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2015.03.09

50年を受け継いでいく

人生の長さを3等分すると、私はそろそろ最後の3分の1に入っていくことになります。まあ、そもそも、あらかじめ分かっている長さの人生を生きられるわけでもないのですが。実は、この間も、死にかけました…

Memphis, Tennessee by Jasperdoで、いずれにせよ、先はそう長くもないし、死んだ後に遺された人に迷惑をかけるのもよくないと思い、このところ、ものを買うのをかなり控えています。ここ半年余りで買った本は3冊だけです。

1冊は Martin Luther King, Jr. 師の Stride toward Freedom という本です。私たちの国でも「自由への大いなる歩み」という題で以前は岩波新書から出ていて、私も高校のころに読みました。アメリカでの出版は1958年。岩波の翻訳はその翌年に出たようですね。ペーパーバックは、1960年に出たそうで、私は古本屋で見つけた1964年発行の第3刷を買いました。1ドル50セントでした。

上に書いたように、私は本の購入をなるべく控えているのですが、この本を手に取った時、表紙の裏に、「ビルへ ありがとう 前途を祝します いつまでも ノーマとジョージより 1965年」と書かれているのを見て、すぐさま、買うことを決めました。友人への感謝の気持ちを表わすためにキング牧師の本を贈った人たちと、50年の時を隔てて、私は心が通わせることができる気がしたのです。

50年前。私はもう生きていたわけですから、それはほんのわずか昔であるととも言えます。しかし、ほとんど何も覚えていないわけですから、遠い昔でもあります。私は、当時のほんのわずかな記憶や、それに続く時代のかなり鮮明な記憶をこれから来る人たちに語り継いでいく責任が自分にあると考えています。

生き証人とか語り部と呼ばれる人たちから昔のことを直接聞けるのは50年ぐらいの時間が一つの限界だと感じます。もちろん、百歳になっても健康を保ち、幼いころのことを教えてくれる人もいるでしょう。でも、私は、そんなふうにはなれそうにありません。

また、私たち人間は、自分の声をより遠くまで届け、より長く残すために、文字を作り、本を書いてきました。しかし、活字の力をもってしても、書かれた記録も散逸したり死蔵されたりしていってしまいます。社会全体で、50年もの時が経つと、昔のことを思い出し、それを通じて、表面的な変化に隠れて今にも脈々と続いている問題について学ぶということが難しくなっていくと思います。

人間が知識や情報を受け継いでいくサイクルとして、50年は一つの限界だと私は思います。これを、例えば、70年を単位にした場合、将来に向けて伝えていく営みは、とても大きな障害に直面すると私は考えます。

このことを理由に、私は、今、政府が行なおうとしている著作権保護期間の延長に強く反対します。これまで、私たちの国の書籍の著作権保護期間は、著者の死後50年でした。半ば秘密裡に行なわれてきたTPP交渉の中で、それが70年に伸ばされようとしています。

社会は歴史を踏まえて紡いでいくものです。そのために、思いを受け継ぐサイクルとして、70年というのは長すぎます。

私は、著作権保護期間の延長に反対します。

写真は Jasperdo さんが CC-by-nc-nd で公開しているもの。

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2015年 3月 9日 午前 12:00 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2015.03.08

セルマから50年

米国南部のアラバマ州セルマで行なわれた「血の日曜日」50周年記念式典の中継を見ました。1965年3月7日のセルマ。アフリカ系市民の投票権確立を求めて行なわれた公民権運動の一つの里程標です。

We Shall Overcome! (Edmund Pettus Bridge) by Eneas De Troya行進の行なわれた橋のたもとで開かれた式典では、ちょうどその年に生まれたアラバマ初の黒人女性議員 Terri Sewell さん、自らもその日に橋を行進したジョージア州選出議員の John Lewis さん、そしてオバマ大統領が話しました。公民権運動という反体制運動が社会をよい方向へ変えたこと。その努力は、近年のアラブの春やウクライナのユーロ・マイダン運動にまで勇気を与えたこと。そして、差別や偏見との闘いは、依然として道半ばであることが語られました。「私たちは歴史を大切にするが、過去に戻りたいわけではない」という言葉を聞きました。

私にはアメリカを手放しで賛美するつもりは全くないのですが、私たちの国の状況を振り返った時、その対比には絶望に近いものを感じてしまいます。私たちの周りで急速に高まる、権力に抗う者を冷笑する閉塞感、誇りを護ると称して過去の自分たちの過ちを糊塗しようとする不誠実さ、自分たちと異質な者に対する憎しみや不遜さは、いったいどうしたらよいものでしょうか。

Selma の Edmund Pettus Bridge の写真は Eneas De Troya さんが CC-by で公開しているもの。

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2015年 3月 8日 午前 07:28 | | コメント (0) | トラックバック (0)

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