『情報労連リポート』4月号が「歴史と運動から学ぶ 労働組合はなぜ必要なのか」という特集を組んでいて、そこにわたくしも「公共性を持つヨーロッパの労働組合 日本の労働組合とどこが違うのか」という小文を寄稿しています。
http://ictj-report.joho.or.jp/2404/
http://ictj-report.joho.or.jp/2404/sp02.html
労働組合の存在意義とは何か。それぞれの社会において異なる。欧米の労働組合と日本の労働組合の位置付けはどう異なるのだろうか。ヨーロッパにとっての労働組合の性格を主に解説してもらいながら、日本と比較してもらった。
アングロサクソンの労働組合
労働組合とは社会にとっていかなる存在なのかというのは、国によって異なります。大きく分けて、英米のようなアングロサクソン諸国、独仏のような大陸ヨーロッパ諸国、そして日本では、労働組合の位置付けが大きく異なっているのです。もちろん、労働者の利益を代表する組織であるという点においては共通です。しかしながら、その利益代表のありようが異なります。
アングロサクソン諸国における労働組合とは、労働者の私的な利益代表組織です。労働者はみんな高い賃金を獲得したいと思っているので、彼らの利益代表として企業と団体交渉をして、労働協約という形でそれを実現するのがその役割であり、その対価として彼らから組合費を徴収します。私的な取引関係である雇用契約関係の中に、一方の利益代表組織として関与し、その利益を実現することに存在意義を有するのですから、言葉の正確な意味での圧力団体であり、それ自体として公共的な性格は有しません。1世紀以上前のアメリカでは労働組合は不当なカルテルとして摘発されていましたが、それがそうではなくなったというだけです。
大陸ヨーロッパ諸国の労働組合
これに対して大陸ヨーロッパ諸国における労働組合は、国によってニュアンスは異なりますが、なにがしか公共的な色彩をもった利益代表組織です。裏返していえば、ヨーロッパにおいてはある社会的集団の利益を代表するということに一定の公共的性格が認められるということになります。もちろん、労働組合は労働者の自発的な結社であり、その意味では徹頭徹尾、私的な存在です。しかしながら、労働組合が労働者のために団体交渉をして締結した労働協約は、単なる複数当事者間の私的な契約に過ぎないものではなく、同じような労働者に適用されるべき公共性を持ったルールとしての性格を併せ持つと考えられています。そのことをよく示す仕組みが規範的効力であり、とりわけ日本の労働組合法にも申し訳のように規定がある労働協約の一般的拘束力制度というものです。
最近日本でもUAゼンセンや自治労がこの制度を利用したことで注目を集めていますが、多くの人にとっては、契約の当事者でない第三者がなぜ他人の締結した労働協約に巻き込まれなければならないのだと疑問を感じるかも知れません。労働組合という私的な団体が結んだものであっても、労働協約というのは本来同種の労働者に同様に適用されるべき公共的な性格のルールであり、それを権限を有する公的機関が認証するのが一般的拘束力制度だと考えなければ、理解できないでしょう。
実は一般的拘束力制度をもたない諸国もあります。デンマーク、スウェーデン、ノルウェーといった北欧諸国では、労働組合の高い組織率を背景に、一般的拘束力制度なしに労働組合の締結した労働協約が社会全体のルールとして通用しています。フレクシキュリティで一時有名になったデンマークなど、他国で労働法典になっているような内容も労働協約で処理されており、そのため六法全書に解雇規制が見当たらないので、解雇自由な国だと勝手に誤解されたりするわけです。国家が認証しなくても、労働組合の結んだ労働協約は議会が制定した法律と同様の公共的なルールなのです。
社会民主主義と労働組合
こうした大陸ヨーロッパ諸国の発想を元に作られたのが、EU運営条約に規定されているEUレベル労働協約をそのまま理事会指令にするという仕組みです。詳細は拙著(『新・EUの労働法政策』)等に解説していますが、欧州委員会から協議を受けたEUレベルの労使団体(欧州労連と欧州経団連等)が、自分たちで交渉して労働協約を締結したら、閣僚理事会の指令によって拘束力ある法令になるというものです。もともとは先日亡くなったフランス出身のドロール欧州委員長によって条約に取り入れられた制度ですが、以来育児休業指令、パート労働指令、有期労働指令などいくつもの指令として実現してきました。
これを政治哲学のレベルで考えると、大陸ヨーロッパ諸国においては、直接選挙で選ばれた議会を通じた代表民主制の原則と並ぶ、労使団体や市民社会団体を通じた参加民主制の原則とが、ともに民主制原理として並列して存在していると考えることができます。それを明示していたのが、2004年にいったん合意されながら国民投票で否決されたEU憲法条約でした。同条約は、欧州議会がEU市民を代表する旨の代表民主制の原則(I-46条)と並べて、代表的団体や市民社会を通じた参加民主制の原則(I-47条)を明記し、その代表例として労使団体と自律的労使対話に関する規定(I-48条)を設けていました。その歴史的背景としては中世的なギルドや身分制議会の伝統もあるのでしょう。政治社会学者のコリン・クラウチは、中世の伝統と社会民主主義が結合して20世紀のコーポラティズムを生み出したと説明しています。
日本の労働組合の位置付けは?
さて、以上説明してきたアングロサクソンモデルと大陸ヨーロッパモデルは、いずれも日本には当てはまりません。日本の労働組合はアメリカのような団体交渉請負人でもなければ、同種の労働者一般の利益を代表する公共的存在でもありません。
では何かというと、ある会社に雇われている正規従業員という「同種の労働者」の利益を代表する存在であり、その意味で会社の社内ではある意味で公共的存在(社員という「私」に対して会社という「公」に近い存在)ともいえます。しかし一歩会社の外に出ると、全く私的な存在であり、公共的性格を有するとは考えられていません。その労働組合が産業別に寄り集まって作った産業別組織や、全国的に寄り集まったナショナルセンターも、基層の企業別組合が有しない公共的性格を創発的に有するとは見なされていないのが実態でしょう。戦後80年近く存在してきた一般的拘束力制度を活用した事例が十指に及ばないことが、それを物語っています。
それでも高度成長期までの日本では、毎年の春闘で労働組合が社内でかなりのベースアップを勝ち取り、それが社会全体に波及するというメカニズムも働いていました。その意味では、それなりに公共的な役割を果たしていたということもできないわけではありません。ところが1990年代の不況期以来のいわゆる失われた30年において、これら企業別組合は社内の正規従業員のために定期昇給を維持することに集中し、結果的に他社に波及すべきベースアップを実現できてきませんでした。労働組合が発揮すべきであったこの公共性を、安倍政権や岸田政権といった自民党政権が労働組合に代わって発揮しようとしてきた近年の動きは、皮肉なものと言わざるを得ません。
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