首が折られていたマリア像にクリスマスミサに向かう途上、再び出会えた
首が折れた白いマリア像
いつから持っていたのか、(後輩は施設が宗教系なので、そういう、全国からのグッズがあったと言っていたので、わたしはそれを手に入れる事が出来たのかも・・・)
Mariaが、そのマリア像をあなたに持たせてくれた人がいたのかもねとわたしに言った時、少しスイッチが入った、それは、幻の相手が居る心地よさ、きっと誰かがわたしにこの像を持たせてくれて・・・なんて思いそうになった。でも、確かなのは、夢見た後の虚しさ。
全国から送られてきたグッズの中にあった白いマリア像を、誰も欲しがらないので、焼却処分と聞いた時、とっさに盗むような気持ちで手に入れたのがマリア様の像だった。だから、幻のエピソードもないのだ。
ともかく、2度目の施設での私物で大事にしなくてはいけないたマリア像の首がぽっきり折れて、机の上に置いてあった。わたしはどんな時もマリア像を1日1回はそっと撫ぜていた、その白いサラサラとした触感、ほほえみ、それを見れば何があっても生きていけてた。
感情が働かなかった
でもマリア様の像を誰が折った?なんて事を施設で騒いでも仕方なかった。わたしは首が折れていてもマリア様はマリア様だったので、お祈りの時だけは首を繋げて、お祈りした。でも何も感じてなかった、悲しいとも苦しいとも怒りとも・・・。本当は施設で大騒ぎして、(家庭から来た子がやってるように)泣いてわめくのが普通なのかもしれなかったけれど、施設では感情的な子を、わたしはどこか冷ややかに見ていたので、自分がそうできる筈もなかった。
愛着と感触
わたしのハードマザーであるマリア像は、温もりはないし、下から覗くと穴が開いてるし、撫ぜると素焼きのつぼの様な音がするし、黙って微笑んでくれるだけ。
でも、わたしは気付かなかっただけで、わたしはマリア像無しでも生きていけたと思うけれど、違う宗教系施設の中でわたしの最初に知った宗教を守り通せなかったのではないか?と感じている。
でも昨日再会できた
昨日、カテドラル教会でミサの前に、女子パウロ会のショップで見つけた。あった、すごい。びっくりした。あの感触も同じ、あの微笑みも同じ、あるという事がわかり、わたしの記憶がちゃんと戻った。何よりもすごいのは、いつもマリア様は、あの場所にあるのだ・・・買うという行為がピンと来ない。とてもうれしい、そこにおられるマリア像。
あれは夢物語ではなく、本当にマリア像にわたしは助けられて日々生きていた。今までブログに書いたりエドワードさんの所でさえ書けなかった。首が取れた事をエドワードさんに知られる事に少し抵抗があっので、少し怖くて言えなかった様な気がする。だって・・・マリア様は首が折れていたらいけないのだから。
それだけはしっかり確認できていたので、ショップでの再会は自分にとっての小さいミラクルだった。本当はもっと、爆発的に喜びたかったんだけれど(ほんとにそうか?)そっと静かに自分だけで再会を喜んだ。でも一緒に行ったMariaには、何となくバレてるんじゃないかな・・・。彼女に対して、そっと隠せる感情があるだろうか?
でも何故か次の像をすぐに手に入れる気持ちにはなれなかった。それはきっと、あの小さな頃の支えだった首の折れた白いマリア像への、感謝の気持ちを表に出さないと・・・なんだかあまりにちょっとそれは、淋しいし、ズルイな自分はと。だからきちんと筋を通す?様な気持ちで、あのマリア像の事をきちんとわたしが感謝の気持ちで表わさないといけない。
そんな風に思うのだ。
| ├ メンタル整理 | 06時39分 | comments:17 | trackbacks:1 | TOP↑
れおさん、ありがとうございます。
れおさん、生まれてはじめまして。
ありがとうございます、来年もこんな感じでやっていきます、どうぞよろしくお願いします。
| Lei | 2009/12/31 07:26 | URL | ≫ EDIT