成人の日に
さっきNHKの「爆笑問題のニッポンの教養 成人の日スペシャル」(参照)という番組を見ていた。爆笑問題(漫才師)、立花隆(評論家・ジャーナリスト)、 糸井重里(コピーライター)、矢口真里(タレント・歌手)という面子。番組は現代らしく、40歳過ぎの面々が一様に、20歳になったからといって大人になったという自覚はなくて、そう思えたのは、40歳過ぎてから、人を雇うにようになってから、子どもができてからみたいな話だった。爆笑問題が二人とも40代半ば、糸井が60歳、立花が68歳で、矢口が25歳ということで、そうだな、俺みたいな50代はなかったが(今年で私は52歳になる)。
話の流れで、糸井さんにお子さんができたのはというのがあって、1981年と聞き、ふーんと思った。33歳くらいにできた子で今27歳くらいになるのだろう。その話はそこでぷつんと切れたが。
番組を見たのは偶然だったが、今日街中で成人式の女性をずいぶん見かけたこともあっていろいろ物思いみたいのはあった。新成人についての私の率直な印象は、げ、でかいな、この女、というのと、首に巻いた、あれなんというのか、ショール? 随分派手だな、くらいか。もちろん、着物も派手だし、私が二十歳ころの着物となんか違うようにも思ったし、それをいうなら所作も違うのだが、時代の変化にどうこういうのも野暮というものだろう。
成人の日といえば、新聞社説でもまいどながら新成人の若者に語るふうの話がある。今年は平成生まれが二十歳になるというのだから、その趣向もわからないでもない。私はといえば特に、新成人に語ることなんかない。ああいうのは、それなりに社会的に成功した人が、若者に私たちのようになれよ、と、フカすものなんで、私のような人生の失敗者には出る幕もないのだが、が、というのは、こう言うとなんだが、たぶん、新成人の多くは、普通の意味では社会的には成功しないだろうと思う。どっちかといえば失敗したな俺の人生って、50歳くらいに思うようになると思う。もちろん、結論を先にいうと、その途中くらいで、人生って別段社会的な成功とか失敗ってもんじゃないなという転機はあるものだけど。
ということをちょっと書いてみてもいいかもしれないなと思った。このねじくれた精神のブログを新成人が読むとも思えないけど。
52歳にもなる私だが、20歳の成人の日のことはよく覚えている。地方行政が用意した集会で中学の同級生とすげー久しぶりにあって驚いたものだった。つうことは、15歳からの5年間というのはすげー長い日々だったという実感がある。恐ろしいことに、その5年間と、それからの30年ン年とどっちが長いかという、印象としては前者だったりする。つうことは、人生は短い。唖然とするね。
会合では国歌斉唱だったか君が代斉唱だったかでご起立をと言われてたが、たぶん私だけ座っていた。口パクもしなかった。バカじゃね、君が代は国歌でもなんでもねーよ、法的根拠もないし(当時はなかった)、歌詞の来歴もわからねー(典拠はないはず)、メロディーも明治政府が擬古的に作り直したもん(最初外人に作らせてこけた)で伝統も歴史もねーよ、けっ、とか思っていたし、私は全共闘世代ではないけど、戦後民主主義教育をべたに受けた真っ直ぐ少年でもあった。そんなもの。
それからとある著名人の講演があった。今でも覚えているのは、そのオッサンが自分の人生を実現するのに子どもを作らないと決めた、そういう人生もあるのだと熱弁していたことだった。もちろん、何言ってんのこのオッサンと思っていた。今思うと彼は今の私の年だった。そう考えると、今頃、彼の心情がわからないでもないなと思うことはあるにはある。彼は社会的に成功した人だったし、その後の人生も成功と言えるだろう。今もご健在だし。ただ、お子さんはその後もなかっただろうな。
成人したという記憶といえばそのくらいか。私が酒を飲んだのは20歳以降だったと思う。家にある酒をちらと味見くらいはしたことはあったかと思うが、飲むというほどでもなかったと記憶している。そして、それから人生に二度くらい悪酔いした。三度くらいだったかな。でもそのくらい。酒で吐いたことはない。酒に合う体質でもなかった。遺伝的なものだろう。が、今思うと、それでもひどい酒飲んでいたなと思う。若いとまずい酒飲めるよなと思う。というあたりで、自分はもう若くはない。いつまでたっても私の心性は中二病みたいなところがあるけど、それでもどっかで、えいやと死の方向の橋をなんどか渡ってしまった。
人生厳しいなというのの最初は25歳で人生に蹉跌したことだった。ああ、俺の人生終わりだなと思った。実際人生終わりだったと言ってもいいだろう。自分が社会的な失敗者になったのは、あそこで決まっていたなと思う。あの感覚は、なんというか、20歳過ぎていつになったら自分の本当の人生が始まるんだろうと思っていたのに、緞帳が上がったら終わっていたみたいな感じだった。へぇ、人生って終わった光景を見ることから始るんだと思った。イヤミで言うわけじゃないけど、これはたぶん少なからぬ人が普通に経験することだと思う。
それから社会的にはいてもいなくてもいいような些細な人間として生存していたのだがそれなりいろいろあったり死にかけたりした。つまり、そういうのが自分の人生だったし、運命だった。
夏目漱石を思うと50歳まで自分が生きているとはあのころ到底思えなかったし、それを言うなら40歳に達しなかった太宰治の享年も越えたのが、へぇと思ったし、三島由起夫の年も越えた。へぇ、俺って生きているんだ、ウソみたいじゃね、と。そうした、なんというか道標のように思った人の享年を越えて思った。
新成人の人も、大半はたぶん50歳くらいまでは生きている。邱永漢が、人間というのは酷使しても50歳までは生きるものだなと書いていたが、それはそうかもしれない。無謀な人はそのあたりで消えるが、そのくらいまでは生きる。
新成人のなかには、あと30年も生きるなんて悪夢だと思う人もいるだろうけど、そんなものだ。二回くらい大きな蹉跌があって、それを越えて、ぼろぼろになって、へぇ、自分ってもう子どもじゃないなって悲しい感じがする。泣くかもしれない。私は泣いたな。そして、ああ、自分にも20歳だったころがあったなと思い返した。そう思うときに、どんなにみじめでも20歳の日々はそれなりに、というか、自分にとっては大切ものだったと確認する。それがつまりは、自分が自分であることなんだろうし、自分で自分の運命を了解しつつ生きることになる、というか、20歳以降はふつうにそうなるだろうと思う。
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コメント
ベントさん、僕、二十歳だけど怖いなぁ、限界が見えてきたことよりも、限界を自分がうまく引き受けられるか、ということが怖い。
でも、ベントさんのゆうように、自殺しなければ、つまりいろいろなことが巡り巡ってきて、いろんなことを清算する機会さえ残っているような状態、つまり生き続けるってことだけ、そこだけに踏みとどまっていれば、どうにかなるのかもしれない。
投稿: edouard | 2009.01.13 01:53
15、25、35、45歳くらいで変わり目ってありますね。自分自身でもそうですし、両親や義兄や親族の生き方を見ている限りでも、そう感じることは多いです。
私は15、25歳の段階で嗚呼失敗したなーと思って、35歳で「2度あることは3度ある」では流石に遺憾と思ったんで出来る分野からどうにかして、今35歳で10年前に「最低限これだけはどーにかせんと遺憾ね」と思った部分に関しては、どうにかなりましたわ。
だから、その程度の感覚においては、人生やれば出来る、とは思います。言葉だけを先走りさせて「人生やれば(なんでも・大概のことは)出来る」とまで思い上がるつもりは無いですけどね。
出来てない(やろうと志を立てなかった)部分は相変わらず駄目でしょうし、結局それは今後将来どうやっても引き摺る部分と思いますけど、それはそれでどうにかするし、どうにかなるでしょう。
最近は経済的に暗いから若い人も色々苦労をすることと思いますけど、まぁ、私なんかはその点「世間がバブルでそれなりに浮かれてる時節に自分だけ妙に最底辺」だった経験もあるんで、そういう立場から「大丈夫だ、そんな大したことない。自分の身の程弁えて、やれることをやれるようにやってる限りは、それなりに、どうにかなる。生きてりゃそれでいいんだ」と言っておきたいですね。
若い時分に敢えてパンドラの箱を開けまくって底の希望(←笑)を見つめておくのも、人生にとっては重要かもしれませんね。若い頃の苦労は買ってでもしろとか言うじゃない。
じゃあ、それでいいじゃない? みたいな。
投稿: 野ぐそ | 2009.01.13 21:18
いつも(と言っても2回目ですが)褒めてばかりで恐縮ですが、今回のエントリも素晴らしい文章ですね。大変感銘を受けました。
私自身30目前にして嫁も子供もいないし自分が大人になったといまいち思えずまだまだ(良くも悪くも)ガキんちょだなと思ってますが、今回のエントリを読んでfinalventさんの感情の情景が手に取るように、ひしひしと、感じられて、「ああ、やっぱり自分もある程度大人に(こちらも良くも悪くも)なったのかねぇ」と思います。
投稿: Leaf | 2009.01.13 23:51
> 夏目漱石を思うと50歳まで自分が生きているとはあのころ到底思えなかったし
話がずれますが、漱石がもし今の時代に生まれてたら、とは思いますね。
今時胃潰瘍なんて薬で治せますから……
投稿: naohaq | 2009.01.14 01:17
はっきりしたことをしっかり指摘できなくて申し訳ありませんが、「君が代」は、古今集か新古今集に記載されているはずです。
典拠がないということはないはずです。
投稿: 典拠 | 2009.01.14 08:53
finalvent先生が「社会的な失敗者」だから、神様の言葉を伝えられるのだと思います。
もし社会的成功をしていたら、先生の周りにいるやつらは、ほとんどが鬼と天狗と狢の類だらけになっていて、先生も「社会的成功した人でなし」の一人に成り果てていたと思います。
社会的成功した弘法大師も高野山に移ってしまったし、先生の思慕する道元禅師も越前に都落ちしました。社会的失敗者だったダンテの絶望の足跡である「神曲」から、次の時代にイタリアルネッサンスが花開いたわけで、もしかしたら極東ブログも21世紀後半に開花するかもしれないポストモダンの「ルネッサンス」の準備をしているのかもしれません。
投稿: 「社会的な失敗者」 | 2009.01.14 09:03