「自然な疑問」を持たないように訓練されている

今年のうちの卒論生に感じていることがぴったりと表現されている。

とにかく「答えだけを知りたがる」とか「反射的に回答する」といったことが、面倒なことを考え無くなる、といったところがあると思います。

高校生を対象にロボット製作の授業をやっていますが、目的はチームワークの経験にウェイトを置いています。
その中で、議論を戦わせる、相手の考えを読み取るといった面を重視しているのですが、これに何ヶ月もかかります。

なんというか「自然な疑問」を持たないように訓練されている、とでも言うべき状態なのです。

常に「(生徒が知らない)正解を大人が知っている」という受け身の姿勢に徹しているから、基本的によい子になっている。

結局のところ、分断された知識の暗記のような事にしかならないから「どうすれば良いのか」とか「なぜこんな問題が起きるのか」「解決手段が無いときに代替手段を考える」ということ自体にたどり着きません。

10人とか20人という数ではありますが、色々な方法で「問題を分析し、議論して、ベターな方法を探る」という経験を積ませるようにしています。
(kikulog:倖田來未舌禍事件または想像力の欠如について:コメント28の酔うぞさんの発言より抜粋)

「概念」という概念を持ち合わせていない学生が少なくないんじゃないかと思うことがあります。
来月出る予定の「大学の物理教育」に書いたんですが、頭の中が単なる知識データベース(not RDB)になってるんじゃないかと感じられる部分や、未整理なエピソード記憶の集合体になってるんじゃないかと感じられる部分など、ともかく何かしらの生体記録媒体としてしか脳を使ってないんじゃないかと感じられるんですね。推論エンジンを持ち合わせていないし、データ間の整合性なんて気にしない。
授業で、「習った重要キーワード間の意味的なつながりを図示せよ」って課題をやらせてるんですが、なかなか悲惨というか、学生さんたちの頭の中身が手に取るように見えてきます。各キーワードが断片化されていて、全くつながってないんですよね。
(kikulog:倖田來未舌禍事件または想像力の欠如について:コメント47のいしやまさんの発言より抜粋)

まさしく、このように日々感じている。

  • 常に「(生徒が知らない)正解を大人が知っている」という受け身の姿勢に徹している
  • ともかく何かしらの生体記録媒体としてしか脳を使ってないんじゃないかと感じられる

卒業研究の肝は、正解がない問題(正解を誰も知らない問題)を観察した事実や構築した理論に基づき論じるという点にある。なので、上記の「正解を先生が知っている」という姿勢で卒業研究に望む生徒はいつまでたっても、研究が進まない。しかも、勉強した知識や先生や先輩からもらった助言と観察できた事実との間に関係性を結ぶことができないので、実験しても実験しただけ。プログラム組んでもプログラム組んだだけという状態で止まる。本当に困っちゃう。

これは明らかにこれまでの生育過程においてそんなことを考える必要がなかった、あるいは、そんなことを考えるとペナルティを受けるかもしれなかったという状態に適応した結果だと思う。この認識からすれば、卒論生個人が悪いわけではなく、単に不運だっただけ。

とはいえ、自分が卒論の前までにどこでそんな教育受けてきたかと考えれば、特にそんな教育受けていない。部活とか、課外活動(委員会活動、地域活動)などで正解がない事柄にチャレンジしなければならなかったぐらい。

広範囲でこのような特徴の生徒・学生が見受けられるということは、来年以降も続々とこのような特徴を持つ卒論生が研究室に配属されてくるということで、何とか対策を考えて、卒業するまでに能力を飛躍させないといけない。

でも、どうやったら良いのだろう。