RE: クリスマス・キャロル
ロンドンの街は、煤煙と霧の中でぼんやりと輝いていた。クリスマスを控えた通りは賑やかで、子どもたちの笑い声や店主たちの威勢の良い呼び声が響いている。店頭には色とりどりのリボンが飾られ、パン屋からは温かいパイの香りが漂ってくる。しかし、そうした光景を窓越しに眺めながら、エベネーザ・スクルージは深い皺を寄せて唇を引き結んでいた。彼は細身で背が高いが、どこか猫背気味で、その姿は影のように薄暗い。薄い灰色の髪は乱れ、顔には永遠に消えそうもない憎々しげな表情が刻まれている。その目は冷たく鋭く光り、見る者を寄せ付けない。
スクルージに笑顔は似合わなかった。笑う代わりに、自嘲こそが彼の得意技だったからだ。しかし、その自嘲の奥には、彼自身も気づいていない寂しさが潜んでいた。それは幼い頃、寄宿学校で一人取り残された記憶にまつわる、どこか遠い痛みだった。母の記憶は、これがあなたのお母さんなんだ、という厳しい女性の写真だけである。
事務所の中は、彼と同じように寒々としていた。暖炉の火は消えかけ、隅では事務員ボブ・クラチットが震えながら手仕事をしている。薄暗い室内で、インクの染みついた彼の袖口が、かすかに揺れていた。
スクルージは帳簿を睨みつけながら、ため息をついた。
「メリークリスマスだと? くだらん!」彼は誰にともなくつぶやいた。「クリスマスとは、借金で勘違いなプレゼントを買い、無駄に浪費するだけの行事だ」
隅にいるクラチットがビクッと驚いたのを見て、スクルージは顔をしかめた。その笑顔に、かつての自分を見たような気がして、なおさら苛立った。
「クラチット! その報告書は三部写しておけ!」
クラチットは急いで頭を下げた。背中には、幼い息子ティムの薬代を心配する影が貼り付いている。
窓の外では、若いカップルが手を取り合い、笑顔でプレゼントを交換していた。スクルージは鼻を鳴らした。その光景は、彼の胸の奥で何かを掻き立てた。若き日の彼もまた、愛する人と手を取り合っていたことがある。しかし、結局、彼女を失った。理由は自分だ。それ以外ありえない。それ以来、スクルージは世界を違う目で見るようになった。自分には愛というものは得られない。
「愛だの感謝だのと言っているが、どうせ長くは続かない。世の中は不合理だ。もし神がいるなら、もっとまともな世界になっているはずだろう? 世の中というのは、たまたま運が良くて強欲な奴が勝つようにできている。それが現実だ」
彼はペンを置き、指を組んで自分に言い聞かせるようにつぶやいた。窓ガラスに映る自分の姿が、夕暮れの中でますます薄くなっていく。
「俺が今多少なりとも金を持っているのは、運が良かっただけだな。俺が生まれた時、もっと貧乏人の家に生まれていたら、どうなっていたか? 何の保証もない。それでも人は努力だの誠実さだのと偽善を並べたがる。だがな、結局は運が全てだろう」
その言葉は、彼の心の奥底で空しく響いた。そこには、自分自身のささやかな幸運らしきものへの言い訳めいたものが潜んでいることを、彼は薄々感じていた。
その夜、冷え切った自宅に戻ったスクルージは、いつものように寝室の暗闇に身を沈めた。暖炉の火も消え、部屋には彼の吐く息だけが白く漂っていた。だが、その夜、いつもと違う出来事が彼を待っていた。
寝室のドアが突然きしんで開き、冷たい風が吹き込む。振り返ると、そこには亡くなった仕事仲間、ジェイコブ・マーレイが立っていた。しかし、それは生前の彼とは似ても似つかぬ姿だった。透き通った体には重い鎖が巻き付き、その一つ一つの輪には「後悔」の文字が刻まれていた。
「ジェイコブ、死んでまで訪問とは熱心なことだな」とスクルージは冷たく言った。しかし、その声には僅かな震えが混じっていた。「何の用だ?」
ジェイコブ・マーレイは顔を曇らせ、低い声で語り出した。その声は遠い記憶のように、どこか懐かしいものだった。
「スクルージ、私は生きている間、自分勝手で金のことばかり考えていた。その報いで、死後も後悔の鎖を引きずっているのだよ。私たちは同じ道を歩んでいる。君も気づいているはずだ」
スクルージは腕を組み、眉を上げた。「ざまはないな。それで、俺に説教でもしに来たのか?」
しかし、その言葉の底には、かつての友達とよべそうな者を失った痛みが潜んでいた。
「お前も同じ運命を辿るだろうよ。だが、まだ間に合う。今夜、三人の幽霊が訪れる。それが最後のチャンスだ」
マーレイの姿は次第に薄れていったが、その目には深い悲しみが宿っていた。それは、スクルージの心に少し重みを残した。
「三人も? 非効率だな。一人にまとめてくれれば考えてやったかもしれない」
スクルージはそう言ったが、その声には以前ほどの刺々しさはなかった。
最初に訪れたのは、過去の幽霊だった。やわらかな光に包まれたその姿は、スクルージの心に忘れかけていた記憶を呼び覚ました。幽霊は彼を過去へと導いた。
そこには若きスクルージがいた。貧しいながらも希望に満ちた瞳で、愛する人の手を取っている。しかし、その手は次第に離れていく。「私はなぜかわからないけど、あなたが怖いの」と彼女は言った。「あなたは誰も愛していないし、そのことに苦しみ続けている」
「でも僕は君を愛しているよ」
「本当?」
若いスクルージは足元を見ていた。自分の言葉が嘘だとわかっていた。愛そのものがわからないのだ。
次に現れたのは現在の幽霊。それは彼をクラチット家へと導いた。小さな暖炉の前で、家族が粗末だが心のこもった夕食を囲んでいた。ティム少年は杖に頼りながらも、明るい笑顔を絶やさない。母親は息子の具合を心配しながら、なけなしの食事を分け合っている。
「ボブ、私たちにはまだ希望があるわ」妻が言う。「スクルージさんが、もしかしたら…」
「そうだね」ボブは小さく頷いた。「彼だって、心の中にはきっと…」
その言葉は途切れ、クラチット家は消えた。
三人目に黒いフードを被った未来の幽霊が現れた。幽霊は何も言わず、彼にただ指し示した。その指が導いたのは荒れ果てた墓地だった。そこには「エベネーザ・スクルージ」と刻まれた墓石がぽつんと立っている。そこに訪れる者はいない。風が吹き、枯れ葉が舞う。その一枚一枚が、彼の人生の空しさを物語っているようだった。
「これが俺の未来か?」スクルージは笑った。「誰にも悲しまれず、誰も覚えていない。それで何が悪い? 今となんにも変わらないじゃないか」
これでいいさ。天国なんてものがあっても、そこもまた不合理にできているに違いない。
未来の幽霊は答えず、クラチット家の光景を見せた。今度は暖炉のそばに小さな杖が立てかけられている。ティム少年が亡くなり、家族が涙を流していた。
「ティムが……」ボブが声を震わせる。「誰かが助けてくれれば、きっと違ったのに」
その言葉にスクルージはため息をついた。くだらない。実にくだらない。俺が助けろと。俺にできることなんて何もないよ。うぬぼれちゃいけない。人は定まった運命や突然の不運から結局逃れることなんかできないものなのだ。
未来の幽霊は静かに語りかけはじめた。その声は風のように柔らかく、しかし心の奥まで染み入るものだった。「未来は変えられる。それは運命ではない。選択なのだ」
スクルージは笑った。幽霊って馬鹿なのか。
翌朝、スクルージは目を覚ました。窓から差し込む光が、彼の部屋に薄い影を落としていた。彼は深く息をつき、独り言をつぶやいた。
「幽露どもが何を見せても、俺は俺だ。人には運命というものがあるのだ。事故で死ぬこともある。病気で死ぬこともある。そんなものだ。それを不合理だと嘆いても、どうになるものでもない。世の中、不合理なんだよ。選択? それは紅茶に入れるミルクの順序のようなものだ。結局同じことなのに、とやかく言いまくる。馬鹿のすることだ。それに俺は俺の都合で手一杯だ……」
彼は一瞬言葉を詰まらせた。窓の外では、雪が静かに降っていた。
「とはいえ、寝覚めの悪いのもなんだな。絵に描いたような偽善だが、善行の真似事でもしておくか。運良くティム少年が元気になったら、それも運というものだ。俺のせいじゃない。そうだ。俺なんかなにもできない。そうでなくても、あいつはこれから生きていても俺より不運な人生は確実だからな」
彼はクラチット家を訪れ、ティムの治療費を肩代わりすると告げた。クラチット家の人々の目に涙が光るのを見て、スクルージは慌てて付け加えた。
「勘違いするなよ。これはとりあえず貸すだけだ。まあ、今は返さなくてもいい。それだけだ」
そう言いながらも、彼は自嘲した。そういう自分が大嫌いだった。泣きたい思いが込み上げてきた。
スクルージはこれを皮切りにやけになった。なぜだか理不尽にも自分を見失った。そのままの足で街の慈善団体に赴いて多少の寄付をした。「まあ、税金対策だ。国に取られるくらいなら、少しばかり名声くらい得た方がマシというものだろう」
スクルージはそれが自分の声には聞こえなかった。どうしちゃったんだ。
世の中は薄っぺらいものだな。スクルージは本当は良い人だという評判が立った。
とんでもない。俺は本当は慈善家じゃない。良い人であるわけもない。困惑した。苦虫を噛み潰したような顔から、いつも自分に向ける自嘲の顔で人を見るようになった。彼はどうやったら笑顔ができるか、わからないのだ。それでますます混乱した。路上の乞食に硬貨を落とすこともあった。自分は少しづつ気が狂っているのだ。
周囲はときおり感謝の言葉を述べたが、スクルージはどうしていいかわからなかった。また独り言を言う。「俺が善人だとでも思っているなら、それはお前らの勝手な妄想だな」
それは、まるで自分自身を守るための鎧のようだった。
翌年のクリスマス。ティム少年は健康を取り戻し、スクルージの事務所を訪れた。少年の頬は紅潮し、その目は生き生きと輝いている。
「スクルージさん、ようやく元気になりました。あなたが救ってくれたんです!」
スクルージは驚いた。どう反応していいかわからない。とりあえず、いつものような皮肉な調子で言った。
「そりゃ良かったな、坊や」そして、彼に聞こえることも気にせず、いつもの独り言を呟いていた。どこか遠くを見つめるような調子を帯びていた。
「俺は偽善者なんだ。いい人間でもない。不運と幸運があって、少し幸運があって、事務所を回す金があって、狡猾で、それでたまたま生きているだけで…」
彼は一瞬言葉を詰まらせ、窓の外に目をやった。雪が静かに舞い落ちている。彼は自分がまた何を言い出したかわからなくなっていた。
「こうして、だんだん残りの自分の命も少なくなってくると、生きている意味もまるでわからないんだよ。友人の幽霊がやってきて、お前は死後苦しむぞって言うけど、そんなの今と変わらんね。苦しむことに慣れてしまった。むしろ、そのほうが安心できる気がするんだよ」
ティム少年はその言葉に首を傾げた。スクルージの目には、どこか遠い悲しみが宿っているように見えた。少年は、一歩だけスクルージの机に近づいて言った。
「スクルージさん」ティムは小さな声で言った。「僕、毎日お祈りしてるんです」
「祈り?」スクルージは眉をひそめた。「神なんていないさ。いたって、こんな不公平な世界はどうにもならん。天国なんてものもないさ。ないほうがいいくらいだ」
スクルージは死後自分が苦しむものは当然だが、ふと、友人が苦しむのは理不尽だろうと、なぜか思った。そしてティムが理不尽に元気でいるのも奇妙に思った。自分は何もできない。とくに自分のためには何もできない。たまに、慈善の真似事をしているだけだ。
「違うんです」ティムは真っ直ぐな目でスクルージを見つめた。「僕はスクルージさんのために祈ってるんです」
その言葉に、スクルージは言葉を失った。
「なぜだ?」彼は訝しげに尋ねた。「俺はお前に何もしていない。本当に何もしていないんだ。治療費とか言ったのだって、ただの…」
「気まぐれって言うんですよね」ティムは柔らかく笑った。「でも、スクルージさん。人は誰でも、自分で思っているより、ずっといい人なんです。母さんがそう言ってました」
スクルージは震えていた。
「スクルージさん、クリスマスディナーに来ませんか? 父さんも、みんなも、待ってます」
スクルージは低く唸るように言った。「出ていってくれ!」
スクルージの事務所から、ティムは去った。ティムも悲しかった。伝わらなかった。感謝の気持ちも、スクルージさんへの思いも伝わらなかった。路上でうずくまって泣いてしまった。「なんて不幸なスクルージさん!」
雪が降り出して、ティム少年は空を見上げた。真っ暗で、そこには、なるほど天国なんてありそうにもなかった。
「スクルージさんが言うように、天国なんてないんだろうな。でも、もしかりに、あるとしたら」ティム少年は立ち上がった。
そうだ、司祭さまが言っていたっけ、この世で報われていたら、天国での報いはない、と。それなら、スクルージさんは、きっと天国で報われる。
クリスマスの鐘が静かに鳴り響くなか、遠くで、クルージが小さくくしゃみをした。ティム少年にはそれが聞こえたような気がして笑った。
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