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2024年9月29日(日)、日本大学で「公教育の再編と子どもの福祉」第1巻の合評会が盛況のうちに開催されました。参加してくださったみなさん、主催してくださった末冨さん、お手伝いしてくださった3人の学生さん、本当にありがとうございました。第2巻が研究論文の集成であるのに対し、第1巻は実践者の論稿を多く集めていて、研究者ではない人にも読んでいただきたいと思って書きました。というか、もっと言うと、森さんが前任校で指導された、熱心に教師を目指すけれども、本を読むの得意ではない学生に、手を取って読みたいと思ってもらえる本を澤田さんと私も目指しました。ただ、それにしては澤田さんの3章とか難しくない?というところもあります。なので、こんな感じで第1巻にアプローチしたら、どうでしょうか?というのをご提案します。


1 索引・目次を眺めてみる

今回のこのシリーズの最大の特徴の一つが、この索引の収録語の多さです(これは澤田さんの力作です)。と言っても、プロの研究者でない限り、索引や凡例を丁寧に読むということはないと思います。だから、最初はあくまで眺めているだけで大丈夫です。この言葉、気になるなとかと思ったら、その言葉がたくさん使われている章から読んでみる、というのも一つの手です。

Kindle版は、ページ数が対応しませんが、索引自体は載っています。索引はこんな言葉があるんだという気付きを得るためのものなので、同じように眺めて、あとは検索をかけていただければと思います。

あと目次を詳細目次にしてホームページにも上げてくれというのは編者からのリクエストなんですが、索引と同じように目次を眺めながら、気になるものを読むのも、王道ですよね。


2 読みやすいところから読む

個人的には、序章の1・2節、4節を読んでから、前北さんの8章、内藤さんの6章、阪上さん・谷村さんの9章、高嶋さんの5章、私の2章あたりは読みやすいかなと思います。第1部は、第2部の導入になるように、そして、頭から読む(おそらくは多くの)方がそこで本を投げ出さないように平易に書くという目標を我々、3人の編者で立てたんですが、率直に言って、この目標は到達できていません。もちろん、それぞれの論稿が意味がないというわけではないんです。ただ、読まないでも差し支えない、ということです。あと、高山さんの9章(と澤田さんの3章)は、単純に長いです。

前北さんの8章はもともと研究会でのやり取りを編集したので、分かりやすいと思います(その意味では座談会も、読み流しやすいかもしれません)。内藤さんの6章は、彼女が悩みながら子どもたちを支援して来たことを共感的に読めると思います。昨日、高嶋さんが実践の現場で自分も通って来た道だから共感できるけど、少し現場から距離を置いた現在の自分には書けないものとおっしゃってたんですが、本当、その通りだと思います。子どもたちのことを真剣に考えて、悩まないわけないですからね。

組織的な要素が入ってくると少し難しいかなということで、阪上さん・谷村さんの9章、高嶋さんの5章は少し後にしています。ただ、9章はそれぞれのエピソードという形だけで、十分に読めます。また、高嶋さんの5章は、取り組み自体が斬新なので、一度やっているところを見学すればすぐわかるけど、文字から想像するのは難しいかもしれない、というところでこの中では難易度高めです。

ちなみに、中田さんの4章は、管理職のみならず、たぶん、私のこのブログのもともとの読者であろう人事・労務に関心がある研究者や企業の方には絶対的にお勧めします。水平的コミュニケーションということはかなり重要なテーマですからね。ただ、そういうポジションに就いたことがないと、共感しづらいだろうなということで、あえて読みやすいところからは外しています。

森さんの序章、3節を外したのは、これも教育言説を日ごろから読んでいる方には意味があると思うのですが、それ以外の方にはハードルが高いのではないか、と思うからです(あと森さんが必要な範囲で3節のポイントを押さえながら記述しているので4節に飛んで読んでも大丈夫です)。個人的には、分野外だったので、これはすごい大事なことだと澤田さんやRED研の中で議論されていたんですが、教育周りの研究者以外にとって「これ、いる?」ってずっと思ってました。ただ、編者だったので、何度も読むうちに、なんとか腹に落ちてきました。

森さんの1章は、シンポジウムで報告して、その後、研究会で扱いましたし、何度も推敲されているので文章は洗練されているんですが、滅茶苦茶難しい問題に逃げずに取り組んでいる、という性格のものなので、どこまで行っても難しいよなと思います。あとでじっくり帰ってきて何度も読んでほしいという感じです。


3 第3部(資料編)を読む

合評会で、森さんからもあったと思いますが、高山さんの第9章は注は全部、読まなくて大丈夫です。教育機会確保法、その前身であった多様な教育機会確保法案とそれが出来る経緯、教育機会確保法が出来た後の変化を見通せる、すなわち歴史的な経緯を把握するということはできます。ただし、注は一般の方には読みにくいと思います。ここは読みやすさはバッサリ、あきらめました。たとえば、注56に「5初中30」というのが出ていますが、これは文科省の通知番号だということです(確認してませんが、初中は初等中等局が出した通知という意味だと思います)。高山さんからは分かりにくいから、削除しましょうかとご提案をいただいたんですが、あえて資料名は正確を期してそのまま残しています。9章では、編集の方針として、読みやすさを犠牲にすることにしたんです。ただ、それが可能だったのは、本文が分かりやすかったからです。

座談会は、昨日も一切、触れなかったんですが、RED研ってこんな感じなのかなという雰囲気だけでも味わっていただけたらと思います。活字として残したのは、こんな実践者と研究者が一緒になって考えるという研究会を、迷いながら運営して来た一端をお見せすれば、後の人たちのなんらかのお役に立つかもと思ったからなんですが、研究会の運営とかに興味ある方は、ぜひこのシリーズの読書会とかを開催してもらって、そこに呼んでいただければ、直接、お話ししますよ。


この本だけでなく、我々がRED研で議論してきたことというのは、一見知っていることを逡巡しながら、何度も繰り返し考えるということでした。その意味では、読みにくいところも繰り返し読むことで、昆布を噛むように、味が出て来るだろうと思っています。とはいえ、そこまでただ耐えながら待つのもしんどいので、楽しながら行けるところは行きましょう、ということで、蛇足ながら、こんなものを書いてみました。よかったら、参考にしてみてください(そもそもこのエントリ長くない?というのはおいておきつつ)。
「公教育の再編と子どもの福祉」シリーズ本合評会に向けて、次は私が書いた2巻の方への三つの問いに答えていきたいと思います。こちらの方の三つの問いとは、森さんが設定してくださった以下の通りです(森さんのエントリにリンクしておきます)。ちなみに、どの問いに対しても最初の1段落で応えてはいますが、その後、背景的なマニアックな話を書き込んでいます。

-2巻〈研究編〉の執筆者のみなさんへ
①今回の本に寄稿した文章で取り組んだのは、どのような課題ですか?
②その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?
③こうした課題に取り組むことには、どのような意義がありますか?

①今回の本に寄稿した文章で取り組んだのは、どのような課題ですか?

居場所事業という一つのフィールドについて、理念的に「教育」「福祉」とそこに収まらない機能を、分節して捉えるということです。その際、「教育」は学校の(テスト)勉強、「福祉」はソーシャルワークという形で具体的なものを設定しました。

裏テーマとしては、二つありまして、
一つ目は、1巻で書いた「「無為の論理」再考」を学術的なフォーマットで考え直す、ということです。もう一つは、南出吉祥さんの「「居場所づくり」の多様な展開とその特質」という論文で試みられた、南出さんが現場を見て、本を読んで帰納的に、抽象的なレベルで捉えるというやり方を、私なりに別の角度から出そうということでした。


②その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?

居場所事業には「教育」「福祉」に直接的に結びつく手前として重要な自尊感情(パノラマの石井正宏さんの言葉でいう「信頼貯金」)を育むような機能があります。自尊感情は学校の勉強に取り組んだり、支援を受けるにあたって必要なものであり、直接的な教育(学校の勉強)や福祉(ソーシャルワーク)にまでたどり着かなくても、それだけで意味があるものです。実際の事業を計画するにあたっては、そのことだけを基盤において、学校の補習(≒学習支援)、社会教育分野で重視されてきた遊びという意味での教育、ソーシャルワークなど好きな方向にカスタマイズすればよいという道筋を示しました。

1巻の「「無為の論理」再考」では、教育と福祉の両方のなかで行われる「無為の論理」的なコミュニケーションの取り方(≒ケア)があることを承知しながら、あえてそれらとは別次元の「一息つく」ということを「無為の論理」として分離して剔出しました。これは実は極めて理念的なレベルでの操作で、教育・福祉がともに変化、つまり一定の時間が必要とされるものに対して、「一息つく」は「一息」に象徴されるような瞬間を対蹠的に捉えています。ただし、1巻は現場の方にも伝わる平易な言葉で書くという編者の共通方針を作ったので、こういう構造的なことが見えてなくても、「目的に向かっていくだけじゃなくて、休むことも大事だよね」というメッセージが伝わればよいので、分かりやすい実践的な観察(言い切り)という言葉を要所に挟んで、そういう構造は見えにくいような書き方をしています。

これに対してこの論文は、ケアについて詳細に論じてはいませんが、教育と福祉を具体的な学校の勉強、ソーシャルワークという形でいったん固定することで、教育とは?福祉とは?教育福祉とは?という、実務的にはそんなところからスタートしたら終わらないよというテーマを、いったん外に置いておきました。この概念操作の方法は、別に難しいものではありませんが、私が自分で考えたもので、1巻に収録した座談会のラストで澤田さんと森さんが語られている「教育から見た福祉」と「福祉から見た福祉」とかの発想とは立場が違う点でもあります。


③こうした課題に取り組むことには、どのような意義がありますか?

実務的には、居場所事業の複合的な機能を分節したので、教育予算を取りに行くときは「教育」的機能を強調した書き方、福祉予算を取りに行くときには「福祉」的機能を強調した書き方をすれば、いいですよね、という至極当然のことを確認しました。実際にはどの現場もいろんな面を持っているんだから、その全部を伝える必要はなく、予算出しやすいようにデフォルメして書きましょう、ということです。

研究史上の流れはいろいろ書いてありますが、この論文は南出論文を展開させるという目的があり、それは「居場所」の考察を深めることに続く道だと考えています。ただし、私は南出論文に対してオルタナティブなものを提出したというよりは、基本的に別角度から光を当てたものを提出することで、補完的な関係にあると考えています。ただし、南出さんは個に注目すると、社会問題としての性質が見えにくくなるという点を懸念していましたが(これは2巻5章の山田哲也さんの論文のなかにも同じ発想はあり、わりと一般的な見解です)、これに対し、私は居場所におけるゲートキーパー的な発見機能を重視しています。平たく言えば、そこはそんなに気にしなくていいよ、ということです。

アメリカ出自のソーシャルワークはもともと個に軸があり、それはコミュニティ・ソーシャルワークでも同じことですが、1960年代から70年代に日本でこれを摂取するときには、個が後景に退く形になりました。これは日本的な団体交渉と、個を束ねたコレクティブ・バーゲニングとの違いにも似ています。ある特定の共通のテーマの社会問題に集約させるということは、同時にその中でのマイクロアグレッションを生じさせる土壌にもなり得るので、それこそジレンマを抱えやすいと私は思っています(昔の社会運動のなかで今から見るとジェンダー差別としか言えないものがあったり、枚挙に暇がないはずです)。社会問題としての集約性(離散性)と個への注目を対蹠的に捉えること自体に、日本における文脈上の必然性と、課題も含まれているかもしれませんが、同時に今回、私は「教育」や「福祉」が始まる前の地点に注目したことで、同じように社会問題に対しても、その問題を認識するスタートラインという位置づけは出来ていると考えています。

こうしたポジショニングによって、「教育」とは?「福祉」とは?「教育福祉」とは?という問いをペンディングさせています。もちろん、森さんの第1巻1章の「「多様な教育機会」と教育/福祉――ジレンマのなかで、ジレンマと向き合う実践の論理」のような試みは重要であり、我々も森さんのこの論文の元になる報告に対しては、報告する前と後で別々に検討する機会を作って議論してきました。しかし、いつもこの作業をしていると前に進んでいかないので、それはそれとして繰り返し行うとしても、別のアプローチの仕方もあるだろうということです。

RED研では、19年の春を一つの起点として、「話題提供」として実践報告、というより、現場で悩んでいることを言語化し、その「モヤモヤ」がどのように分節して、理解できるか、ということが多くなってきました。ただ、これは森さんの方針として、おそらく実践家に対するアカデミシャンがやるべき仕事という位置づけをされたと思うんですが、一年に一回くらいは、全体として我々が何を考えているかの現時点を発信する必要があるということで、シンポジウム(21年1月)、教育学会のラウンドテーブル(23年8月、24年8月)を積み重ねています(森さんの個人としての仕事としては社会政策学会での報告等、さらにあります。その上で19年12月の20回研究会は山田哲也さんと私のこれに対するコメント回でした)。教育学会のラウンドテーブルはそれまでにも2回やっているんですが、1回目は子どもの貧困、2回目は居場所カフェというテーマが個別的で、そこは趣が変わっています。

抽象レベルでいうと、現場で起こっている実践をベタに分析していくエスノメソドロジーと、森さんや澤田さんが全体をとらえるときに参照枠としているルーマンの議論を使って考えるという間のどこかに位置する試みであると二人の話を聞いているときには、私は考えていましたが、耳学問なので、違うかもしれません。
この夏、2015年から取り組んできた多様な教育機会を考える会(Rethinking EDucation研究会、RED研)の成果として明石書店からシリーズ『公教育の再編と子どもの福祉』2巻本を上梓しました。じんぶん堂さんで、編者として紹介文も書きましたので、よかったら、そちらもご覧になってください。9月29日(日)10:00-12:30には1巻を中心とした合評会も開催されます。対面の締め切りは終わってしまいましたが、オンラインはまだ参加可能なので、ぜひご参加ください(28日(土)が締め切りです)。

どうやってこの本の意義を紹介するのか、特に、私のブログは社会政策や労働問題・人事に関心を持っている方が少なくとも活は多かったので、そこにつなげるのは難しいなと考えていました。ただ、そうこうするうちに、合評会が目の前に迫って来たしまったので、いったん、そのための作業を先にすることにしました。

この点で既に事務局で一緒にやって来た森直人さんがブログで取り上げてくださっています。
合評会の予習用①
合評会の予習用②

もっとたくさんエントリがあるのですが、とりあえず、森さんが酒井さんの問いを利用して、設定してくださった三つの設問に答えていきたいと思います。三つの質問というのは、

-1巻〈実践編〉の執筆者のみなさんへ
[RED研について]
①RED研に参加し(続け)たのはなぜですか?
[寄稿した文章について]
②今回の本に寄稿した文章で取り組んだのは、どのような課題ですか?
③その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?


というものです。この三つに私なりに応えたいと思います。

[RED研について]
①RED研に参加し(続け)たのはなぜですか?
1 研究会自体を出来るだけ誰も排除しない空間作りを目指して運営し、ある程度それが成功できたので、居心地が良かったから。
2 森さんと澤田(稔)さんという信頼する二人と一緒に運営して来たから。
 2.1 コロナ禍以前、東京で対面で開催していた時期は澤田さんの紹介するご飯屋さんが美味しかったから。
3 末冨(芳)さんと子どもたちのために真剣にやるという誓いを交わしたから。
4 この研究会を通じて様々な研究者、実践家と知り合ったり、あるいは大阪に赴任してからは現場で活動されている方を紹介したから。

[寄稿した文章1巻2章「「無為の論理」再考」について]
②今回の本に寄稿した文章で取り組んだのは、どのような課題ですか?
教育の研究分野の人たちに、影響力を持っていたのが仁平典宏さんの<教育の論理>と<無為の論理>という考え方でした。仁平さんは理論的にこの二つを対蹠的に位置づけ、規範的に<無為の論理>を上位に位置づけるべきではないかと問題提起されていました。じゃあ、この<無為の論理>って何だろう?というのをちゃんと考えてみよう、というのがこの文章の課題になっています。

端的に言えば、今、書いたことに尽きるのですが、もう少し背景的なことも書き足しておきますね。RED研では仁平さんにも加わっていただいたこともあり、この議論は初期、福祉(ウェルフェアないしウェルビーイング)とは何かを考える取っ掛かりとして、何度も議論していました。また、後にRED研に加わっていただいた小長井さん(2巻9章)や1巻でも寄稿していただいた内藤さんたちのように、教育関連の研究者の方には結構、影響を与えていました。特に、仁平さんの論稿の中でも、<無為の論理>の事例として居場所活動が出て来るのですが、ここがややこしいところで、高校居場所カフェを広めたドーナツトークの田中さんやパノラマの石井さんはソーシャルワークを重視していたので、<無為の論理>と福祉が結びついて理解しやすい土壌が出来ていたと言えると思います。ちなみに、8年半近くこの研究会をやって来たので、時期的には居場所カフェが全国的に広まっていくプロセスと並走していたと言えるかもしれない(と今、書きながら思いつきました)。いずれにせよ、この辺を一回、交通整理しておこうか、というのがこの論文のスタートです。

あと、編集的な裏話を言うと、1巻は実践家の人の声を届けたい、という思いがあり、そのために、平易であること、そしてまずは私たち三人が第1部である種のモデルを示そう、というのがこの文章を書きあげるにあたってのミッション(≒課題?)でありました。


③その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?
・教育も福祉も状態の変化を目指すという点では<無為の論理>を貫徹しえない。
・教育や福祉におけるコミュニケーションのなかで<無為の論理>を実現しようとすると、むしろ、ロジャーズを起点とするカウンセリングが親和的だが、それは技術的に難しいし、いつでもそういうコミュニケーションの取り方が最適とは限らない(≒ので、こちらが上位と位置づけることも出来ない)。
・とりあえず、変化を目指さない<無為の論理>として、どこも目指さない「一息つく」を大事にしよう。
・約束通り、最初の方に書き上げて、リクエストがあった場合、お見せしました。平易かどうかはみなさん、答え合わせしてみてください。

労働新聞社で濱口さんの『賃金とは何か』の書評を書きました。そして、早速、濱口さんのブログで、そのことを紹介してくださったのですが、濱口先生的には物足りない、という感じだったなということだと思います。すみません。書いていて私もそうなので、それはそうなりますよね。

裏話的なことを書くと、大阪に来てから、若者支援ばかりをやっていたので、知らないうちにぶつかり稽古的なコミュニケーションの取り方が感覚的によく分からなくなってきたというのがあるんですね。正直、昔から私の書いたものを読んでいる皆さんからすると、何をぬるいこと言っているのかと思われている方も多くいそうです。

濱口先生がおっしゃるように、第3部はダイジェストなので、力を入れているのは第2部というのはそうだと思うんです。そして、今、改めて物価上昇の中では大事なことだよね、という話です。なので、一応、私も濱口先生も引用されている箇所で「ベースアップと定期昇給の違いが分からないという人は2部を繰り返し読むと良い」と書いているんですね。それはなぜかというと、これくらいはちゃんと分かっていないと、恥ずかしいレベルの常識ということにしたいので、労働新聞社のコラムを読む人はそれなりに分かっているだろうという体で、分かっていない場合はこっそり、ちゃんと理解するまで繰り返し読んでね、というのが本当のメッセージです。

ただ、ベースアップにせよ、定期昇給にせよ、問題はインフレ下での総額賃金(人件費)管理の問題であって(それこそが日本的な経路依存性なんですが)、そうであれば、トータルコストとそのなかの配分は、人事部的には経営戦略と人事戦略、そしてそれを実現する制度的裏付けが必要であり、また、集団的な労使関係における交渉が同時に重要になってきます。というか、こういうことを前提にして考えなければ、現場の労使ともにあまり実のある議論が出来ないだろうと思います。この本にプラスアルファが必要なんだよなという感じです。

もう少し突っ込んで言うと、たしかに第2部のところは重要で、賃金がある時期まで上がったから、制度的に上げる(年功的な定期昇給)形にしときゃいいかということになって、制度についての切実な議論が積み重ねられてこなかったんですよね。私は今でも賃金制度に関する議論でもっともレベルが高かったのは1930年代から1940年代だと思っていて、戦時期のインフレははさみますが、そんなに経済成長もしないなかで合理化で1920年代・30年代を通じて研究されていた成果が成熟してまとめられてきたのが戦時中くらいというタイムラグがあると思っています。それが結局、ふっとんじゃったんだよね、というところです。そういう意味では、1990年代の成果主義賃金も少数しか成功しなかった、というのはその辺と関係しそうだと思います。

ちなみに、ここで私が書いたことをかなり的確にまとめているのは、帯の「上げなくても上がるから上がらない日本の賃金」という名文句です。名文句だけど、同時に分かっている人にしか分からないという謎解きメッセージでもあります。

トータルでいうと、『賃金とは何か』はすごい良い本なので、読んだ方が良いというのは第一です。あと私はウェブで読まれるというよりは専門誌の中で読まれることを意識したので、これは基礎知識として読みましょう、ということで、労働新聞社さんのコラムで書いたんです。構成的には、1部、2部はそれなりに読まれそう、3部は読み流されそう、でも、3部は結構、労使関係という論点としては大事だよと強調しておこう、という感じでした。
積読になっていたメアリー・ハッチの『組織論のエッセンス』を読んだ。尊敬する宇田(理)さんが監訳者の一人に名を連ねている。ポイントは日野さんの解説に書いてある通り、3つなんだけど、これ、原文読まないとよく分からん。ということで、これまた積読であった原文を読むと、この三つはorganizaionとorganizationsとorganizingである。「実体としての組織」「個別具体的な組織」「組織化」という風に訳されている。この前の二つと最後の一つの違いが大きいというのは、ハッチの言及しているところで、要するに、前二者が「静的」な捉え方で、後者が「動的」な捉え方と言い換えてよいだろう。

ハッチ先生は物理学を比喩で使うと分かりやすいとおっしゃる(けれども、難しい)。
1 Taking the particle view, you can locate an organization as an entity in time and space.
2 The wave view gives you a sense of organizations as patterns of activity that recur with regularity in a wavelike fashion.

具体例として、
1 教えたり、学んだりする教育組織という実体
2 特定の組織として例証すると、オックスフォード大学

小さな粒子が集まって波になる。教育実践が集まって、具体的な大学になる。たぶん、この粒子と波というのも一つのポイントなんだよね。そうなってくると、3つのなかでカギになってくるのは3つ目のorganizeということになってくると思う。

私のイメージだと、organizeは線で、それを微分すると、entityになる。1本の動画(3)と一時停止した状態の静止画(1)の関係と言い換えた方がいいかな。その意味では、1と3も結構繋がっている気がする。いくつもの動画を集めたものがYouTubeのチャンネル(2)になるという感じかな。

こういうプロセスを重視する視点は、組織論の中では新しいが、労使関係論のなかではむしろ、親しみやすい捉え方だと思う。もっとも、労使関係論といって、すぐにわかってもらえるかどうかというのは苦しい。労使関係論は調査が重視されてきたんだけど、それは書かれたものだけでは分からないので、実際のところはどうであったのか当事者から聞くというところがあった。これは日本のわりとプリミティブな方法。

アメリカの制度学派、イリーとか、コモンズはきっとそういうのとも違って、彼らはやはり法学的な発想が強かったのではないかと思う(実際調停するわけだし)。コモンズは特にそうだと思う。判例は、素材としての慣習がテキストとして書き込まれていて、その中から精製して法を抽出するというプロセスを経る。この精製された法が判例法(慣習法)ということになる。この慣習はテキストにはなっているんだけれども(テキストになってないものは司法のプロも判断できない)、素材そのものもあるわけだ。この素材を法という形で精製せずに、文学のようにすると、グリム童話になったり、『民法風土記』のようなエッセイになったりする。労使関係でいえば、grievance procedure、すなわち苦情処理の記録がそれにあたるだろう。たぶん、ハッチの発想はこれに近い。ただ、法の場合は慣習法とはまったく違う方法、すなわち制定法というものがある。これは慣習から法を発見してくるのではなく、法をどっかから持ってきてエイと作ってしまう。

昔の経営学者はなんとなくこの区別は知っていて、だから藻利重隆先生は、formal organizationに成文組織、 informal organizationに自生組織という訳語を与えていたんだよね。informal organizationというのは直接的にはバーナードだけど、昔はバーナード学者もたくさんいたくらいだから、みんな知っていたと思う。ちなみに、実際、私は昔、公式組織、非公式組織という訳語で教えられたんだが、公式と非公式ってちゃんと意味を考えて使っていたんだろうかとその当時も今も訝しく思ってる。だからこそ、この藻利訳は衝撃的だった。

逆に、アルフレッド・チャンドラーのように、事業部制に焦点が当たると、これは図式的に言うと、formalな組織になってしまう。チャンドラー自身はもちろん、自分の研究を教科書的な丸めた説明でのみ捉えているわけではない。実際に具体的な組織が事業部制の展開、多角化の展開をしているなかでは、そこにフォーカスするよね。チャンドラーはパーソンズとか、ウェバーとかも批判的によく読んでたから、そうなるのはむべなるかなとも思う。実際、巨大組織が20世紀初頭から中葉までは大きい意味を持っていたわけだから、それがなぜそうなってのかという問題意識を持っていたのは当然の成り行きだろう。

このエントリの後半の方は全然、どうでもいい昔語りだが、これは私の頭のなかの棚卸しなので、適当に読み流してください。

ああ、そうそう、この本自体はとても良かった。文学的な手法、比喩とかメタファーをめちゃくちゃ使ってます。でも、入門書として分かりやすく書くということについて、なかなか示唆的な本だった。