EU最低賃金指令は条約違反で無効!?@『労基旬報』2025年2月25日号
『労基旬報』2025年2月25日号に「EU最低賃金指令は条約違反で無効!?」を寄稿しました。
本紙では、2020年3月25日号で「EU最低賃金がやってくる?」を、同年11月25日で「EU最低賃金指令案」を寄稿しましたが、その後の展開については紹介しそびれていました。同指令案は2022年10月19日に正式に採択され、その国内法転換期日は2024年11月15日でした。つまり、既に加盟国内で動き始めているはずです。ところが、去る2025年1月14日、EU司法裁判所のエミリオウ法務官は、同指令は条約違反であるから全面的に無効とすべきであるという意見を公表し、大きな騒ぎになっているのです。今回は、なぜそんな事態になったのかを見ていきたいと思います。そもそも、EUは加盟国が批准した国際条約によって設立された国際機関であり、その権限はEU条約とEU運営条約によって限定されています。そして、EU運営条約第153条第5項には、「本条の規定は、賃金、団結権、ストライキ権及びロックアウト権には適用しない」と、明示的にこれら分野の適用除外が規定されています。これは、マーストリヒト条約の社会政策協定以来35年間維持されている規定であり、賃金や組合型集団的労使関係は加盟国の専権事項であることを謳った規定です。ところが2020年1月14日、就任したばかりのフォン・デア・ライエン委員長率いる欧州委員会は、彼女の「私の欧州アジェンダ」に沿って、最低賃金に関する労使への第1次協議を行い、6月3日の第2次協議を経て、10月28日には最低賃金指令案を提案しました。旧稿はこの頃の状況を解説したものです。フォン・デア・ライエンは、賃金決定や労使関係の適用除外なんぞは保守的な経営側の要求で入ったものに違いないと考え、労働側は諸手を挙げて賛成すると思い込んでいたようですが、あにはからんや、同指令案に対する最も強く激しい批判は、スウェーデンやデンマークといった北欧諸国の労働組合から投げかけられたのです。旧稿では協議前日の1月13日付のEUObserverに、スウェーデン専門職連合のテレーゼ・スヴァンストローム会長が寄稿した「なぜEU最低賃金は労働者にとって悪いアイディアなのか?」を紹介しましたが、指令案提案直前の2020年9月16日付のSvenskt Naringlivに、スウェーデン企業総連合のマチアス・ダール副事務局長、スウェーデン労働組合総連合のスザンナ・ギデオンソン会長、交渉協力協会のマルチン・リンダー会長の3者連名で寄稿した「EUの最低賃金指令は受け入れ難い」は、こう明確に論じています。・・・我々の労働市場モデルは、労使団体が賃金、労働時間その他の労働条件のような問題について労働協約を結ぶことに立脚している。スウェーデンでは、このモデルは数十年にわたって経済の成功と福祉の強化に貢献してきた。これは、国家は賃金決定に関与しないということを意味する。国家の関与は柔軟性に欠け分野ごとに調整されない賃金決定、使用者にとってのコストの増大をもたらし、労働者の交渉力を掘り崩す。我々の労働市場モデルは社会の他の部分と深く結びついている。社会保障制度や我々の福祉モデルはスウェーデンの労働協約モデルと絡み合っている。それゆえに、法定最低賃金の問題は一見したところよりも広範で重要なのだ。それは本質的に我々のナショナル・アイデンティティと主権に関わる。社会福祉モデルは労使システムの不可欠の一部なのだ。・・・・・・指令案は、労使団体が労働協約を通じて賃金を規制する責任を持つという我々の賃金決定モデルの心臓を打ち抜く。欧州委員会が予告する内容でこの問題を規制しつつ、同時に労使団体が賃金決定責任を分け合う我々の自己規制モデルを守ることは不可能だ。加えて、フォン・デア・ライエンの提案は自己規制モデルを掘り崩す危険のある並行する労働市場規制を作り出す。いかに設計しようと、最低賃金指令は我々の自己規制的労働協約システムを深刻に混乱させるだろう。そして、EU運営条約の上記規定を持ち出して、指令案は条約違反であると主張します。このように、EU最低賃金指令に対する反発は、北欧諸国の労使が共有するまさにナショナル・アイデンティティに関わるものであったのです。指令案提案後の2021年7月13日にSocialEuropeに、スウェーデンの労使関係研究者二人(ゲルマン・ベンダー&アンデルス・キェルベリ)が寄稿した「最低賃金指令は北欧モデルを掘り崩す」は、もう少し詳しくこの懸念を論じています。スウェーデンといえども組織率は100%ではなく、未組織労働者も1割程度います。フォン・デア・ライエンのいうように「すべての者が労働協約か法定最低賃金を通じて最低賃金にアクセスできるべき」となると、そこからこぼれた者をどう扱うべきか、EU司法裁判所の判断に委ねられてしまいます。その結果、法定最低賃金を設定せざるを得なくなると、指令に従って協約賃金より遥かに低い中央値の60%に設定されてしまいます。スウェーデンでは現在、協約賃金が未組織労働者のベンチマークとして使われていますが、それが遥かに低い法定最低賃金に落ちてしまうというのです。その結果、最低賃金が二重化し、協約賃金に基づく企業と法定最低賃金に基づく企業との間に競争の歪みが発生するとともに、スウェーデン企業が協約から逃げ出す可能性もあります。これを避けるためには協約の国家による一般的拘束力制度を導入せざるを得ませんが、それ自体がスウェーデンモデルにとっては呪いの代物で、組織化を妨げ、高い組織率を引き下げる危険性があるというわけです。こうした懸念の背景にあるのは、いうまでもなくラヴァル事件を初めとするEU司法裁判所の一連の判決があります。北欧諸国は、EUが自国の労使関係システムを尊重してくれるとは信じてはいないのです。こうした北欧諸国の猛烈な反発にもかかわらず、EU最低賃金指令は2022年10月19日に正式に採択されました。これに対し、翌2023年1月18日、デンマーク政府が欧州議会と閣僚理事会を相手取って同指令の無効をEU司法裁判所に訴えました(C-19/23)。同年4月27日にはスウェーデン政府も原告に加わりました。同指令は上記EU運営条約第153条第5項に反しているから無効であるという訴えです。この訴訟はまだ判決が出ていませんが、EU司法裁判所では判決の前段階に法務官による意見が出されることになっており、多くの場合その線に沿った判決が出されます。それゆえに、今回のエミリオウ法務官の意見は注目されたのです。同意見は136パラグラフからなる膨大なものですが、その結論は極めてシンプルです。Ⅶ. 結論136.以上に照らして、私は次のように司法裁判所に提案する。- EUにおける十分な最低賃金に関する2022年10月19日の欧州議会及び閣僚理事会の指令2022/2041を、EU運営条約第153条第5項に反しており、それゆえEU条約第5条第2項に規定する授与原則に反していることを根拠として、全面的に無効とし(annul in full)、- 欧州議会と閣僚理事会にその費用を払わせる。法務官意見の詳細は省略しますが、重要な論点について述べておくと、EU運営条約第153条第5項の「賃金」の適用除外は、男女同一賃金のような他の項目の一部として賃金も含まれるような場合は対象とならず、その限りで賃金に関するEU立法は認められますが、逆に欧州議会や閣僚理事会、他の加盟国が言うように、EUレベルで最低賃金を設定するようなケースにのみ限定されるべきではなく、賃金決定自体を規制するような場合も含まれ、同指令はまさにこれに該当すると言います。従って、同指令はEU運営条約第153条第5項の「賃金」の適用除外に反するものであり、全面的に無効とされるべきだというわけです。この意見に対して、北欧労組も加盟している欧州労連(ETUC)は猛反発していますが、いつもの議論と違って、これは労使間で対立している問題ではなく、異なる労使関係システムの間での対立であるだけに、その扱いはなかなか難しいように思われます。まずは今年中にも予想される判決がどうなるか、注目して見ていきたいと思います。
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