きっと愛着を知っている元児童は家庭を取替えられない対象として位置付けている
Mariaの戦いと祈り/ロイヤル・コンフリクト(いわゆる「忠誠葛藤」)について
#わたしはファーストファミリーが機能しないのなら、セカンドファミリーへ繋げる世界観(他人の受け売りだが)を特別おかしいと思えない感覚があるので、葛藤そのものが無い事を最初に書いておく。まあだからこそ無愛着なのだけど・・・。
コンフリクトも整理とマネージメントが必要
さてさて、少し考えを散らかすけど。
これはあくまで想像でしかないのだが・・・。
親に愛着が出来ている家庭からの措置組は、どんな形でも取替のきかない家庭の像があるんだと思う。里親家庭を家庭と認識したくないのも、ロイヤルコンフリクト(忠誠葛藤)が内面にあり、里親家庭を受け入れがたい別の家庭という風に感じてるのではないかと想像してみた。
でも実は、里親家庭は家庭で育てられない子達の為の "代替家庭" であり、養子縁組ではない。そこを混同しやすいのは施設全部育ちよりも家庭を知っている子達ではないかと思う。里親委託が元の家庭から引き離されるのではなく、育てられない状況の実親の代わりに、代替家庭として養育するのが里親であり、社会的養護の制度としてあるのだ。
きっと家庭からの措置組児童は、児童養護施設ならば家庭の環境から思いっきり掛け離れているので、コンフリクトとアイディンティティが脅かされなくてすむと感じるのだろう。確かに、家庭措置組の子達に、取替のきかない唯一の生物的家庭が存在するのだから、幼い彼らにアイディンティティをもたらした家庭として、大事にさせてあげればいいと思うのだが。
大人は子ども時代の自分だけじゃなく、今を生きる子達の事を考えて欲しい
家庭措置組の彼らも自分の問題をちゃんと整理せずに、里親家庭への不信と怒り(だけ)を吐き出すのでは(もちろん、初期の怒りの吐き出しは必要でもあるが)思考が一辺倒で凝り固まり過ぎてしまい、とぐろを巻いているようにしか見えない。
わたしの場合、わたしももちろん施設が基本的に嫌いだが、それでも施設を必要としている子ども達がいる事を今では理解し、より施設としてケア施設として特化出来るように、と、施設育ちなりに考えているのだ。当然数年前よりも表現が変化しているだろう。
さらに乳児院にいる子ども達にとって欠損しているものは養育してくれる親なので、その部分を社会的養護下の制度の元、与えてもらえる機会を失わせたくない
施設の職員への給料については「安月給で働いておられて頭が下がります」と表現し、里親家庭への里親手当をまるで金儲けの一環のように表現されている文章を見たりする事があるが、それはおそらく彼らが里親家庭に対して、社会的養護下の制度というものを理解し切れていない事にあると感じている。
本来的には無私を求めるなら、それは"親"に対してのもの。"親"が金銭を受け取る事を私利私欲と感じる発言がが一体どのような心理ベースから湧いてくるのか考えてほしい。里親制度は、制度としての代替家庭であり、実親と同じステイタスではない。
怒る対象を間違えない為の整理
愛情をお金で買えるなら・・・
わたしは、愛情はお金で買えないと言う人が多い事に驚いた事が何度もあった。何故だろう?とその度に思った。わたしは貧乏なので、そもそも払えないけど、
わたしは家庭で育った事が無いので忠誠葛藤がない。無愛着ながらに整理してきて思う事は、発達成長にとって必要なものを必要な時期に必要な期間与えられて欲しいという一言に尽きる。
わたしはその欠損をお金で支払えるなら、いくらでも支払いたい。わたしは愛情をお金で買えるなら、とっくにそうしていた。
でも、言葉があまり上品ではないのでうまく表現できなかっただけ・・・。
そして今思う事は、怒る対象を間違えないようにする為、自分の心の整理が必要だという事が分かった。わたしも誤解ばかりしていた、本来向かうべき相手が見つからなかったので(担当者がいない)頓挫したというのが実情。
キレた姑に「あんたを育てた人から話を聞いてきなさい」と言われ過去探し
でも家庭の子には、その子を放置しても(放置という言葉の整理必要)虐待しても、いざとなれば裁判も起こせる・・・つまり自分を育てた責任を問いかける専任者を、特定出来るのだ。
とはいえ、育てた責任という発想自体、施設育ちにはまず自らでは浮かばなかった、結婚するまでは・・・。
結婚後、ムチャぶりな生き方のわたしに困り、姑が夫に命令?した。「この人の施設へ行き話を聞いてきなさい」「誰が、こんなヘンテコリンな女を育てたの!責任者は?」とキレての事。
しかし施設へ話を聞きに行くも、わたしは「担当じゃなかった」と言われてしまい、自分の謎が分からない状態でここまで生きた。又、施設の人員が流動的なので、当時の頃の印象もすでに無くなっている可能性もある。
それが対象者がいるということ、育ちの責任を問うてもお門違いじゃない人がいる事について考えるキッカケになった。家庭で育った子は、修復も断絶も裁判も、許しも、あらゆる可能性が誰もいない施設全部育ちの比ではない。
でも施設時代に自分勝手に野放しで生きてきた事の責任なんて自分にも取りようがない。
子ども時代に、対象者がいないという問題を子どもだった自分に取りようがないのだ。
固定された相手がいるという事が、当たり前すぎて意識すらしないで生きられる事は、わたしにはそれだけでまぶしい事で、得られなかったものなのだ。
| 養護施設を出てからの問題 | 05時15分 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑
不全な機能を補完する
DCIさん、いつも読んでくださってありがとうございます。わたしも最近、春のせいか、少しぼーっとしてしまい返事も遅れがちでごめんなさい。でも、コメントが本当に嬉しいです。特にあなたの伝えてくれるキーワードはいつもとても勉強になっています。
> 「虐待等がない、“いわゆる一般的な家庭という機能”」を体験したかったと思います。
「一般的な家庭の機能」という捉え方、全くわたしもそのように思うのでこの記事を書きましたので、その部分を救い上げて下さったように感じて、本当にうれしかったです・・・。
今までは、施設育ち、施設当事者、等々いろいろな活動を皆さん、されていますが、「施設出身者という言葉」がどんどん、わたしの感覚から離れていくのが怖かったです。
施設出身者・当事者と一口に言われてしまう事で、それでも尚、施設育ち全てを説明した事にならないのは、今では理解できるようになりました。
わたしはこれから、もっと方向性を定めて書いてゆく事になると思います。その方向性とは、児童養護施設と名を変えた孤児院の孤児の要素を常に世に問い直すという作業です。
これからもよろしくお願いします、生き延び語りたいです。のみすぎないで下さいね。
| Lei | 2010/03/15 08:23 | URL | ≫ EDIT