« トランプ次期米国大統領はウクライナ戦争を終結させないだろう | トップページ | 間接民主主義制度の限界 »

2024.12.17

古臭い未来と『未来の衝撃』

かつて私には「未来」と呼んでいた時代があった。1960年とか1970年ころだ。イメージとしては『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』だろう。まあ、あれは未来でもないか。雰囲気があんな感じというか。なんというか、「未来」が今から見るととてもレトロなのだ。スーパージェッターの「流星号」みたいな感じだ。

そんな、1970年。一人の作家が私たちに未来について警告を発した。「未来はやがて狙いかかってくる。それは早すぎるので、私たちは適当に生きることができなくなるだろう。」それが、アルビン・トフラーの著書『未来の衝撃』だった。あれから半世紀。私はここにいる。私は「未来」に到達した。13歳の私は67歳になったのだ。

スマートフォンの通知音が鳴り止まない日々。なにが大切なのかよくわからないメール、リンクを選ぶと後悔するニュースの更新、Twitterに流れる正義と正義の戦い。私たちの一日はこんなものに支配されている。電車に乗ってるだけで電子広告が視界に押し込まれる(あれ、人権侵害だと思うぜ)、人々はスマホの画面を見つめたまま現実を置き去りにしている。13歳の私が想像していた未来とはこんなものだったか。

それでも、この未来はトフラーが語った未来かもしれないと思った。一部は実現し、一部はまだ未完成のまま。いや、完成なんてないだろうな。

アルビン・トフラー(1928-2016)は20世紀を代表する未来学者であり、まあ、悪口みたいに言うけど彼より知的な嫁さんが頑張っていた。ポーランド系のユダヤ人だった。今でいうとユヴァル・ノア・ハラリみたいなポジションかな。その彼の名を最初に広めたのが1970年出版の『未来の衝撃』だった。トフラーは急速に進む技術革新と社会の変化が、人間の心理や文化に与える影響を予見した。

当時、米国や西側諸国など西側諸国は高度経済成長の真っ只中で、一面では技術革新は未来を能天気い明るく照らしているかに見えた。が、他面では『サイボーグ009』みたいにくらい未来もあって、トフラーは警告はそっちに近かったが、どっちかというよと、先進国の人の精神にフォーカスされていた。技術の変化の速度は加速し、人々はその波に飲み込まれ、「心理的ショック」を受けるだろうというのだ。彼の予測は単なる未来予想ではなく、加速度的な変化に対する「適応力」の欠如が社会を混乱させることへの警鐘だった。

『未来の衝撃』が描いたものは、今にして思うと単純だった。未来技術革新が急速に進み、数世代かけて起こる変化が数年、数ヶ月で訪れるようになるとか。彼はインターネットを予見はしなかったが、たとえば、ざっくり見れば、当たった。トフラーが「知識の爆発」と呼んだ現象は現実のものとなった。インターネットやスマートフォンは、コミュニケーション、働き方、文化を劇的に変えた。そして今、AI(人工知能)が日常に浸透し、自動運転やロボティクスが労働の現場を変えつつある。これらの変化は私たちに効率をもたらすが、一方で職業の再定義やスキルの陳腐化をもたらす。まあ、こんな感じで描く未来という概念は、意外とトフラーに由来するんじゃないか。で、技術の変化の速度に適応できない人々は、トフラーが言うのは、「未来の衝撃」に直面し、心理的なストレスに晒されることになる。

微妙な未来もある。使い捨てについてだ。トフラーは、製品、価値観、人間関係、あらゆるものが「使い捨て」になるとした。確かに、家電やファッションは短期間で廃棄され、スマートフォンや家電製品の電子廃棄物(E-waste)は増加の一途をたどっている。国際連合の報告によれば、年間5000万トンの電子廃棄物が発生し、そのうちリサイクルされるのはわずか20%だという。さらに、プラスチックごみは海洋汚染を引き起こし、生態系にも大きな影響を与えている。「使い捨て文化」は利便性の裏で環境問題という代償を生んでおり、私たちの持続可能な未来を危機に晒している。のだが、さて、この「使い捨て」なのだが、未来に到達した自分としては、あまりピンとこない。なんだろ、この感じは。ただ、過去の感覚からすると、みんなものを修理・修繕しなくなったなという感じがする。修繕しないといけないのは、マンションとか都市インフラとかそんな感じで、なんか意味がシフトしている。

トフラーの描いた未来では人々の選択肢が増える一方で、「選択のストレス」が新たな課題となるということだった。働き方、結婚、住む場所、かつての安定した枠組みは崩れ、無限の可能性が提示されるとかね。選択肢が多すぎることで決断が困難になり、「自由」がかえって重荷になるとか彼は言っていた。それもどうだろうか。私たちは、選択肢が多くて困っているだろうか。感覚としては全然違うよな。なんだろ、これ。現代社会において、「選択の自由」は幸福をもたらすとは限らないとか、トフラーの言う「未来の衝撃」は、なんか違う現実がある。たとえば、自分なんかびっくりするけど、現代の若い人って恋人とか結婚相手とか、マッチングサービスが普及しているけど、これって、選択肢っていう感じではないよね。

半世紀が経った今、私たちはトフラーの予見した未来に立っているはずだが、ハズレも多い。情報は爆発的に増えたが、それが知識や理解の向上に直結していない。逆に、真偽を見極める困難さと情報過多が、私たちの思考を混乱させている。SNSによって人々はつながりやすくなったが、関係性は表面的になり、孤独感が増している。便利さと引き換えに「深い絆」は失われつつある。変化に追いつくために学び続ける必要があるが、その速度は限界を超えつつあるというか超えている。トフラーは未来への適応力を失い、ストレスに苛まれる人々が増えるとしていたが、なんだろか、「ストレス」って今、言わないよね。

なんだろ、とここで思うのだけど、なんというか、やはり「未来」って古臭いという感じがする。「ディストピア」も古臭い感じがする。最近、攻殻機動隊のアニメを見るけど、たまらくレトロだよね。描きかたというより、そこで問われているテーマが古臭い。



|

« トランプ次期米国大統領はウクライナ戦争を終結させないだろう | トップページ | 間接民主主義制度の限界 »