転換期を迎えるディズニー
かつて、ウォルト・ディズニーは革新的なアニメーションと心温まる物語で世界中の人々に夢と感動を与えてきたものだった。『ビアンカの大冒険』のように。そのディズニーが、今、というか、ようやく大きな転換期を迎えているようだ。社会変革の旗手として多様性と包容性を謳い、積極的なメッセージ発信を行ってきたディズニーが姿勢を転換し、政治的メッセージを控え、純粋なエンターテインメントに焦点を当てるという方針転換を打ち出した背景には、過去の戦略が招いた批判、そして市場が求めるニーズへの屈服があるだろう。
ディズニーの方針転換を象徴する出来事は、ピクサーの新作アニメーション『勝者と敗者(Win or Lose)』におけるトランスジェンダーのキャラクター描写の削除だ。この決定は、単に特定のイデオロギーに屈したのではなく、エンターテインメントの本質、すなわち「楽しさ」や「共感」を追求するという、より根本的な価値観への回帰を示すものということになっている。物語の中に政治的なメッセージを込めることを控え、観客が純粋に物語を楽しめる環境を提供するという、より成熟した姿勢の表れと言えるだろう。また、ヨーロッパ市場向けのアニメーションコンテンツについては、親が子供に特定のテーマを話すタイミングを自由に選べるように配慮するという方針も打ち出された。これは、作品の内容が、ヨーロッパ的な家庭における教育方針や価値観に影響を与える可能性を考慮した結果であり、政治的なメッセージの発信を避け、観客の自主性に委ねるという姿勢らしい。日本向けについては、特に情報が見当たらない。
ディズニーはこれまで社会的な意識の高まりを背景に、多様性を前面に押し出した作品を多数展開してきたが、これらの作品は一部の観客層から、特に米国の右傾化回帰の流れで、「ウォークネス(wokeness)」と批判され、興行収入の低迷という結果を招いた。なお、ウォークネスは、英語の動詞「wake」(目を覚ます)の過去分詞形「woke」から派生した言葉で、アフリカ系アメリカ人の俗語として20世紀初頭から使われ、「社会的・政治的不正義に目覚めている」という比喩的な意味を持つようになった。この用法の端緒は古く、1938年に発表されたアメリカの民俗学者リード・ラヴィン(Lead Belly)の曲「Scottsboro Boys」で、「stay woke」(覚醒し続けろ)というフレーズが使われたことだが、近年ブラック・ライヴズ・マター(BLM)の活動で重要なスローガンとなり、多様な社会運動を象徴する言葉となった。
ウォークネスを意識し、社会的不平等をテーマにすること自体は否定されるべきではないが、エンターテインメント作品においては、残念ながらというべきか、バランス感覚も必要になる。過剰なメッセージ性は、時に観客との間に隔たりを生み、結果として商業的な成功を遠ざけてしまう。対照的に、『デッドプール&ウルヴァリン(Deadpool & Wolverine)』や『モアナ2(Moana 2)』といった、政治的なメッセージを排した作品が商業的に成功を収めている事実は、観客がエンターテインメントに求めるものは、まずは「楽しさ」や「共感」であり、過剰なメッセージ性ではないことを示している。
対して、制作過程における批判の集まった実写版『白雪姫(Snow White)』は、ディズニーが過去の戦略を反省するきっかけとなった象徴的な事例となってしまった。物語の再解釈やキャスティングをめぐっては、ファンや批評家から多くの意見が寄せられ、議論が白熱した。従来の物語の設定やキャラクター像からの逸脱は、多くの観客の期待を裏切る結果ともなり、作品公開前から観客の興味を失わせるという結果を招いた。ディズニーは、この苦い経験から、エンターテインメントの本質は、観客に「楽しさ」や「感動」を提供することであり、過剰なメッセージ性や特定の価値観の押し付けは、時に観客の期待を裏切るリスクを孕んでいることを痛感した、というかさせられた。
ディズニーが、政治的な問題との関わりを避けようとする姿勢は、ABCニュースとトランプ前大統領の訴訟和解にも見て取れる。この訴訟は、ABCニュースがトランプ氏を「レイプで有罪」と報道したことが発端だが、実際には「性的虐待で有責」という判決であった。事実とは異なる報道が訴訟に発展し、多大な法的コストを負う可能性があったが、和解によってリスクを最小限に抑え、商業的安定を優先させるという判断を下した。また、元ディズニー取締役のチャールズ・エルソンが「ディズニーは製品を提供している。それはエンターテイメントだ。政治に関わるべきではない」と述べたが、これらの動きは、ディズニーが政治的な対立を避け、商業的安定を優先しようとしていることを示している。
ディズニーのCEOであるボブ・アイガーは、かねてから「ディズニーの最大の使命は視聴者に娯楽を提供すること」と明言しており、エンターテインメント企業としての原点回帰を強調していた。彼はまた「私たちの第一の目標は、楽しませること」と発言し、過去の戦略を転換し、エンターテインメントの本質を追求する姿勢を明確にした。ディズニーは、ようするに、商業的な成功を収めることを目指しているということだ。
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