2017・8・8(火)ザルツブルク音楽祭(終)ベルク「ヴォツェック」
モーツァルト・ハウス 8時
最終日に至って、やっと刺激的なオペラの舞台に出逢う。
ウィリアム・ケントリッジの演出、マティアス・ゲルネの題名役。予想通りユニークなプロダクションであった。今日がプレミエで、このあと27日までの間に4回上演されることになっている。METとカナダ・オペラ協会、オーストラリア・オペラとの共同制作の由。
ドローイング・アニメの大家ケントリッジのオペラ演出は、これまでにもMET制作によるショスタコーヴィチの「鼻」と、ベルクの「ルル」(前者は2010年と2013年に現地で、後者は2015年上演のライブビューイングで)を観たことがあるが、それに比べこの「ヴォツェック」でのアニメの投映は、更に複雑になっている。「ルル」以上に、どこまでがアニメの投映で、どこからが実際の大道具だか、その区別さえ判然としないほどに精緻で大がかりである。近年大流行のプロジェクション・マッピングと軌を一にするものだろう。
今回の舞台美術(ザビーネ・テウニッセン)は、この劇場の舞台いっぱいに、雑多で薄汚い、ゴミ屋敷の如き光景を展開する。さながら荒廃した世界か、廃墟かといったところで、その雑然たるさまはカストルフ演出の「指環」の舞台装置のそれを上回る。
雑多な光景の多くはアニメの投映だが、それは旧い家具の処理場という感もあり、特に手前には椅子のガラクタが無数に転がっている。そういえばアンドレスが椅子の残骸を背負っていた━━。
軍楽隊はアニメで投映されるが、気がつくと鼓手長が独りで下手高所に立っている。かように、舞台の光景があまりに混然としているために、登場人物が何処から現れるか、見当がつかないのである。廃墟と人物との見分けがつかぬことも多く、人物は廃墟の中からうっすらと現れ、いつの間にかまたその中へじりじりと溶け込んで行く、といった具合。
その最も象徴的な場面は、ヴォツェックが「池にはまって」死ぬところであろう。彼は舞台中央にい続けるのだが、その姿はそのまますっと背景の廃墟と一体化するように消えてしまい、彼が存在したという痕跡すら定かでなくなる。
彼に殺されたマリーにしても同様だ。彼女は、大きなオペラグラスで観ると、そのままずっと舞台上に倒れたままであることが判るが、肉眼で見る限り、その姿は完全に廃墟と同化してしまっている。
オペラの冒頭でヴォツェックが口走っていたように、それが底辺に生きる人間の宿命なのか。荒廃した世界の廃墟で生き、そこで死んで行く・・・・。
子供たちがガスマスクのようなものを顔につけているのも不気味だが、とりわけマリーの子供が身体を侵されており、それは病院の看護師に介抱されている不気味な異形の人形で表現される、というのがショッキングな光景だ。
ラストシーンでの子供の声は、すべて陰歌になる。2人の看護師と、その腕に抱かれた「子供」だけが残って溶暗する終結は、何とも重苦しい。
ケントリッジの演出は、この作品で、社会派的な方向へ、また大きな一歩を踏み出したようである。演出には、「共同」として、Luc De Witの名がクレジットされていたが、その分担の範囲については、私には判らない。ただ、「ルル」より手が混んでいた分、未整理の部分も多いのではないかという気もするのだが━━。
いずれにせよ、この演出に比べると、ケントリッジがMETで初めて手掛けた「鼻」は、随分シンプルでプリミティヴなものだったな、という感慨を禁じ得ない。
マティアス・ゲルネの題名役は、2004年のサイトウ・キネン・フェスティバルにおける上演で日本のファンにもおなじみだが、これはもう彼の定番というか、当たり役であろう。
マリーを歌ったアスミック・グリゴリアンは、えらく少女っぽい見かけに仕立てられ、演技の上では地味だが、歌唱は手堅い。
歌手陣にはその他、ジョン・ダスザック(鼓手長)、ゲルハルト・ジーゲル(大尉)、イェンス・ラルセン(医者)、マウロ・ペテル(アンドレス)らが顔を揃えていた。
ピットにはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が入り、バンダはウィーン・フィル・アンゲリカ=プロコップ夏期アカデミーが担当、合唱はウィーン国立歌劇場合唱団のメンバー。
指揮はウラディーミル・ユロフスキだったが、彼の指揮には、少々腑に落ちないところが多い。初日だったせいもあるのだろうが、冒頭は歌もろとも、どうしたのかと思われるような出だし。全曲にわたり、オーケストラの表情は生硬で活気に乏しく、モティーフの交錯にも躍動感と精密さが不足していたようである。この一筋縄では行かぬ「ヴォツェック」の音楽は、彼にはちょっと手が余るのではないか?
まあ、天下のウィーン・フィルのことだし、2日目以降には自分たちで何とかするだろう。
全3幕休憩なしの上演で、終演は9時35分頃。
ところで、昨日聴いたのは、夜の「ハーゲン・クァルテット」だけだったが、今日も夜の「ヴォツェック」だけと相成った。ザルツブルク音楽祭に初めて来て以来、もう40年になるが、こんなに効率の悪い聴き方しかできない年は、かつてなかった。
そもそも他にめぼしい演奏会といえば、昨日はネルソンス指揮ウィーン・フィルの2日目の公演しかなかったのだし、今日もマリアンヌ・クレバッサのリサイタルのみなのだ。こんなに開催公演の少ない日が続くのは、かつての黄金時代━━特にカラヤン時代やモルティエ時代にはまずなかったのではないか。
しかもこのそれぞれが、全く同じ時間帯に組まれているという不親切さだ。両方を順番に聴く、などということができないのである。今週の開催スケジュールには、そういうケースが多い。
先週末の「モーツァルト・マチネー」の際に出会った知人に、私より少し年上の、今は独り身になっている元気な「お金持の」音楽愛好家の女性がいる。毎夏このザルツブルクに来て、カラヤン広場にある「ゴルデナーヒルシュ」とか「ブラウエガンス」などの有名な由緒ある小さなホテルに2、3週間ほど滞在し、コンサートには1日に1回だけ、時には2日に1回だけ聴きに行く、というペースで、悠々と過ごしているそうな。
そういう方にとっては、ガツガツ聴きまくる私のような者が持つ不満など、縁がない存在だろう。とはいえ、貧乏性の人間にとっては、高いカネを払って外国まで聴きに行くのだから、そうでもしなければ割に合わないという裏事情もあるわけで━━。
最終日に至って、やっと刺激的なオペラの舞台に出逢う。
ウィリアム・ケントリッジの演出、マティアス・ゲルネの題名役。予想通りユニークなプロダクションであった。今日がプレミエで、このあと27日までの間に4回上演されることになっている。METとカナダ・オペラ協会、オーストラリア・オペラとの共同制作の由。
ドローイング・アニメの大家ケントリッジのオペラ演出は、これまでにもMET制作によるショスタコーヴィチの「鼻」と、ベルクの「ルル」(前者は2010年と2013年に現地で、後者は2015年上演のライブビューイングで)を観たことがあるが、それに比べこの「ヴォツェック」でのアニメの投映は、更に複雑になっている。「ルル」以上に、どこまでがアニメの投映で、どこからが実際の大道具だか、その区別さえ判然としないほどに精緻で大がかりである。近年大流行のプロジェクション・マッピングと軌を一にするものだろう。
今回の舞台美術(ザビーネ・テウニッセン)は、この劇場の舞台いっぱいに、雑多で薄汚い、ゴミ屋敷の如き光景を展開する。さながら荒廃した世界か、廃墟かといったところで、その雑然たるさまはカストルフ演出の「指環」の舞台装置のそれを上回る。
雑多な光景の多くはアニメの投映だが、それは旧い家具の処理場という感もあり、特に手前には椅子のガラクタが無数に転がっている。そういえばアンドレスが椅子の残骸を背負っていた━━。
軍楽隊はアニメで投映されるが、気がつくと鼓手長が独りで下手高所に立っている。かように、舞台の光景があまりに混然としているために、登場人物が何処から現れるか、見当がつかないのである。廃墟と人物との見分けがつかぬことも多く、人物は廃墟の中からうっすらと現れ、いつの間にかまたその中へじりじりと溶け込んで行く、といった具合。
その最も象徴的な場面は、ヴォツェックが「池にはまって」死ぬところであろう。彼は舞台中央にい続けるのだが、その姿はそのまますっと背景の廃墟と一体化するように消えてしまい、彼が存在したという痕跡すら定かでなくなる。
彼に殺されたマリーにしても同様だ。彼女は、大きなオペラグラスで観ると、そのままずっと舞台上に倒れたままであることが判るが、肉眼で見る限り、その姿は完全に廃墟と同化してしまっている。
オペラの冒頭でヴォツェックが口走っていたように、それが底辺に生きる人間の宿命なのか。荒廃した世界の廃墟で生き、そこで死んで行く・・・・。
子供たちがガスマスクのようなものを顔につけているのも不気味だが、とりわけマリーの子供が身体を侵されており、それは病院の看護師に介抱されている不気味な異形の人形で表現される、というのがショッキングな光景だ。
ラストシーンでの子供の声は、すべて陰歌になる。2人の看護師と、その腕に抱かれた「子供」だけが残って溶暗する終結は、何とも重苦しい。
ケントリッジの演出は、この作品で、社会派的な方向へ、また大きな一歩を踏み出したようである。演出には、「共同」として、Luc De Witの名がクレジットされていたが、その分担の範囲については、私には判らない。ただ、「ルル」より手が混んでいた分、未整理の部分も多いのではないかという気もするのだが━━。
いずれにせよ、この演出に比べると、ケントリッジがMETで初めて手掛けた「鼻」は、随分シンプルでプリミティヴなものだったな、という感慨を禁じ得ない。
マティアス・ゲルネの題名役は、2004年のサイトウ・キネン・フェスティバルにおける上演で日本のファンにもおなじみだが、これはもう彼の定番というか、当たり役であろう。
マリーを歌ったアスミック・グリゴリアンは、えらく少女っぽい見かけに仕立てられ、演技の上では地味だが、歌唱は手堅い。
歌手陣にはその他、ジョン・ダスザック(鼓手長)、ゲルハルト・ジーゲル(大尉)、イェンス・ラルセン(医者)、マウロ・ペテル(アンドレス)らが顔を揃えていた。
ピットにはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が入り、バンダはウィーン・フィル・アンゲリカ=プロコップ夏期アカデミーが担当、合唱はウィーン国立歌劇場合唱団のメンバー。
指揮はウラディーミル・ユロフスキだったが、彼の指揮には、少々腑に落ちないところが多い。初日だったせいもあるのだろうが、冒頭は歌もろとも、どうしたのかと思われるような出だし。全曲にわたり、オーケストラの表情は生硬で活気に乏しく、モティーフの交錯にも躍動感と精密さが不足していたようである。この一筋縄では行かぬ「ヴォツェック」の音楽は、彼にはちょっと手が余るのではないか?
まあ、天下のウィーン・フィルのことだし、2日目以降には自分たちで何とかするだろう。
全3幕休憩なしの上演で、終演は9時35分頃。
ところで、昨日聴いたのは、夜の「ハーゲン・クァルテット」だけだったが、今日も夜の「ヴォツェック」だけと相成った。ザルツブルク音楽祭に初めて来て以来、もう40年になるが、こんなに効率の悪い聴き方しかできない年は、かつてなかった。
そもそも他にめぼしい演奏会といえば、昨日はネルソンス指揮ウィーン・フィルの2日目の公演しかなかったのだし、今日もマリアンヌ・クレバッサのリサイタルのみなのだ。こんなに開催公演の少ない日が続くのは、かつての黄金時代━━特にカラヤン時代やモルティエ時代にはまずなかったのではないか。
しかもこのそれぞれが、全く同じ時間帯に組まれているという不親切さだ。両方を順番に聴く、などということができないのである。今週の開催スケジュールには、そういうケースが多い。
先週末の「モーツァルト・マチネー」の際に出会った知人に、私より少し年上の、今は独り身になっている元気な「お金持の」音楽愛好家の女性がいる。毎夏このザルツブルクに来て、カラヤン広場にある「ゴルデナーヒルシュ」とか「ブラウエガンス」などの有名な由緒ある小さなホテルに2、3週間ほど滞在し、コンサートには1日に1回だけ、時には2日に1回だけ聴きに行く、というペースで、悠々と過ごしているそうな。
そういう方にとっては、ガツガツ聴きまくる私のような者が持つ不満など、縁がない存在だろう。とはいえ、貧乏性の人間にとっては、高いカネを払って外国まで聴きに行くのだから、そうでもしなければ割に合わないという裏事情もあるわけで━━。
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