杜子春の話の裏バージョン
いつからか杜子春の話には裏バージョンがあるような気がしている。オモテのバージョンはあれだ、芥川龍之介名作杜子春というやつで、青空文庫で無料で読むことができる(参照)。筋書きは誰もが知っていると思うが、ウィキペディアにあるように(参照)、こんな展開だ。と引用するにはちと長いし、概要からはわかりづらい意外なディテールが面白かったりするのだが、まあ、いいでしょ。
ある春の日暮れ、洛陽の西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。彼は元々金持の息子だったが財産を使いすぎたために今は惨めな生活になっていた。
杜子春はその門の下で片眼すがめの不思議な老人に出会い、大金持ちにしてもらう。しかし、杜子春は三年後また財産を使い果たし一文無しになってしまう。杜子春はまた西門の下で老人に出会い金持ちにしてもらい同じことを繰り返す。
三度目、西門の下に来た杜子春は変わっていた。金持ちになったときには友達もよってくるが、貧乏になるとみな離れていく、杜子春は人間というものに愛想を尽かしていた。
杜子春は老人が仙人であることを見破り、仙術を教えてほしいと懇願する。そこで老人は自分が鉄冠子(三国志演義などに登場する左慈の号)という仙人であることを明かし、自分の住むという峨眉山へ連れて行く。
峨眉山で杜子春は試練を受ける。鉄冠子が帰ってくるまで口をきいてはならないので、杜子春はじっと試練に耐える。しかし、親が畜生道で苦しんでいるのを目の当たりにしてつい「お母さん」と一声、叫んでしまう。
単純に言うと、仙人というか超人たらんとしたトシシュン君は、最初の試験で落第してしまった。だめなやっちゃなぁ、凡人だな、オメー、ということだ。鉄冠子もいろいろトシシュンを釣ってみて導いてきたのに、いざ試してみてら初手からダメだよ、こいつ、使えねーな、とがっかりしているのではないか。と思いきや、オモテの物語ではうるうる慰めちゃっているわけだ。
「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」
片目眇の老人は微笑を含みながら言ひました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、反つて嬉しい気がするのです。」
杜子春はまだ眼に涙を浮べた儘、思はず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父母を見ては、黙つてゐる訳には行きません。」
「もしお前が黙つてゐたら――」と鉄冠子は急に厳な顔になつて、ぢつと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ。――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」
「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
ダメで良かったんだよ、もし合格していたらそんな人間の風上にもおけないヤローは殺すつもりだった。トシシュン君、きみは偉い、走れメロス……ってなべたな慰めなんだが、そりゃもうダメダメのトシシュン君だからして、こんなべたなお言葉で、まるで中谷彰宏「サクセス&ハッピーになる50の方法」(参照)を読んだみたいに元気になってしまってさ。毫も、微塵も「待てよ、それってダブスタでねーの、鉄冠子」とかはまるで思わない。ちょっと考えたらわかるのに。仙人試験に合格していたら殺されるってことは、じゃあ、どうしたら正解なわけ? ここはアレです、仙人になる12の方法、とかリストにしないといけないんじゃないか。
という感じで、杜子春の話の裏バージョンは膨らんでいくわけですよ。
そもそもだ、なぜ鉄冠子は杜子春に目を付けたのだろうか? カネをたーんと持たせてそして念入りに人間不信という確固たる仙人たらんとする基礎能力を築かせたわけですよ。まるでユダヤ人富豪の教えのメンターなんてもんじゃないわけですよ。鉄冠子にはなにかファウストの悪魔のような意図があったに違いない。それは何か? いろいろ考えてみる、が、やはり、トシシュン君を仙人にさせたかったのではないか。
とするとやはりこの試練はベタに通過すべきだったのではないか。畜生道の母はそのあたりちゃんと理解しているし。
「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰つても、言ひたくないことは黙つて御出で。」
それは確に懐しい、母親の声に違ひありません。杜子春は思はず、眼をあきました。さうして馬の一匹が、力なく地上に倒れた儘、悲しさうに彼の顔へ、ぢつと眼をやつてゐるのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思ひやつて、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色さへも見せないのです。大金持になれば御世辞を言ひ、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何といふ有難い志でせう。何といふ健気な決心でせう。
母だってそう言ってるじゃん、なのに母を裏切ってトシシュン君は挫折する。
杜子春は老人の戒めも忘れて、転ぶやうにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました。……
あれです、この瞬間、トシシュン君の母のがっかりした顔を浮かびませぬか。
だめだわ、このドジ息子……あちゃー。まったくワタシみたいに畜生道に落ちるようなタマでもない根かっらの善人ってやつか。いったいこのバーカマヌケ的善人の父親はどの男だったのだろ……。
いやいや、違うかな。
この母親の「私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら」っていうのはあれだな。岸田秀「唯幻論物語」(参照)みたいに、子供に無意識の罪責感を持たせることでその人生を支配しようとするありがちなダブスタ心理戦略だともいえるのではないか。トシシュン君は「親の毒 親の呪縛(岸田秀、原田純)」(参照)を読んでおけばよかったのに。いやそうでもないか。アマゾン素人評とか。
この本から伝わるのは絶対的な親批判だ。
共著の原田氏は父が亡くなった祖母を尊敬してるのをわざわざ否定する。
その内容で怒った父を再びこの本でも非難する。
親であろうとも、心の中にまで踏みこむのはどうだろうか。
人の好き良しに対して、訂正させたいと執拗な行動についてゆけいない。
故人に対しての冒涜は、親云々ではないように思う。
そうきたか。オモテの杜子春の話のほうが、リアル社会的には★★★★☆かもな。
親の毒 親の呪縛 岸田秀 原田純 |
ところで、今日、なんの日だっけ。
| 固定リンク
「雑記」カテゴリの記事
- ただ恋があるだけかもしれない(2018.07.30)
- 死刑をなくすということ(2018.07.08)
- 『ごんぎつね』が嫌い(2018.07.03)
- あまのじゃく(2018.03.22)
- プルーム・テックを吸ってみた その5(2018.02.11)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
オリジナルというか昔の中国の話では「赤ん坊が地に叩きつけられるのを見てアッと叫んで不合格、『すべての情を捨て去れば仙丹を造ることができたのだが、親の情は捨てられなかったか、ああ残念』」とかそんな話だそうです。
投稿: 流れ者 | 2007.05.13 19:30
ひとつのエントリ内で、いかにしてアマゾンへのリンクを
違和感なく多数忍ばせられるかというテストか何かですか?
投稿: 流され者 | 2007.05.13 19:55
重要なことをほのめかしで伝えようとする人はずるい、無責任、信用できない。
投稿: yeja | 2007.05.14 16:12
innocent向け?
ignorant向け?
意地悪だねー
で、finalventさんはどのスタンダードを採用なさるの?
投稿: quip | 2007.05.14 19:13
ここが肝かな?と玉虫色の言説の中から鉱脈を探リ当てるような喜びとか、あるいは、今日のエントリーには、ちょっと騙されてやろうかな、的お楽しみってのもまたアリなんじゃないでしょうか?
投稿: phenaphen | 2007.05.14 21:53
ま、なんも書くものが無くても、このくらいはヒネレるのよ、と。
埋め草は、いっぱい持っとかないと、人気ブロガーにはなれないよと。
U田先生とおなじハターンになってきたね。
ごくろうさま。
投稿: 青木 | 2007.05.15 22:13
第一期横溝正史シリーズ『犬神家の~』の京マチ子と田村亮ですか?
投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.05.19 13:24
畜生道とは本能に近い生き方をした人が落ちる
大して知らないくせに語るな
投稿: エレキ | 2008.08.13 15:10