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2011年9月30日 (金)

少なくとも労働組合にとっては味噌ではない

先日の「労働組合と原発」というエントリに対して、伊田広行さんが批判されています。

http://blog.zaq.ne.jp/spisin/article/2528/(「労働組合なら原発推進は自然なこと」か?)

実を言うと、労働組合はいかにあるべきかという基本認識については、わたくしと伊田さんはそれほど違いがなさそうです。

>私は学生時代から、赤色労働組合主義を批判し、労働組合は労働者の集団的バーゲニングという経済主義的な労働組合という一点で結集するべきもので、共産党などの上部団体の政治的な指導によってひきまわされるべきものではないという意見を持っていた。
今でも、ある面では政治的引き回しはおかしいと思っている。

>政治的な引き回しではなく、したいものだけが集まる『まともな組合』である。全体の賃金にだけ興味を持つが、非正規や下請けにはほとんど興味を持たないような組合ではなく、私なら、同じ職場の下請け、非正規、出世しない人、セクハラパワハラを受けている人、不当な扱いをされた人、そういう個人の労働者の側に立ってちゃんとものを言い、交渉し、待遇と尊厳の回復をする労働者でありたいと思っている。そういう活動をする。そういう組合になるよう声を上げるし、多数派組合が動かないなら、少数組合を作る。外部の個人加盟ユニオンに属して動く

労働組合は労働者の経済的利益を目指すべきであり、政治的イデオロギーに振り回されるべきではないこと、守るべき労働者の利益は正社員だけでなく、非正規や下請労働者の利益にも目を配るべきこと。

そこから私は電力会社の労働組合について、

>>原発それ自体に反対しなかったこと

のゆえに批判するのはおかしいが、

>>下請労働者の労働者保護を取り上げてこなかったこと

は批判されるべきである、と考えています。上記エントリも、そういう趣旨であることは読めばおわかりの通りです。

「原発にずっと昔から反対だった」伊田さんにとっては、しかしながら、原発反対は「政治的引き回し」に属することではなく、「まともな組合」の必須要件であるようです。ここは、何とも同意しがたいところと言うしかありません。

同じく伊田さんが言われる「そこをわかっていないのは、沖縄に米軍基地を押し付けて思考停止しているのと同じである」というのも、やはり労働組合が労働組合としてとやかく言うべき物事ではなかろうと思っています。

ただ、どうも伊田さんがカチンときたのは、

>味噌も糞も一緒にした外在的批判は、労働運動それ自体のためにも決してよろしくない、というのは、戦後労働運動がいやというほど思い知らされてきたことではないでしょうか。

という表現だったようです。

原発反対や沖縄米軍基地反対は「糞」か?と。

いや、そういう政治的主張が、個々人としては味噌でもありうるし糞でもあり得ることは当然です。どちらにせよ、それらは個人が同じ政治的主張を持つ人々とともに行うべきことであって、労働組合が労働組合として(組合員個人の政治的主張にかかわらず)行うべきことではなかろうというだけのことです。

それらは少なくとも労働組合にとっては味噌ではない。

それが味噌か糞かは労働組合は関わってはいけない。

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コメント

現に、福島原発事故のせいで「原発職場の存続」どころか東電の会社の存続さえ不確実になってしまっているのですから、労働組合が原発に反対することが正しかったことは明らかでしょう。これはイデオロギーとは何の関係も無く、純粋に労働者の利益を考えれば原発反対になるはずだということです。

原発に反対していた人たちの大部分は、イデオロギーに基づいて反対していたわけではなく、事故の危険性、それに加えて日常的な放射能汚染、放射性廃棄物による汚染などの実害を懸念して反対していたのです。
これを後知恵というのもおかしい。原発の危険性を予見し、原発に反対していた人は(賛成より少ないとはいえ)たくさんいたのですから。

ではなぜ原発反対と賛成の違いが出てくるかというと、原発事故が起きると思うか起こらないと思うかの差でしょう。原発事故がおきると思えば原発反対になるし、(自分が電力会社で働いている間には)起こらないと思えば賛成になる。

現実には原発事故が起きたのですから、「原発事故は起こらない」という考え方は間違いでした。
要するに、原発に賛成していた労働組合は、思慮が浅かったのです。それにもかからず、原発賛成が労働組合として自然であり、原発反対はイデオロギーまみれであるかのように描くのは、事実を歪曲するものといわざるを得ません。

そもそも原子力発電の推進が電力会社労働者の利益になっていたのか。これはきちんと検証されるべき問題だと思います。

讀賣新聞は、社説で原発推進が「潜在的核抑止力」になると主張しています。
(日本が核兵器を実際に保有するのではないが、いつでも核兵器を製造できる能力を保有するという意味)

日本において原発推進の主なねらいはこの「潜在的核抑止力」だったのはではないですか。最近あちこちで指摘されているように、経済的(コスト的)に見たら、原発は火力発電に勝てないでしょう。

原発問題で労働組合が主張することとすれば、第一にhamachanが指摘してきたように下請けの問題です。下請けの労働者の健康管理や把握が非常にずさんであるということです。これは個々の労働者の健康に関することなので妥協することは許されない分野だと思いますし、健康分野での非妥協は日本の労働運動の悪弊を正す意味もあると思います。
次に労働者全体の健康・生命問題として、今回の原子力発電所の事故には重大な関心を示すべきだと思うのです。とういうのも、いざ事故となったら労働者の生命と健康が大変なことになるからです。しかし自分もそうですし、社会問題に関心のある人の悪弊として、すぐに政策や政治的判断の妥当性を問う癖があるのですが、そのようなことは早急に行うべきものではなく、じっくり時間をかけ、様々な視点から検討しなければ欠点を多く持った議論にしかならないと思います。なので政策や政治的な判断をする前に、、健康と生命の安全のために何が出来るかを考えるべきだと思います。自戒を込めてですが。そういう意味で東電の情報開示があまりにもずさんであったこと、そして保安院や経済産業省が天下りや権限の問題において結果的に癒着構造にあったという点については、それらが労働者の生命と健康を必要以上に危険に晒し、また不安に陥れたという意味で、労働組合もまた追及して当然と思います。
原発が必要かどうか、在り方はどうあるべきか、といったことについては早急な結論が必要か、そもそもそこまで踏み込んで議論することが必要なのか、といったところから話すべきでしょう。組合には予算も時間も人間も制約があるのですから、出来る範囲でしか出来ないわけですし。今まで十分に議論してこなかったとすれば、時間をかけて少しずつ議論するしかないわけで、まさに民主主義に王道なしですね。
伊田さんの主張は労働組合は労働者の問題に集中するべきであるが、同時に労働組合運動を行う個人は反原発を主張する「感性」がなければダメと言っているのではないでしょうか?なかなかハードル高いんですねと思いました。

>原発反対や沖縄米軍基地反対は「糞」か?と。

>いや、そういう政治的主張が、個々人としては味噌でもありうるし糞でもあり得ることは当然です。どちらにせよ、それらは個人が同じ政治的主張を持つ人々とともに行うべきことであって、労働組合が労働組合として(組合員個人の政治的主張にかかわらず)行うべきことではなかろうというだけのことです。

その政治的主張が組合員の利益になるならば、労組が主張しても問題ないのではないのでしょうか。実際に連合も国政に議員を送り出していたりしますし。

つまり、組合員の利益に関わる主張ならば「味噌」だし、利益にかかわらない主張は「糞」でしょう。これ以外の基準に基づき、味噌だの糞だのを主張するのは無用なレッテル張りだと思われます。

電力会社の労働組合は今まで原子力発電を推進してきたわけですが、
1、大事故がおきても、原発推進は電力会社の労働者の利益になっていたのか?
2、仮に電力会社の労働者の利益になっていたとしても、だからといって地域住民に多大な被害を及ぼしてもいいのか?
とういことが問題なんだと思います。

原発推進が電力会社の労働者の利益に反しているならば、そういう間違った方針を採用してきた労働組合の責任も問われなければならないでしょう。
「大事故がおきるとは思わなかった、想定外だ」というのは言い訳になりません。なぜなら現に大事故がおきたからです。思慮が浅かったことは言い訳にはなりません。

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