの私世代が最後かと思い、書いておきたくなったのです。その前に、そのような価値観があるから私が重たいのだという受け止め方にも問題があると感じていましたから、物事にすごく否定的な見方もあって言い淀んでいたように思います。
私は1957年に生まれた。敗戦後に生まれた赤ん坊たちが団塊世代となり、米国流、つまりGHQ流の自由主義の上に、敗戦ナショナリズムの情念としての左翼を混合して(あるいは左翼に誘導され)、反抗する若者たちを作り出し、その反抗が老化して、現在の奇っ怪な政権を生み出した。
私はそのアホーな青年と「若さ」というのを、しらっと見ていた。私は、戦後に取り残された世代として、この世界に日本に意識した。ので、その村立の仕組み、もっと露骨にいえば、団塊世代を作り出した世界史・日本史のからくりを解体しなくてはならなかった。
究極は、この点なのだと私も同感です。自分のことを知るために、この世に自分が出てきた当時の時代を把握しようとすると、自ずと生まれた前後の歴史を知る必要が出てくるのです。それが、歴史を学ぶ必然だとしたら、そこのとを知らずして、一生懸命生きてきただけなどと軽口は叩けない。振り返らざるを得ないのです。
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