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首が折られていたマリア像にクリスマスミサに向かう途上、再び出会えた

メンタル整理

 首が折れた白いマリア像
 
 いつから持っていたのか、(後輩は施設が宗教系なので、そういう、全国からのグッズがあったと言っていたので、わたしはそれを手に入れる事が出来たのかも・・・)

 Mariaが、そのマリア像をあなたに持たせてくれた人がいたのかもねとわたしに言った時、少しスイッチが入った、それは、幻の相手が居る心地よさ、きっと誰かがわたしにこの像を持たせてくれて・・・なんて思いそうになった。でも、確かなのは、夢見た後の虚しさ。

 全国から送られてきたグッズの中にあった白いマリア像を、誰も欲しがらないので、焼却処分と聞いた時、とっさに盗むような気持ちで手に入れたのがマリア様の像だった。だから、幻のエピソードもないのだ。

 ともかく、2度目の施設での私物で大事にしなくてはいけないたマリア像の首がぽっきり折れて、机の上に置いてあった。わたしはどんな時もマリア像を1日1回はそっと撫ぜていた、その白いサラサラとした触感、ほほえみ、それを見れば何があっても生きていけてた。

 感情が働かなかった

 でもマリア様の像を誰が折った?なんて事を施設で騒いでも仕方なかった。わたしは首が折れていてもマリア様はマリア様だったので、お祈りの時だけは首を繋げて、お祈りした。でも何も感じてなかった、悲しいとも苦しいとも怒りとも・・・。本当は施設で大騒ぎして、(家庭から来た子がやってるように)泣いてわめくのが普通なのかもしれなかったけれど、施設では感情的な子を、わたしはどこか冷ややかに見ていたので、自分がそうできる筈もなかった。

 愛着と感触

 わたしのハードマザーであるマリア像は、温もりはないし、下から覗くと穴が開いてるし、撫ぜると素焼きのつぼの様な音がするし、黙って微笑んでくれるだけ。

 でも、わたしは気付かなかっただけで、わたしはマリア像無しでも生きていけたと思うけれど、違う宗教系施設の中でわたしの最初に知った宗教を守り通せなかったのではないか?と感じている。

 でも昨日再会できた

 昨日、カテドラル教会でミサの前に、女子パウロ会ショップで見つけた。あった、すごい。びっくりした。あの感触も同じ、あの微笑みも同じ、あるという事がわかり、わたしの記憶がちゃんと戻った。何よりもすごいのは、いつもマリア様は、あの場所にあるのだ・・・買うという行為がピンと来ない。とてもうれしい、そこにおられるマリア像。

 あれは夢物語ではなく、本当にマリア像にわたしは助けられて日々生きていた。今までブログに書いたりエドワードさんの所でさえ書けなかった。首が取れた事をエドワードさんに知られる事に少し抵抗があっので、少し怖くて言えなかった様な気がする。だって・・・マリア様は首が折れていたらいけないのだから。

 それだけはしっかり確認できていたので、ショップでの再会は自分にとっての小さいミラクルだった。本当はもっと、爆発的に喜びたかったんだけれど(ほんとにそうか?)そっと静かに自分だけで再会を喜んだ。でも一緒に行ったMariaには、何となくバレてるんじゃないかな・・・。彼女に対して、そっと隠せる感情があるだろうか?
 
 でも何故か次の像をすぐに手に入れる気持ちにはなれなかった。それはきっと、あの小さな頃の支えだった首の折れた白いマリア像への、感謝の気持ちを表に出さないと・・・なんだかあまりにちょっとそれは、淋しいし、ズルイな自分はと。だからきちんと筋を通す?様な気持ちで、あのマリア像の事をきちんとわたしが感謝の気持ちで表わさないといけない。

 そんな風に思うのだ。

| ├ メンタル整理 | 06時39分 | comments:17 | trackbacks:1 | TOP↑

れおさん、ありがとうございます。

 れおさん、生まれてはじめまして。

 ありがとうございます、来年もこんな感じでやっていきます、どうぞよろしくお願いします。

| Lei | 2009/12/31 07:26 | URL | ≫ EDIT

自分の場所を作る事をお勧めします

 カナンさん、家庭の方の信仰生活の事と施設全部育ちが宗教的な概念を持たされて社会へ放り出される事と、その問題が全く違うという事に気付いています?

 もしわたしが2度目の施設で改宗したとして(それ以前に私の場合、カトリックの世界観を植えつけた相手を特定できませんが)、じゃあ、誰が対象者として、わたし達に影響を与えた人を示す事ができますか?

 この日本という家族制度のまだまだ強い世界観の中で、そこから弾かれた命として、日本の一般の風習にはそぐわない、外国カブレと揶揄される様なそんな世界観を持たされた事を、どの様に、誰が、わたし達に責任を取ってくれますか?

 捨てられているというのは、宗派を超えている問題で、それこそ他宗教、仏教徒、無宗教、全ての施設全部育ちに当てはまる課題だと思いませんか?

 もし、保育士として本気で目指しているのなら、ご自分のブログの場所を作って下さい。かつて、たまさんという方へも、このブログでは語れなくて、ご自分の場所を作って、書いておられます。

 その様にご自分の場所を作って下さい、こんなコメントエリアでは、あなたの言いたい事は足りないと思うのですが。

 保育士として捨てられた子ども、虐待を受けた子どもには何が必要と思うかを、ゆっくり考えてみてはいかがでしょう。そうしないと本当に、後が無いと思います。

 日本人なのに、いきなり海外のイメージを持たされる事や、親戚里親も、親戚養親もいなくて、それで施設だけで育つ事について最近色々考えてます。

 でも今はこの国に帰属意識を持ちたいし、好きになりたいし、愛したいから、だから出来る事をしたいと思うのかも知れない。それはまだうまく言えないけれど・・・。 
 
 それでは良いお年を。

| Lei | 2009/12/31 05:11 | URL | ≫ EDIT

解答ありがとうございます

カナンさん、質問に丁寧に答えていただきどうもありがとうございました。

カナンさんの仰りたいことがよく分かりました。子ども達は憲法で保障されている自由が施設においてはなく、和を乱さないように改宗するべきであり、それができないのならはじかれる、ということが本当によく理解できました。気に入るとか気に入らないと言うことはありませんよ。私は施設という場所がどういうものか、宗教が関わるとどうしてここまで荒れてしまうのか知りたかっただけなので、とてもありがたい意見がいただけたと感じています。

ところで日本で宗教への自由は保障されているものの、宗教差別や偏見は根強くあります。とくに日本人は宗教を熱心に信仰する方に、異常なまでのアレルギーがあると思いませんか?私にもそれはあり、特に日本人は宗教を盾に人を攻撃する人を見るとその人のことを懐疑的に見ます。神様をそんな風に使うな!と思ってしまうのです。

カナンさんが「カトリックなら」という言葉でLeiさんを責める時、大半の日本人は非常に不快な気分になります。和を乱す人だと思います。そんなことで不快になるのはただのちっちゃな日本という国の中でのおかしい決まり事ですが、カナンさんにとっては自分の信仰を持っていただけです。大変辛いことなのではないでしょうか。Leiさんも小さな施設という世界の中で自分の信仰を持っていただけで叩かれました。同じ辛さを抱えているように思うのですが、どうでしょう。

またLeiさんもカナンさんのことを、同じ宗教系施設出身でしかも保育士志望の方が記事を見に下さったのは嬉しかったと思うのですが、その方に「カトリックのくせに」と言われるのは非常に悲しいことなのではないでしょうか。

カナンさんはとても真面目だと思っていますし、Leiさんを責めた施設職員のかたも非常に真面目だと思っています。それを疑ったことはありません。最後の質問のお答えで具体的でないまでも子ども達をとても思っていることが伝わってきました。どうしたらいいか、これは大人が突き詰めて考えていくしか無いですね。Leiさんはそのために里親制度を応援している方です。カナンさんはどうやって子ども達を救うのでしょうか。

無礼な質問に答えていただき、本当に感謝しております。LeiさんにもMariaさんにも
失礼しました。

| 福来 | 2009/12/30 23:33 | URL | ≫ EDIT

カナンさんに警告します

カナンさん、

 これ以上Leiちゃんに失礼な物言いをしたり、絡むようであれば、アクセス禁止にします。これは警告です。


 さて、
 あなたは、ご自分はプロテスタントと言っていますが、プロテスタントという宗派なく、カトリック以外のさまざまな宗派をまとめてプロテスタントと行っていたと思います。あなたの宗派は何なのでしょうか。

 Leiちゃんを教会に連れて行きたいと言っていましたが、どの宗派の教会に連れて行きたいのでしょうか。
 どんな宗派でも教会で有りさえすれば、いいのかしら?

 Wikipediaによると、日本基督教団は33ものプロテスタントの宗派の業界団体のようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%9B%A3

 それにしても、いろいろ思うことがあれば、赤の他人のブログでとぐろを巻かずに、ご自分のブログを立ち上げたらいかがかしら?

 いずれにせよ、これいじょうしつこくすれば、IPを蹴飛ばしますわよ。

| 共同管理人Maria | 2009/12/30 15:20 | URL | ≫ EDIT

横レスですが、本人にとってその言葉(迫害)がストンと心に落ちてきて、安心されておられるならば、それで良いのではないでしょうか。

>いくら施設だからってそこまで非人間的な生き方を求めて児童に生活指導してる訳ありません。子供は泣く者だと思うし、怒ったり笑ったりする・・・

いやいや、ちょっと待ってください。自分の感情を自由に表現でき、伸び伸びと育てられた環境ならば、そもそもこのブログは存在しないでしょう。仮に表現可能だとしても、そのとき 泣こうが、泣くまいが本人の勝手でしょう。

何故そこまでこのブログ主に執着するのですか?

そもそも子どもの頃のことでしょう。
子どものときにどう感じたかについてああだ、こうだと叩くなんて、私には信じられませんね。

このブログは主さんの気持ちを吐き出して整理している面もあるし、社会に児童養護施設内虐待の問題提起をしている面もあると思います。

端的に言うと、この記事ではそっとしてやれば…と思っています。

| れお | 2009/12/30 00:50 | URL |

福来様へのお答えです

>一見して奇麗な話ですね、でもそれって頑固な児童という
感じしますよね、どうなんでしょう。

>よく分からないのですが、

施設では団体行動が出来ないと何事もうまくいきません。
団体行動をちゃんとやっていたとLeiさんは言いますけれど
頑固な所が見受けられてどちらかというと目立つ部分も
あったのかなと思っただけです。
物が壊された時は泣いた方が目立たなかったと思います。
いくら施設だからってそこまで非人間的な生き方を求めて
児童に生活指導してる訳ありません。
子供は泣く者だと思うし、怒ったり笑ったりする・・・
その上での集団生活の維持が必要だと思っていました。
物を壊されて泣かない方が少し違和感があるんです。
しかも大事にされてたマリア像なんですから。
職員の方や周囲の方もそこに少し意固地さを覚えてたと
想像しています。
福来様やMariaさんの目には迫害とか映るのでしょうか。
私の違和感としては本当に集団生活を送れていたかという
点が少し気になります。
でもこれは想像だし何の根拠もありません。
ただ、集団の中で本当に目立たない大人しい子には見えない。

>施設がプロテスタント系なのはLeiさんは知ってたんでしょ?

>よく分かりませんがカナンさんは今いきなり他宗教に改宗しろと強制されてできるものなんでしょうか?失礼な質問だったらごめんなさい、本当に疑問なのです。知ってたとしたら隠し通せるものなんでしょうか??

と言いますか、私は無宗教の家で生まれて育ちましたから。
私が入所した六歳の段階でプロテスタントかどうか知りませんでした。
私が初めて出会ったのはイエス様の愛を信じる事ですから。
でもカトリックと言ってるLeiさんはプロテスタントだと気づいて
知らず知らずに不快感や不満を表してたのでは?と思ったんです。
違ったらそれは申し訳ないんですが、電話でのやり取りじゃないんで
思った事を文章にするしかなくて、こうなりました、ごめんなさい。
ただ、目に見える物を拝むだけでは信仰とは言えないって言いたいの。

>プロテスタントを信じてる子はみな施設を出る時や出た後も
きちんと洗礼を受けて旅立ちましたけど、どうでした?

>これはLeiさんにプロテスタントになれ、

福来さん。プロテスタントだと思って友人になれると
思って、意見を交換できると思ったのが実はMariaさんと同じ宗教・・・。
しょっちゅうプロテスタント系施設と言ってたのはLeiさん自身ですし。
ちょっと裏切られた様な・・・こちらが勝手にと思いますが、もしかして
同じ施設かしら?と思ったり、まさかと思ったり・・・。
もし私と同じ施設だったら信仰の度合いは洗礼を受ける事で証できるので
洗礼の事を聞いただけです。もし洗礼を受けられなかったのなら
プロテスタントではないという事も納得しますけど。

>最後に。カナンさんは「宗教施設だから心は救われた」と書かれていますが、日本では今現在宗教施設じゃない施設で育つ子どもたちもたくさんいます。どうしたらその子たちは救われるんでしょうか? カナンさんの中ではその子たちは救われないままですか?

他の施設の子の事は全く考えていなかったというか余裕がありません。
でも宗教系じゃない施設でも救われ方があると思います、
劣悪な環境から救われた事もそうだし親の暴力から逃れる事も。
それぞれに救われ方があるとは思います。駄目な家庭では不幸です。
私は一生懸命信仰する事の大事さを覚える事で救われてると思ったから
Leiさんはせっかくの心が救われるチャンスを自分で失う様な行動をしてた
んじゃなかったかなと。
あとDragon戦記というのも何となくですがそのカトリックへの怒りにも
挑戦にも感じてそういうのは勘違いだったらすいませんという事です。
あまりに独特な題名ですよね、最初SFとかファンタジーの読み物ブログかと
思ってしまった位ですから施設出身者と聞いてビックリしてる所です。

福来様の気に入る答えか分からないんですが・・・。
真面目さについてはLeiさんにひけを取らないつもりです。
だからこそ違和感を取り除きたい気がしていました。

| カナン | 2009/12/29 22:28 | URL | ≫ EDIT

追記

 カナンさん、わたしは生まれてすぐどんな乳幼児時代を過ごしたか分かりません。そして仮にカトリックの影響を受けて育ったとしても、今度は、その世界観に戸惑いを覚えます。又カトリックの施設でも虐待があります。宗教と虐待がセットになってしまっています。(これは又後に・・・)その人からすれば、カナンさんの宗教施設でよかった発言で傷つく人がいる事を伝えておきたいです。

カナンさんは保母をめざしてるんですよね?(しつこい?)宗教施設で働くとは限らないですよね?なので宗教系施設の問題だけじゃなく、施設だけで子供が育つ事についても、考えて下さいませね。

 それでは少し忙しいのでレスポンス大変遅れますので、一気に追記も書いときました。

| Lei | 2009/12/29 01:59 | URL | ≫ EDIT

たいへん個人的な質問でごめんなさい

カナンさん。カナンさんがLeiさんに投げかける言葉を読んで、大変皮肉かもしれませんが施設でLeiさんがどのような扱いを受けてきたのかなんとなくイメージできるようになってきました。

ごちゃまぜ仏教徒の私にはカナンさんや他の方がどこでひっかかり、何に怒っているのかまったく分からなくて本当に不思議です。しかしLeiさんに憤っていることは分かります。そしてカナンさんが非常に宗教に対し真面目で敬虔であることもとても伝わってきます。そしてそれがLeiさんに対する職員の扱いと同じであったのではないかと少し感じます。宗教施設において異宗教を信仰すること、和を乱すことは本当に罪なんですね。

>一見して奇麗な話ですね、でもそれって頑固な児童という
感じしますよね、どうなんでしょう。


よく分からないのですが、Leiさんは物を壊されても当然ということなのでしょうか?いくら頑固だろうが暴力をはたらいていないし人を貶めたわけでもない子が、物を壊されても当然だという雰囲気だとしたらやはりそれは相当おかしい場所に感じるんです。周りの職員もそういう目でLeiさんを見ていたというならまさに迫害や宗教差別という言葉はよく当てはまるような気がして、異常な場所だなあと思います。

>施設がプロテスタント系なのはLeiさんは知ってたんでしょ?

よく分かりませんがカナンさんは今いきなり他宗教に改宗しろと強制されてできるものなんでしょうか?失礼な質問だったらごめんなさい、本当に疑問なのです。知ってたとしたら隠し通せるものなんでしょうか??

>プロテスタントを信じてる子はみな施設を出る時や出た後も
きちんと洗礼を受けて旅立ちましたけど、どうでした?


これはLeiさんにプロテスタントになれ、または施設の和を乱さないためになる必要があった、ということですか?子どもたちは施設の宗教に改宗する必要がある、と言うことなのでしょうか?質問ばかりでごめんなさい、責める意図はなくってもの知らずな私には本当に分からないのです。もちろん私の個人的で無礼な質問に答える必要はありませんから、かまわず流して下さい。

最後に。カナンさんは「宗教施設だから心は救われた」と書かれていますが、日本では今現在宗教施設じゃない施設で育つ子どもたちもたくさんいます。どうしたらその子たちは救われるんでしょうか? カナンさんの中ではその子たちは救われないままですか?

| 福来 | 2009/12/28 23:18 | URL |

カナンさん

 カナンさん、わたしはどうも施設では虐待を受けたという感じがしないのですよ。そのわたしの感じ方は独特で、その感じ方に対してMariaは、迫害という言葉を選びました。

 確かにわたしは彼女の言葉に一瞬びっくりしましたが、何となく、虐待という言葉よりも、スーッと入って来ました。

MariaさんはLeiさんが迫害を受けたなんて表現して。
とても心が傷付きました、これは言い過ぎでは?
だって子供達がどこまで判ってるんでしょう。
物が壊れたのはお気の毒ですが迫害という言葉はいかがかしら


 子ども達がどこまで?・・・確か自分探しの時、かつての職員はクリスチャンでしたが、それはお前、上級性が冗談でやったんだよと諭された別件もありましたので、子ども達がやったのかどうかすら分からないです、色んな事が・・・。

 でも・・・たかが物が壊れただけ、だからわたしは騒ぎ立てませんでした。あなたの様な解釈をしている世界観の中で、マリア像をもっと破壊されたりしない様に、ボンドで貼り付ける事もしませんでした。

 壊れたものが直れば必ず壊されます。だから、壊れたままのマリア様を・・・。

 偶像を拝んでいる様に見えるのでしょうね、あなたには。わたしは仏教の建造物の美しさや、阿修羅像の美しさを知る度に、神への人間の思いを凝縮させ、高度な美術的な価値を齎せる事を軽んじません。

 これは人間の、神への、素朴で一番素直な感情だと思うから・・・。わたしは教会の建造物の美しさも、日本のお寺の美しさも、心に深く響く様なセンシティブな思いを持って生きていたいです。

| Lei | 2009/12/28 14:55 | URL | ≫ EDIT

どんさん

 こんにちは、どんさん。いつもありがとうございます。

 言っておられる事がわかります。

 1つの目に見える現象を、どう捉えるかですね。どちらかの幸不幸を語るだけでなく、おそらく俯瞰的に見る事が大事だと思います。

 宗教系施設出身者同士は、ちと、しばしば、こんなやりとりが出て来てしまいますが・・・。
  
 わたしが一番重要視しているのは、一度も家庭で育った事のない子ども達の現実について、なので、これからも視点を逸らさずに書いていきたいと思います。

 ほんとに、ありがとうございました。

| Lei | 2009/12/28 14:41 | URL | ≫ EDIT

福来さん

 福来さん、本当にありがとうございます。

 施設という場所がいかに孤独だったか、何気ない言葉にいつも教わります。

 施設は集団生活なので、よく、孤独ではないと誤解されがちですが、実は集団であればあるほど、より孤独を感じる様な面もありました。

 兄弟でも姉妹でも親でもない、一過性の関係性が延々と続く中、自分のその他の人も、自分にとって何の意味があるのかが全くわかりませんでした。

 その中で、不変的なもの、を求める気持ちは非常に強かったのかもしれません。心に誰もいないというのが、マイルストーンのない旅をしている様なものだったと感じています。

 こうしてブログに文字を書けているのが信じられない程、わたしは、きっと自由を手にいれているのだと思います。後は、本当に心が自由になる事だけ・・・。

 いつもありがとうございます、福来さん。

| Lei | 2009/12/28 14:32 | URL | ≫ EDIT

書き忘れ
それはお互いにですというのを忘れた。
自分だってそんなの決められていいわけない。
だけど、自分の幸せって難しいですね。

| どん | 2009/12/28 09:36 | URL |

なんかずれているかもしれないけど、
子供がいない夫婦が一組いるとして、
不妊で子供が生まれなかったのと(例えです、里親制度について考えず、石女なんていう言葉が昔からあり、昔から周囲から責められてきたという意味です)
子供を逆縁で亡くすのと
結果として子供がいない夫婦になるけれど、
どちらか選べと言われてもどちらもいやだし、
どちらが不幸かと言われても選ぶことはできないのではと思うのです。
人は立場も違うし、何のために生きるのかは一人一人違うし、ただそれぞれが、自分の幸せに向かって努力していくだけしかなくて、
自分だけが幸せという状態はあまりなくて、
周囲の人間を幸せにしていくことが、やはり自分が幸せになる近道で、
ただ難しいのは、あなたはこの道で幸せ!そうじゃないのはあなたが駄目だから!
というのは最も最悪なんじゃないかなー。

| どん | 2009/12/28 09:23 | URL |

イエス様は私達の為に命を落とされ復活されたの

マリア様というのは確かに奇麗な姿ですねLeiさん。
カトリック教会も非常に奇麗で目が眩みそうですね。
あなたは煌びやかな賢覧豪華なのは好きですか?
もしかして意外と派手なのが好きですか。

でもイエスさまは人間の罪の為に命を投げ打ちました。
地味に命を落とされました。

MariaさんはLeiさんが迫害を受けたなんて表現して。
とても心が傷付きました、これは言い過ぎでは?
だって子供達がどこまで判ってるんでしょう。
物が壊れたのはお気の毒ですが迫害という言葉はいかがかしら
施設がプロテスタント系なのはLeiさんは知ってたんでしょ?
集団生活を守る上でもちゃんと信仰の仕方もあったでしょう。

プロテスタントを信じてる子はみな施設を出る時や出た後も
きちんと洗礼を受けて旅立ちましたけど、どうでした?

福来さまのようなお返事は感動的ですから
私、水さしてないかしら?
一見して奇麗な話ですね、でもそれって頑固な児童という
感じしますよね、どうなんでしょう。
世間に出ればプロテスタントもカトリックも両方世間知らずだからよ。
同じ穴のムジナみたいで、言い合いするのが馬鹿らしい。
あなたは幸せに2回目の施設で生きる道を自分で見失っただけ。そういう風に思いました。なんか悲しいです。
実際に逢っていたら教会に連れて行きたいくらいです。

| カナン | 2009/12/28 04:59 | URL | ≫ EDIT

すごいです、奇跡の再会ですね。美しくて、静かで清らかで。マリア像の手触りや色や光の柔らかさが浮かんできました。どれほど大切で神聖な思いでいたのか、伝わってくるようでした。

信仰心や宗教というものの美しさを見させていただいたような気がします。誰にも侵せない大切な心を、手の平の上に乗せて見せてもらっているようなそんな気分です。

それほど大切に育んでいた心とマリア像がそんな形で傷つけられ、しかもそれを誰にも言うことができず秘めるしかなかったなんて。

Leiさんが大切なものを傷つけられた時に言いつける大人。
「そうか、よく泣かずにいられたね」って受け止めてくれる大人。そんな大人の存在がいなかったということは大変なことですね。

Leiさんの「今まで書けなかった」「言えなかった」ということに触れるたびに、そういうことさえ言うことをはばかられ、抱え込まなくてはいけなかったということに、少なからずショックを受けます。施設という場所がいかに孤独だったか、何気ない言葉にいつも教わります。

すべての子どもたちに、悲しいことが起きた時に言いつけられる大人を。言っても良いんだよ、思うことにタブーなことなんて何もないんだよ、心は自由なんだよって言える大人を、と願います。


私はLeiさんの旦那さんと同じくいいかげん仏教(+神道)徒ですが、聖典を読んだり聖人像や仏像などを見ると、思い知ることがあります。信仰心というものが縛られるものではなく、とても自由で優しく強く美しいものか、頭を垂れたくなることがあります。すべてを見透かして、そして自分の醜さまで含め見守って下さっていると肌で感じるというか。

透明で静かで美しい光の射すような、そんな気分になり心が震えます。

きっとLeiさんにはそんなつもりじゃなく記事を書いて下さったのでしょうが、今回の記事はなんだか頭を垂れたくなりました。ありがとうございます。

| 福来 | 2009/12/26 22:16 | URL |

幻の・・・

 Maria、きっと・・・

そう、あたしはあなたにマリア像を心の支えとして渡してくれる人がいたらいいなあ…というファンタジーだった。

 きっとわたしは、Mariaに出会えたから、首の取れたマリア像の話が出来る様になり、気持ちを言える様になったのだと思う。あなたに会えなかったら、きっと首の折れたマリア像を心の中で思いながら生きていたとは思うけれど・・・。

 以前、乳児院に捨てられた子が「あの子は絹のお包みにくるまれていたのよ」と言ってる保母がいた話を書いたけれど、結局その子も乳児院・施設全部育ちだった。

 もしわたしにそんな像を渡してくれた人が居たとしても、捨てられた事には変わりがないと思う。人間には固定された養育親が必要で、信仰とは別に考えていかないとね。

 そんな風に思う。
 Maria、本当に出会いに感謝している、心から。

| Lei | 2009/12/26 20:24 | URL | ≫ EDIT

 以前、Lei ちゃんからマリア像の首が折られていた話を聞いた時、誰かが意図的に折ったのだと思ったの。
 単に間違えて人形を壊したのなら、隠したり捨てたりすればすむ。施設では、ものがよくなくなるし、なくなってもどうしようもないからすぐにあきらめる。
 それが、わざわざ机の上にあったのは、あなたの反応を見たかったのだと思うの。

>全国から送られてきたグッズの中にあった白いマリア像を、
>誰も欲しがらないので、焼却処分と聞いた時、とっさに盗む
>ような気持ちで手に入れたのがマリア様の像だった。だから、
>幻のエピソードもないのだ。

 そう、あたしはあなたにマリア像を心の支えとして渡してくれる人がいたらいいなあ…というファンタジーだった。
 でも、誰もいない子どもたちの現実は、ファンタジーも持てないほど身も蓋もないわね。

 それでも、そのマリア像は、他宗教の施設で迫害を受けているあなたにとって、まさに「地獄に仏」だったのだと思うの。

 あたしは、あなたにショップのマリア像をプレゼントしたかったのだけど、あなたが要らないというから、買わなかった。「おもちゃが壊れたから、新しいおもちゃを」というわけにはいかない。首が折れても、あなたにはたった一つのマリア像だし、そのマリア像とまったく同じものを見つけたとしても、新しいものを買い、壊れたマリア像を捨てるとは思えなかったから…

 Leiちゃん、あなたは、そのマリア像を通してマリア様とボンドしていたのだと思うの。

 それにしても、子ども時代に、心に思う相手が神様やマリア様しかいないあたしたちは、なんだか物悲しいと最近思うの。

| Maria | 2009/12/26 11:54 | URL | ≫ EDIT














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 クリスマスの翌日どころか、クリスマスの当日である25日に、クリスマスの飾り付けを片付け、お正月の飾り付けを始める店を見ると、こ...

| Mariaの戦いと祈り | 2009/12/27 02:11 |

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