[書評]プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー)
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(参照)、通称「プロ倫」についてなにかを書こうと思うような日が来ようとは思いもかけなかった。「プロ倫」はただ百遍読めばいいのである。
しかし、馬鹿につける薬はないな、プロ倫を百遍読めとばかりも言えないかもしれないご時世でもある。ま、かく言う私自身がその馬鹿の部類でもあろうから、たまに恥をさらしておくのもいいだろう。
プロテスタンティズムの倫理 と資本主義の精神 |
カルヴァン的なプロテスタンティズムの「神の選びの教義」とは何か
これを、「神が現世における人間の努力やその成果によって人間を選別し、勝利者を救済し、弱者を地獄に落とす」と理解している人は、およそ社会学なり現代社会・政治を論じるに足りない。昔なら、岩波文庫で頭をぽんと叩いて「プロ倫を百遍読め」で終わり。
そこで恥じて必死で十遍くらい読み、さらに恥じるのが正しい。だが、恥もせず、これを現代世界の「勝ち組」「負け組」と読み替え、惨めな「負け組」に転落したくなければ、必死に努力して、カネを儲けろとか理解する至っては…なんと形容していいものか。
カルヴァン的なプロテスタンティズムの「神の選びの教義」とは、神が人間の現世努力いかんにまったく関わらず救済者を既決事項としている点に特徴がある。信仰心も善行も努力もまったく不要。救われようと努力するなど、神を愚弄するに等しい。
ではなぜ、そんな教義が資本主義の精神に結びつくのか
それが世俗内的禁欲のエートスを生み出したから。おっと、勇み足過ぎた。
これを、「選別は最初から決まっているが、人間は神に自らが選ばれていることを信じてただ偏執的にカネを稼ぐ」とかで理解しているのは、かなり好意的に言えば、微妙。
現世の勝ち組・負け組は努力しても無駄、とかいう意味で、最初から決まっているという理解なら論外。
まず重要なことは、選別の結果は来世(ヴェーバーはこの言葉を使っている)の問題である。なお、カルヴァン的なプロテスタンティズムでは転生の来世という意味はない。とりあえず現世に対峙される絶対的な世界と理解してもいい。そのため、現世は相対化される。人がこの世にいかにあろうが、カルヴァン的なプロテスタンティズムはまったく関心を持たない…とまで言うのは、ちょっと言い過ぎで、カルヴァンの教えを政治原理とする共同体は恐ろしい側面もある…。
次に、「神の選択に自分があることを信じて偏執的にカネを稼ぐ」という理解は、日本人にありがちな誤解なのだが、信仰は努力ではぜんぜんないというのが重要だ。
信じるという努力などは、カルヴァン的なプロテスタンティズムにはありえない。カルヴァン的なプロテスタンティズムにあっては、現世のありかたは、選別された人の恩寵の結果として現れるくらい。
だから、これは、自分が世俗に対して禁欲(アスケーゼ:これは欲望を抑えるという意味ではなく「専心」に近い)であることを通し、選別への確信を深めるということだ。(くどいが、重要なのはこの確信が内面の信仰のありかただけではなくエートスとして外面的な諸活動に及ぶ点。)
もう一点重要なのだが、カネを儲けることは、世俗内的禁欲の結果であって目的ではないということ。なによりそれが現世ではなく来世に結びつけられていることが重要。
ではなぜそれが職業を通して現れるかというとその背景に社会構成の原理としての隣人愛の特有なモデルがある。
いずれにせよ、こうした内面化された行動規範をエートス(倫理)と呼ぶ。エティーク(倫理)とイコールではないというのが難しいのだがそれ以上は踏み込まない。
プロテスタンティズムの倫理(エートス)がもたらすものは競争社会ではない
プロテスタンティズムの倫理(エートス)を、「各人が負け組への没落の恐怖に怯えて上昇しようとする競争社会の倫理」、ととらえるならとんでもない見当違い。
社会=現世の上昇など、まったくこのエートスにおいて意味はない。カネ(資本蓄積)は結果論であり、重要なのは、職業(ベルーフ)を神の呼びかけ=天職としてただ実践するだけ。
しかも、カネはそれが数値によって現れることから、しかもそれが消費やクスネるといった欲望と結びつきやすいことから、逆に自身がいかに正確に神の呼びかけとしての職業を偽り無く実践しているかという指標になる。これが結果的に市場の規範化に結びつくのだが省略。
よく誤解されるのだが、天職とは、自身に適合した職業とかいう意味ではぜんぜんない。この世に置かれた状況が強いる職業そのままを指す。これは結果としては、多少意外な印象もあるだろうが、共同体(ゲマインデ)の解体をもたらす。
もう一点、言うまでもないが、こうしたエートスは富裕者と社会的低階層者とを区別しない。
米国はカルヴァン的なプロテスタンティズムではない
これは、まさにプロ倫を丹念に読んでいただくのがいいのだが、米国のプロテスタンティズムは、ヴェーバーが諸派(デノミネーションズ)と呼んでいるものから発生している。
もちろん、米国はごった煮的国家でもあるので個々にはカルバン派もあるが、米国史、特にその宗教史的な側面を見ていくなら、カルヴァン的なプロテスタンティズムではなく、デノミネーションズ、つまり、モルモン教などのほうがその社会学的なモデルになる。このあたりは、ジョン・スチュアート・ミル「自由論」(参照)の米国モルモン教徒への視線なども参考になる。
私の考えだが(ヴェーバーの考えではないが)、結果として、米国がカルヴァン的なプロテスタンティズムに見えるのは、プロテスタンティズムのエートスが資本主義の精神(ガイスト)に転化し、さらにそれが海洋国家としての交易の契機から発生したものなのだろう。
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コメント
大竹慎一さんの「おカネの法則」を買って(高い!)読んで、隊長のはてなの書評のほうがなかなか更新されないので、本家にプロテスタントと資本主義についての本ご存知ないですかーと書こうと思ってた矢先にこちらを拝見したら、丁度そのエントリで驚いてます(本当です)。
明日買いにいってきます。ありがとうございました。
投稿: もこもこ | 2005.11.27 00:38
「私自身がその馬鹿の部類でもあろうから~」なんて、あらかじめ自分自身が正面から批判されることに対して逃げを打っておいて、他人を冷笑的に腐してんじゃねえよ。
投稿: あ | 2005.11.27 06:46
↑
昔「プロ倫を百遍読め」と言われた「私自身がその馬鹿の部類」だと俺は読んだ。
おそらくここは正面からの批評上等だと思う。
投稿: お | 2005.11.27 22:04
>あ
ところで「他人」って誰のことですか?
投稿: お | 2005.11.27 22:08
>お
それは君が大好きな、現実には決して語りえない、ウェブ上の無数の読者たちでしょう・・・
投稿: え | 2005.11.27 23:35
「予型説」について考えたことはあったけど、結局因果律とちがって意識的には丸呑みなのか? と思うと、それでも丸呑みせざるを得ないかと。
だとすると中心となる核の奇跡が現実的な奇跡であると当時者たる主体的な『人間』がそう認識できないと、この意識状態になれないのではとおもった。
イエス復活の奇跡vs現代のハイ・インテリジェンスの決闘は、日本において、本質的に無力なんじゃないかと感じる次第で、人を資質的に選びすぎるのではないでしょうか。
投稿: to | 2005.11.28 03:59
「およそ社会学なり現代社会・政治を論じるに足りない」人って
世に倦む日日様だったんでしょうか。。
投稿: nabe | 2005.11.28 19:11