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再度言うけど、「ルルドと麻原の残り湯は等価です」
愚樵様
あけましておめでとうございます。
本年もよろしく(?)お願い申し上げます。
新年早々わたしの鬱陶しい書き込みを読ませるのもなんなので、ちょっと遠慮しておりました。
とりあえず、詳しくはこちらでエントリを挙げたいと思っているのですが(新年からの貴エントリにも突っ込みたいところが多くて困っています)、「自省せい」とご批判を受けた「ルルドと麻原」についてのみこちらに書き込ませていただきます。
(と、思ったのですが、結局長くなったのでこれもエントリにしました)
愚樵さんの元エントリ
ニセ科学と自虐史観批判(1)
その前に、
>科学でなければ、また理性的でなければ「なんでもあり」という姿勢
ちと文意が上手くとれないのですが、これは、「科学でなく、また理性的でないもの」を支持するような言説を述べる人のことを「なんでもありだと考えている」と取るような姿勢、と、いうことですか?
私が愚樵さんが「なんでもあり」だと考えていらっしゃるのではないかと疑問を持ったのは「ファイヤアーベント」を持ち出されたことと、それに付随して
>どうしても、「風が吹くのは自然現象」という理解の方が「風が吹くのは超常現象」という理解よりも優れているという主観的判断から抜け出せないんですね。
(という書き方は、愚樵さんが「風が吹くのは自然現象」と「風が吹くのは超常現象」が等値の認識であるという考えを支持していると読者が読んで不自然でないと思う)
>人類は科学以前にも様々な「共同認識」を発展させてきた。それは「共同認識」というレベルでは科学と同等である。
こういう愚樵さんの考えを以前から存知あげておりますので、私が「なんでもありとお考えかな」と思うのはそれほど突拍子もないことだとは思いませんが?
>様々な「共同認識」
なるものは、世界にそれこそ無限と言っていいほどほどあるでしょうから。(世界に存在するありとあらゆる認識の仕方をすべて同等とするならば、なんでもありですよね?)
で、私は「愚樵さんはなんでもありではなく、程度の問題である(ある一定の支持数を持っているようなものならば同等である。>ある集団、ある時代で科学以外にも様々なものの見方がある<とおっしゃってるところからかんがえても)」と考えていらっしゃると認識した方がよろしいですか?
多数決なんかいな?
これについては、別エントリでまた書きますけどね。
で、「ルルドと麻原」ですが、
>(そのことは、ごんさんも同様の指摘をされています。
>あなたはルルドの水をアサハラの残り湯と等価と仰った。)
と、引いていらっしゃるので、「ごんさん」の批判点と愚樵さんの批判点は同一(あるいは極めて近い)と考え(そう取るしかないですよね?)、反論いたします。
こういう的外れな批判がくるのかなぁと予想しつつも、本当に来たので驚いています。
(現場でXcelさんって方が同様なよく読まない批判をしてきましたが)
で、愚樵さんがそう言って来たのは予想外ですな。
まず、例のブログではブログ主の方がこう言っています。
自分の妻がどういう状態で、予後がどうかなんてことはとっくに知っている。もちろんその水が単なる湧き水だってことぐらい。
すなわち、ルルド行きを考えている当人もまた周囲の人も、患者さん当人に対しては、その水が「無意味」であることをわかっていることをブログ主自身が言明しています。
ようするに、「ルルド」に何かしら効能があるとするならば、看護をなさっている方の精神的なケアの話だということです。
で、私はそのブログ主さんの言明を前提に、
>自分の妻がどういう状態で、予後がどうかなんてことはとっくに知っている。もちろんその水が単なる湧き水だってことぐらい。
という前提で書きますけれども、「ルルド」に行かれるのはこの場合明らかに「夫」が御自分のために行きたいとおっしゃっているわけですよね。
考える条件は、「ケアする人のためのケア」であるわけです。(上に書き込みをなさっているargonさんは、それをよく承知なさっていると私は読みました
で、例えとしてXcelさんという方のコメントを引用すると
しかし少なくとも機序が近代科学では説明できないのに実際に治療効果が出ているものというのは存在するわけで、そういった経験に基づくものをまるっきり全て否定はできないのではないかと。(実際に目の前で治っているものに対して「科学的に正しくないからお前が治ったのは嘘だ」とはならないですよね。)
と、すでにブログ主と私の間では「ルルドの水は患者の治療に対しては無意味」の合意点が存在するにもかかわらず、明後日どころか180度反対方向の意見を出してきているわけです。
おそらくそういうアホな読み違いをしている人は少数では無かったんでしょうな(愚樵さんもその一人?)
ようするに、私が引いた例は全て「ケアする人が心理的安定とかストレスの発散とかを得られる行為は何か、ということは、人それぞれなんだから同等であって、優劣なんかつけられない」って話です。
「麻原の残り湯」については実際に信じていた人がいたわけですから(今もいるかも知れない)、その人たちにとっては価値があったんでしょ、理解はし難いけど。(で、ルルドも私に取っては理解し難いのはかわりませんがね)
「ごんさん」の愚樵さんのコメント欄での私への批判は以下のようなものでしたが、(再度確認しますが、私が、愚樵さんが同様の観点で批判していると考えることは正当です)
自らのその言葉の重さを引き受ける、その覚悟も、その言葉を目にした人に対する、思いやり、もないままに。
上記したように、ちゃんと読めば私は「ルルド」に行きたがる人の心性に対して一つも批判していないのは明らかです。
それどころか、
追い詰められた極限(あるいはそれに近い)状況にある人を不用意に攻撃する上記引用タイプの人を知りません。
ようするにご提示のような状況で、「神社でお守りを買ってくる」ような行為を(不用意に)いちいち批判する人はいないのじゃないかということです。
「ルルドに行く」というコストを考えた場合に(はっきり幾らかかるのか私は知りませんけれど)
そのコストが、例えば一般の方が近所の神社でお守りを買うぐらいの負担にしか感じないような経済力を持つ方で、その方のメンタルヘルス上プラスになるならば(あるいは、単純に本人がそうしたいのならば)、あえて何も言う必要も無いのでしょう。
しかし、そのコストがこれから生活していくことの足を強く引っ張ってしまうような場合は、やはり一度は止めるべきではないかと考えます。(むろん、それでも行く行かないを決めるのは本人の意思しかありえませんが)
上記のようにむしろ「その心性については理解できる」を前提の内容です。
「ルルドが麻原の残り湯より優位である」と主張したがってる人たちは、「自分の価値判断や美的感覚やら感性とやらは他者より優れている」と考えているのではないですか、愚樵さんも含めて。
(再度、愚樵さんの批判点は「ごんさん」と同じポイントであるという判断です)
「ファシスト」の心性を持っているのは一体どちらなのでしょうか?
「価値判断や信仰に優劣はつけられない」という私なのでしょうか、「私の価値判断こそ優れている」という人間なのでしょうか?
愚樵さんはお書きになった。
>こんなことはわざわざ記すまでもないことですが、どうもちょちょんまげさんとお話しするには、その必要がありそうですね。
これはそっくりそのままお返ししましょう。
なんで、私はこんなアホなエントリを書かなくちゃならないのいかさっぱりわかりません。
追記:
>人間が長い年月のあいだに獲得してきた「確信の体系」
愚樵さんはどうもニンゲンが作る集団が「共感」することによって形成する、それぞれの「確信の体系」なるものを最優先なさっているようだが、愚樵さんのエントリに、氏の手前勝手な「確信」によって、他文化」を規定したがる性向を見るのは私だけとは思えない。
特に氏の米国観には大いに違和感があるので、エントリにしたいと考えています。
(私が米国支持ってことぢゃないよ)
再追記:
グループ、グループが持つ「確信の体系」って、一般に「イデオロギー」って言うんじゃありませんかね。
なるほど、それを最優先に世界を認識する人が多いんだったら、そりゃ世界に戦争が絶えないわけだわ。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしく(?)お願い申し上げます。
新年早々わたしの鬱陶しい書き込みを読ませるのもなんなので、ちょっと遠慮しておりました。
とりあえず、詳しくはこちらでエントリを挙げたいと思っているのですが(新年からの貴エントリにも突っ込みたいところが多くて困っています)、「自省せい」とご批判を受けた「ルルドと麻原」についてのみこちらに書き込ませていただきます。
(と、思ったのですが、結局長くなったのでこれもエントリにしました)
愚樵さんの元エントリ
ニセ科学と自虐史観批判(1)
その前に、
>科学でなければ、また理性的でなければ「なんでもあり」という姿勢
ちと文意が上手くとれないのですが、これは、「科学でなく、また理性的でないもの」を支持するような言説を述べる人のことを「なんでもありだと考えている」と取るような姿勢、と、いうことですか?
私が愚樵さんが「なんでもあり」だと考えていらっしゃるのではないかと疑問を持ったのは「ファイヤアーベント」を持ち出されたことと、それに付随して
>どうしても、「風が吹くのは自然現象」という理解の方が「風が吹くのは超常現象」という理解よりも優れているという主観的判断から抜け出せないんですね。
(という書き方は、愚樵さんが「風が吹くのは自然現象」と「風が吹くのは超常現象」が等値の認識であるという考えを支持していると読者が読んで不自然でないと思う)
>人類は科学以前にも様々な「共同認識」を発展させてきた。それは「共同認識」というレベルでは科学と同等である。
こういう愚樵さんの考えを以前から存知あげておりますので、私が「なんでもありとお考えかな」と思うのはそれほど突拍子もないことだとは思いませんが?
>様々な「共同認識」
なるものは、世界にそれこそ無限と言っていいほどほどあるでしょうから。(世界に存在するありとあらゆる認識の仕方をすべて同等とするならば、なんでもありですよね?)
で、私は「愚樵さんはなんでもありではなく、程度の問題である(ある一定の支持数を持っているようなものならば同等である。>ある集団、ある時代で科学以外にも様々なものの見方がある<とおっしゃってるところからかんがえても)」と考えていらっしゃると認識した方がよろしいですか?
多数決なんかいな?
これについては、別エントリでまた書きますけどね。
で、「ルルドと麻原」ですが、
>(そのことは、ごんさんも同様の指摘をされています。
>あなたはルルドの水をアサハラの残り湯と等価と仰った。)
と、引いていらっしゃるので、「ごんさん」の批判点と愚樵さんの批判点は同一(あるいは極めて近い)と考え(そう取るしかないですよね?)、反論いたします。
こういう的外れな批判がくるのかなぁと予想しつつも、本当に来たので驚いています。
(現場でXcelさんって方が同様なよく読まない批判をしてきましたが)
で、愚樵さんがそう言って来たのは予想外ですな。
まず、例のブログではブログ主の方がこう言っています。
自分の妻がどういう状態で、予後がどうかなんてことはとっくに知っている。もちろんその水が単なる湧き水だってことぐらい。
すなわち、ルルド行きを考えている当人もまた周囲の人も、患者さん当人に対しては、その水が「無意味」であることをわかっていることをブログ主自身が言明しています。
ようするに、「ルルド」に何かしら効能があるとするならば、看護をなさっている方の精神的なケアの話だということです。
で、私はそのブログ主さんの言明を前提に、
>自分の妻がどういう状態で、予後がどうかなんてことはとっくに知っている。もちろんその水が単なる湧き水だってことぐらい。
という前提で書きますけれども、「ルルド」に行かれるのはこの場合明らかに「夫」が御自分のために行きたいとおっしゃっているわけですよね。
考える条件は、「ケアする人のためのケア」であるわけです。(上に書き込みをなさっているargonさんは、それをよく承知なさっていると私は読みました
で、例えとしてXcelさんという方のコメントを引用すると
しかし少なくとも機序が近代科学では説明できないのに実際に治療効果が出ているものというのは存在するわけで、そういった経験に基づくものをまるっきり全て否定はできないのではないかと。(実際に目の前で治っているものに対して「科学的に正しくないからお前が治ったのは嘘だ」とはならないですよね。)
と、すでにブログ主と私の間では「ルルドの水は患者の治療に対しては無意味」の合意点が存在するにもかかわらず、明後日どころか180度反対方向の意見を出してきているわけです。
おそらくそういうアホな読み違いをしている人は少数では無かったんでしょうな(愚樵さんもその一人?)
ようするに、私が引いた例は全て「ケアする人が心理的安定とかストレスの発散とかを得られる行為は何か、ということは、人それぞれなんだから同等であって、優劣なんかつけられない」って話です。
「麻原の残り湯」については実際に信じていた人がいたわけですから(今もいるかも知れない)、その人たちにとっては価値があったんでしょ、理解はし難いけど。(で、ルルドも私に取っては理解し難いのはかわりませんがね)
「ごんさん」の愚樵さんのコメント欄での私への批判は以下のようなものでしたが、(再度確認しますが、私が、愚樵さんが同様の観点で批判していると考えることは正当です)
自らのその言葉の重さを引き受ける、その覚悟も、その言葉を目にした人に対する、思いやり、もないままに。
上記したように、ちゃんと読めば私は「ルルド」に行きたがる人の心性に対して一つも批判していないのは明らかです。
それどころか、
追い詰められた極限(あるいはそれに近い)状況にある人を不用意に攻撃する上記引用タイプの人を知りません。
ようするにご提示のような状況で、「神社でお守りを買ってくる」ような行為を(不用意に)いちいち批判する人はいないのじゃないかということです。
「ルルドに行く」というコストを考えた場合に(はっきり幾らかかるのか私は知りませんけれど)
そのコストが、例えば一般の方が近所の神社でお守りを買うぐらいの負担にしか感じないような経済力を持つ方で、その方のメンタルヘルス上プラスになるならば(あるいは、単純に本人がそうしたいのならば)、あえて何も言う必要も無いのでしょう。
しかし、そのコストがこれから生活していくことの足を強く引っ張ってしまうような場合は、やはり一度は止めるべきではないかと考えます。(むろん、それでも行く行かないを決めるのは本人の意思しかありえませんが)
上記のようにむしろ「その心性については理解できる」を前提の内容です。
「ルルドが麻原の残り湯より優位である」と主張したがってる人たちは、「自分の価値判断や美的感覚やら感性とやらは他者より優れている」と考えているのではないですか、愚樵さんも含めて。
(再度、愚樵さんの批判点は「ごんさん」と同じポイントであるという判断です)
「ファシスト」の心性を持っているのは一体どちらなのでしょうか?
「価値判断や信仰に優劣はつけられない」という私なのでしょうか、「私の価値判断こそ優れている」という人間なのでしょうか?
愚樵さんはお書きになった。
>こんなことはわざわざ記すまでもないことですが、どうもちょちょんまげさんとお話しするには、その必要がありそうですね。
これはそっくりそのままお返ししましょう。
なんで、私はこんなアホなエントリを書かなくちゃならないのいかさっぱりわかりません。
追記:
>人間が長い年月のあいだに獲得してきた「確信の体系」
愚樵さんはどうもニンゲンが作る集団が「共感」することによって形成する、それぞれの「確信の体系」なるものを最優先なさっているようだが、愚樵さんのエントリに、氏の手前勝手な「確信」によって、他文化」を規定したがる性向を見るのは私だけとは思えない。
特に氏の米国観には大いに違和感があるので、エントリにしたいと考えています。
(私が米国支持ってことぢゃないよ)
再追記:
グループ、グループが持つ「確信の体系」って、一般に「イデオロギー」って言うんじゃありませんかね。
なるほど、それを最優先に世界を認識する人が多いんだったら、そりゃ世界に戦争が絶えないわけだわ。
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Comments
あけましておめでとうございます
都筑卓司氏
お目汚しだけど、主旨の違ったお話...
都筑卓司氏という物理学者は、徹底した反宗教論者で、
自分が死んでも、葬儀や告別式はやるなと、言い遺していました。
(遺族のかたがたは、ちゃんと守ったようです。)
http://www.47news.jp/CN/200207/CN2002072901000287.html
こういうかたに、病床のお見舞いに「ルルドの水」を
持って来ても、感情を害してかえってこじらせそうですね。
都筑卓司氏と、おなじタイプのかたにとっても、
「ルルドの水」と「麻原の残り湯」は、同じになるでしょう。
(べつの意味で、だけど。)
都筑卓司氏という物理学者は、徹底した反宗教論者で、
自分が死んでも、葬儀や告別式はやるなと、言い遺していました。
(遺族のかたがたは、ちゃんと守ったようです。)
http://www.47news.jp/CN/200207/CN2002072901000287.html
こういうかたに、病床のお見舞いに「ルルドの水」を
持って来ても、感情を害してかえってこじらせそうですね。
都筑卓司氏と、おなじタイプのかたにとっても、
「ルルドの水」と「麻原の残り湯」は、同じになるでしょう。
(べつの意味で、だけど。)
効果と文化
「ルルドの水」と「麻原の残り湯」だけで比較しちゃうんじゃなくて「薬用内服液」も加えて考えてみましょう。
私としては、液自体に関しては、「ただの湧き水」と「ただの汚水」と「生理的作用のある水」と解釈します。これはちょちょんまげさんも、そしてルルドに巡業した人も共通の理解です。
つまり、液自体の効果ということでは、「薬用内服液」だけが別物ですね。
それでは、液に付帯する文化ということではどうでしょうか。少なくとも「ルルドの水」は、それを「ただの湧き水」と思う人でも、自分も参加しようとする文化を持っているわけですし、私だって、「客観的には全く特別の効果がない」と認識しながらも、習俗・文化として、「初詣」をしたり、「年越し蕎麦」をするわけですから、「ルルドの水」の周辺文化は認めます。
そして、「麻原の残り湯」や「薬用内服液」は、その効果を認めない人にとっては、全くの無意味ということでは等価ですね。「麻原の残り湯」の「効果」は信仰によって認識されます。「薬用内服液」の「効果」は科学によって認識されます。ということは「科学も信仰である」とする人にとっては、「麻原の残り湯」と「薬用内服液」は等価ですよね。
つまり、液自体について見るという枠組みで見た場合、周辺文化を含めて見た場合、さらには「科学も信仰である」という立場と「科学と信仰は別」という立場から見た場合という、2つの違った位相では、引かれる線が違うわけです。
その上で、私は「ルルドの水」と「麻原の残り湯」と「薬用内服液」は等価でないと思うわけですし、液自体の効果にのみ着目するちょちょんまげさんは「ルルドの水」と「麻原の残り湯」は等価だと言うわけです。きっと「科学も信仰である」という方は、「麻原の残り湯」と「薬用内服液」は等価だと思うんでしょうね。
私としては、液自体に関しては、「ただの湧き水」と「ただの汚水」と「生理的作用のある水」と解釈します。これはちょちょんまげさんも、そしてルルドに巡業した人も共通の理解です。
つまり、液自体の効果ということでは、「薬用内服液」だけが別物ですね。
それでは、液に付帯する文化ということではどうでしょうか。少なくとも「ルルドの水」は、それを「ただの湧き水」と思う人でも、自分も参加しようとする文化を持っているわけですし、私だって、「客観的には全く特別の効果がない」と認識しながらも、習俗・文化として、「初詣」をしたり、「年越し蕎麦」をするわけですから、「ルルドの水」の周辺文化は認めます。
そして、「麻原の残り湯」や「薬用内服液」は、その効果を認めない人にとっては、全くの無意味ということでは等価ですね。「麻原の残り湯」の「効果」は信仰によって認識されます。「薬用内服液」の「効果」は科学によって認識されます。ということは「科学も信仰である」とする人にとっては、「麻原の残り湯」と「薬用内服液」は等価ですよね。
つまり、液自体について見るという枠組みで見た場合、周辺文化を含めて見た場合、さらには「科学も信仰である」という立場と「科学と信仰は別」という立場から見た場合という、2つの違った位相では、引かれる線が違うわけです。
その上で、私は「ルルドの水」と「麻原の残り湯」と「薬用内服液」は等価でないと思うわけですし、液自体の効果にのみ着目するちょちょんまげさんは「ルルドの水」と「麻原の残り湯」は等価だと言うわけです。きっと「科学も信仰である」という方は、「麻原の残り湯」と「薬用内服液」は等価だと思うんでしょうね。
残り湯と内服液
たらい舟のM女は海の藻屑と消えたようですね。なまんだぶ。。。
元エントリを読んでいないので上の南郷力丸さんのコメントに一言だけ反応させていただきます。
>きっと「科学も信仰である」という方は、「麻原の残り湯」と「薬用内服液」は等価だと思うんでしょうね。
私は「科学も信仰である」という方です。で、おっしゃるとおり、その意味においては「残り湯」と「内服液」とそして「泉の水」も等価だと思います。信仰かどうかで勝負してないですけどね。
元エントリを読んでいないので上の南郷力丸さんのコメントに一言だけ反応させていただきます。
>きっと「科学も信仰である」という方は、「麻原の残り湯」と「薬用内服液」は等価だと思うんでしょうね。
私は「科学も信仰である」という方です。で、おっしゃるとおり、その意味においては「残り湯」と「内服液」とそして「泉の水」も等価だと思います。信仰かどうかで勝負してないですけどね。
たんぽぽさん
あけましておめでとうございます。
昨年は色いろとお疲れさまでございました。
例によって愚樵さんとこでは人格攻撃受け気味なんですよね。
で、それを「共感」してるんだかなんだか制御しないブログ主もどうなんだろうなぁと思うんです。
都筑卓司氏は、かつてブルーバックスでお世話になりました。
実はうちの親父も私への遺言で「葬式はするな」なんです。
特に「坊主だけは呼んでくれるな」と(笑)
昨年は色いろとお疲れさまでございました。
例によって愚樵さんとこでは人格攻撃受け気味なんですよね。
で、それを「共感」してるんだかなんだか制御しないブログ主もどうなんだろうなぁと思うんです。
都筑卓司氏は、かつてブルーバックスでお世話になりました。
実はうちの親父も私への遺言で「葬式はするな」なんです。
特に「坊主だけは呼んでくれるな」と(笑)
南郷力丸さん
いつも、含蓄深いコメントをありがとうございます。
周辺文化としては「麻原の残り湯」もそれを持っていると言ってよろしいのではないでしょうか?
した場合に優劣をつけようとする人の心性は、「自分の周辺文化に培われた感性、価値観は、他の周辺文化に培われた感性、価値観より優位である」と言いたがっている、という見方は正しいと思うのですが。
この場合、「ルルド」が自分の周辺文化に含まれていなくても、「それは麻原より上位に存する」という判断を下す要因となった「自分の周辺文化」を上位と考えることも含みます。
勿論、麻原を支持する人の数、そしてその文化の存続期間の長さにルルドと違いはあるでしょうけれども。
周辺文化としては「麻原の残り湯」もそれを持っていると言ってよろしいのではないでしょうか?
した場合に優劣をつけようとする人の心性は、「自分の周辺文化に培われた感性、価値観は、他の周辺文化に培われた感性、価値観より優位である」と言いたがっている、という見方は正しいと思うのですが。
この場合、「ルルド」が自分の周辺文化に含まれていなくても、「それは麻原より上位に存する」という判断を下す要因となった「自分の周辺文化」を上位と考えることも含みます。
勿論、麻原を支持する人の数、そしてその文化の存続期間の長さにルルドと違いはあるでしょうけれども。
とらこさん
コメントありがとうございます。
>信仰かどうかで勝負してないですけどね。
ごめんなさい。これの真意がよくわかりませんでした。
よろしければ、ご説明願えませんか?
(なんか、ひねりコメントスタイルが似てきたような)
M女、いずれ復活します。
一応このエントリも関係あることはあるんだけどね。
なかなかそこに行きません。
>信仰かどうかで勝負してないですけどね。
ごめんなさい。これの真意がよくわかりませんでした。
よろしければ、ご説明願えませんか?
(なんか、ひねりコメントスタイルが似てきたような)
M女、いずれ復活します。
一応このエントリも関係あることはあるんだけどね。
なかなかそこに行きません。
真意
わかりにくいコメントですみません。
>>信仰かどうかで勝負してないですけどね。
科学も信仰だと認めているので「科学だって信仰じゃん!」と言われたところで科学の信頼がゆらぐわけでもなければ水伝なりニセ科学を批判する論点が消えるわけでもないということです。
科学の土俵で議論するつもりが全くない人と宗教論争をしているのではなくて、科学への一般的な信頼を利用して科学を騙るものが批判されているのだし、公教育にいんちきや嘘(ファンタジーとは別物)を持ち込んではいかんでしょう、というのは、私がいわしの頭を信じていようが科学教に帰依していようが関係ないといいたかったのでした。
基本的に私のコメントはひねってはいないのですがいかがでしょう?
>>信仰かどうかで勝負してないですけどね。
科学も信仰だと認めているので「科学だって信仰じゃん!」と言われたところで科学の信頼がゆらぐわけでもなければ水伝なりニセ科学を批判する論点が消えるわけでもないということです。
科学の土俵で議論するつもりが全くない人と宗教論争をしているのではなくて、科学への一般的な信頼を利用して科学を騙るものが批判されているのだし、公教育にいんちきや嘘(ファンタジーとは別物)を持ち込んではいかんでしょう、というのは、私がいわしの頭を信じていようが科学教に帰依していようが関係ないといいたかったのでした。
基本的に私のコメントはひねってはいないのですがいかがでしょう?
No title
どうも、お久しぶりのあらいさんです。
ブログの方にコメントいただいたので覗きに来ました。
ついでと言っちゃ何ですが、愚樵さんの元エントリとコメント欄を読ませて頂いたのでつらつらと思った所を述べてみます。
愚樵さんの元エントリにおいて愚樵さんの言う所の「確信の体系」とは、科学においては「実存」が対象になるという点を、愚樵さんが理解されているのかがまず疑問ですね。
「科学に対する懐疑」とは「実在に対する懐疑」、すなわち「実在など無いかもしれない」です。
これが「なんでもあり」になるのは論理的な帰結ですね。
まあ、そもそもが科学における確信とは、『科学は真理には到達できない』しか存在しないのですけども。
その点で言うと、そもそも「確信の体系」など作りようが無いのが科学ですので、愚樵さんのエントリは前提が成立してないという事になりますが。
科学の営みを大雑把に言いますと、『近似が殆どなされていない分野の探求』と『近似精度の向上』の二つです。
そして科学技術は『現時点で最も精度の良い近似の利用』ですね。
科学も科学技術も、『それが真理である』として近似する所が無い物は対象外です。
すなわち、『それは科学ではない』となります。
ルルドも麻原の残り湯も、『それは科学ではない』という意味では等価とちょちょんまげさんがおっしゃっている。
ルルドと麻原の残り湯の価値の高低比較などは『それは科学ではない』という科学的事実を指摘する場においては関係の無い話です。
問題は、『水伝は科学ではない』という話に対して、『ルルドは価値がある』という位相の異なる話を持ち出す事の是非でしょうか。
『水伝は宗教である』と言うならば、『ルルドは価値がある』という話を持ち出すのはまあ筋が通らなくもないですが、それこそ水伝は麻原の残り湯レベルの価値しかない低俗な物だと思いますけどね。
まあ、お互いどの位相の話をしているのかは明確にしておいた方が良いでしょうね。
私の経験・知識の上では、水伝擁護や批判批判を行う側の人の方がこの辺が曖昧で、明確にしようともしないケースが多いですね。
あるいはこの辺を明確に出来ないからこそ水伝擁護や批判批判を行ってしまうのかもしれません。
ブログの方にコメントいただいたので覗きに来ました。
ついでと言っちゃ何ですが、愚樵さんの元エントリとコメント欄を読ませて頂いたのでつらつらと思った所を述べてみます。
愚樵さんの元エントリにおいて愚樵さんの言う所の「確信の体系」とは、科学においては「実存」が対象になるという点を、愚樵さんが理解されているのかがまず疑問ですね。
「科学に対する懐疑」とは「実在に対する懐疑」、すなわち「実在など無いかもしれない」です。
これが「なんでもあり」になるのは論理的な帰結ですね。
まあ、そもそもが科学における確信とは、『科学は真理には到達できない』しか存在しないのですけども。
その点で言うと、そもそも「確信の体系」など作りようが無いのが科学ですので、愚樵さんのエントリは前提が成立してないという事になりますが。
科学の営みを大雑把に言いますと、『近似が殆どなされていない分野の探求』と『近似精度の向上』の二つです。
そして科学技術は『現時点で最も精度の良い近似の利用』ですね。
科学も科学技術も、『それが真理である』として近似する所が無い物は対象外です。
すなわち、『それは科学ではない』となります。
ルルドも麻原の残り湯も、『それは科学ではない』という意味では等価とちょちょんまげさんがおっしゃっている。
ルルドと麻原の残り湯の価値の高低比較などは『それは科学ではない』という科学的事実を指摘する場においては関係の無い話です。
問題は、『水伝は科学ではない』という話に対して、『ルルドは価値がある』という位相の異なる話を持ち出す事の是非でしょうか。
『水伝は宗教である』と言うならば、『ルルドは価値がある』という話を持ち出すのはまあ筋が通らなくもないですが、それこそ水伝は麻原の残り湯レベルの価値しかない低俗な物だと思いますけどね。
まあ、お互いどの位相の話をしているのかは明確にしておいた方が良いでしょうね。
私の経験・知識の上では、水伝擁護や批判批判を行う側の人の方がこの辺が曖昧で、明確にしようともしないケースが多いですね。
あるいはこの辺を明確に出来ないからこそ水伝擁護や批判批判を行ってしまうのかもしれません。
No title
ちょちょんまげさま、レスありがとうです。
議論の中身もさることながら、リンク先のエントリに
いらっしゃるかたがたは、例によって、言ってもいないことを
言ったことにしようとしているのが、深刻かもしれないですね。
(コメント番号1759の最初にある、「彼らの正体」って、
だれのことを言っているのかな...?)
>都筑卓司氏は、かつてブルーバックスでお世話になりました。
おお、ご存知でしたのね。
でもって、やっぱりブルーバックスですね。
>特に「坊主だけは呼んでくれるな」と(笑)
呼ぶと高くなるからね。(笑)
議論の中身もさることながら、リンク先のエントリに
いらっしゃるかたがたは、例によって、言ってもいないことを
言ったことにしようとしているのが、深刻かもしれないですね。
(コメント番号1759の最初にある、「彼らの正体」って、
だれのことを言っているのかな...?)
>都筑卓司氏は、かつてブルーバックスでお世話になりました。
おお、ご存知でしたのね。
でもって、やっぱりブルーバックスですね。
>特に「坊主だけは呼んでくれるな」と(笑)
呼ぶと高くなるからね。(笑)
Re: 効果と文化
南郷力丸さま
なるほどねえ...
簡単に言うと、信頼を与える基盤として、こう考えてよさそうですね。
1.「ルルドの泉」-「周辺文化」
2.「麻原の残り湯」-「信仰」
3.「薬用内服液」-「科学」
リンク先の人たちは、1.と2.は区別していますが、
「科学も信仰だ」と言うのですから、2.と3.は等価になるのでしょうね。
「ごん」氏は、「ルルド」と「麻原」をいっしょにされたことを、
「ばかにした」「思いやりがない」と言っているのですから、
「ルルド」より「麻原」のほうが、ずっと低級と考えているのでしょう。
そして、「麻原」と「内服液」が、等価だというのなら、
「内服液」も同様に低級ということになりそうです。
「ごん」氏と、それに同意する「愚樵」氏は、
病気にかかったとき、「内服液」を服用するかたに対しては、
思いやりがなく、ばかにしているのかもしれないですね。
なるほどねえ...
簡単に言うと、信頼を与える基盤として、こう考えてよさそうですね。
1.「ルルドの泉」-「周辺文化」
2.「麻原の残り湯」-「信仰」
3.「薬用内服液」-「科学」
リンク先の人たちは、1.と2.は区別していますが、
「科学も信仰だ」と言うのですから、2.と3.は等価になるのでしょうね。
「ごん」氏は、「ルルド」と「麻原」をいっしょにされたことを、
「ばかにした」「思いやりがない」と言っているのですから、
「ルルド」より「麻原」のほうが、ずっと低級と考えているのでしょう。
そして、「麻原」と「内服液」が、等価だというのなら、
「内服液」も同様に低級ということになりそうです。
「ごん」氏と、それに同意する「愚樵」氏は、
病気にかかったとき、「内服液」を服用するかたに対しては、
思いやりがなく、ばかにしているのかもしれないですね。
とらこさん、あらいさん、たんぽぽさん
コメントありがとうございます。
これから出張行ってきますんで、戻ったら詳しくレスさせていただきます。
すんまへん。
これから出張行ってきますんで、戻ったら詳しくレスさせていただきます。
すんまへん。
低級・高級というより、枠組みの違いかな
「麻原の残り湯」にも「周辺文化」が「ある」と言えるかも知れませんが、その「周辺文化」の受容範囲は「信仰」の範囲と一致してますよね。
仏教を信仰しない人でも鑑賞する仏像、キリスト教を信仰しない人でも鑑賞するミサ曲はあるわけで、一方で「創価のマスゲーム」とか「映画・ヘルメス 愛は風の如く」なんて、信者以外には退屈か苦痛か、せいぜいお笑いでしかないわけです。文化の存続期間によるわけじゃなくて、悪魔教の教祖のデーモン小暮閣下の布教活動は近年のものですけど、信仰しない人にも受容されてますよね。
ついでに言えば、ルルドの泉って「信仰に基づく」かちょっと疑問なところもあります。ルルドの泉は新しいんですね。井伊大老が就任し、ペリー提督が死んだ年に始まったもんだし、「マリア信仰」自体がキリスト教が習俗に妥協したようなものですし、むしろ「周辺文化」そのものと言っていいかも知れません。
なので、「科学もまた信仰である」という立場では、液そのもの信頼という点で「麻原の残り湯」と「薬用内服液」は等価だし、信頼の有無と無関係な「フィクションの受容」という点では、「ルルドの泉」や「デーモン小暮閣下」とは別ってことになりますよね。
仏教を信仰しない人でも鑑賞する仏像、キリスト教を信仰しない人でも鑑賞するミサ曲はあるわけで、一方で「創価のマスゲーム」とか「映画・ヘルメス 愛は風の如く」なんて、信者以外には退屈か苦痛か、せいぜいお笑いでしかないわけです。文化の存続期間によるわけじゃなくて、悪魔教の教祖のデーモン小暮閣下の布教活動は近年のものですけど、信仰しない人にも受容されてますよね。
ついでに言えば、ルルドの泉って「信仰に基づく」かちょっと疑問なところもあります。ルルドの泉は新しいんですね。井伊大老が就任し、ペリー提督が死んだ年に始まったもんだし、「マリア信仰」自体がキリスト教が習俗に妥協したようなものですし、むしろ「周辺文化」そのものと言っていいかも知れません。
なので、「科学もまた信仰である」という立場では、液そのもの信頼という点で「麻原の残り湯」と「薬用内服液」は等価だし、信頼の有無と無関係な「フィクションの受容」という点では、「ルルドの泉」や「デーモン小暮閣下」とは別ってことになりますよね。
あらいさん
レス遅れて申し訳ありませんでした。
>「科学に対する懐疑」とは「実在に対する懐疑」、すなわち「実在など無いかもしれない」です。
これが「なんでもあり」になるのは論理的な帰結ですね。
こういう話なのかどうかを愚樵氏ははっきり言わないんです。
私が、「「引力消失杞憂人間」の話を出したことに対して愚樵氏の反応は「そんな人はいない」ですから。
なにやら自分の都合の良いところで線引きをしているようです。
>科学の営みを大雑把に言いますと、『近似が殆どなされていない分野の探求』と『近似精度の向上』の二つです。
御意。
>問題は、『水伝は科学ではない』という話に対して、『ルルドは価値がある』という位相の異なる話を持ち出す事の是非でしょうか。
愚樵氏のコメント内容が徐々に私の人格云々に近い話に寄ってきちゃって(他コメンテーターの影響もあってか)、愚樵氏が「ルルドと麻原の残り湯は等価である」と言った私に対して「自省せい」と言った愚樵さんに対する私のむかつきの表明なんです(笑)
確かに水伝とか、科学の話はまたちょっと別になっちゃってます。
そういう意味で、我ながら「みっともないエントリ」であることは承知してますです。
>まあ、お互いどの位相の話をしているのかは明確にしておいた方が良いでしょうね。
>私の経験・知識の上では、水伝擁護や批判批判を行う側の人の方がこの辺が曖昧で、明確にしようともしないケースが多いですね。
御意。
典型が愚樵氏ですな。
したくないんでしょうね。
>「科学に対する懐疑」とは「実在に対する懐疑」、すなわち「実在など無いかもしれない」です。
これが「なんでもあり」になるのは論理的な帰結ですね。
こういう話なのかどうかを愚樵氏ははっきり言わないんです。
私が、「「引力消失杞憂人間」の話を出したことに対して愚樵氏の反応は「そんな人はいない」ですから。
なにやら自分の都合の良いところで線引きをしているようです。
>科学の営みを大雑把に言いますと、『近似が殆どなされていない分野の探求』と『近似精度の向上』の二つです。
御意。
>問題は、『水伝は科学ではない』という話に対して、『ルルドは価値がある』という位相の異なる話を持ち出す事の是非でしょうか。
愚樵氏のコメント内容が徐々に私の人格云々に近い話に寄ってきちゃって(他コメンテーターの影響もあってか)、愚樵氏が「ルルドと麻原の残り湯は等価である」と言った私に対して「自省せい」と言った愚樵さんに対する私のむかつきの表明なんです(笑)
確かに水伝とか、科学の話はまたちょっと別になっちゃってます。
そういう意味で、我ながら「みっともないエントリ」であることは承知してますです。
>まあ、お互いどの位相の話をしているのかは明確にしておいた方が良いでしょうね。
>私の経験・知識の上では、水伝擁護や批判批判を行う側の人の方がこの辺が曖昧で、明確にしようともしないケースが多いですね。
御意。
典型が愚樵氏ですな。
したくないんでしょうね。
南郷力丸さん
なるほど、
>信頼の有無と無関係な「フィクションの受容」
ここには、「フィクション」としての「面白さ」や、「需要される理由」の差はありそうですね。
ん~、「信仰の範囲外」でも「フィクション」として楽しまれるものというのは確かに存在しますね。
私も各種宗教音楽を楽しんだりするわけですし。
そして「オウムの周辺文化」を外部が楽しむのは確かに難しいでしょうね。
ただ、「尊師マーチ」も別の意味でお笑いの楽しみがありましたけど(笑)
ですが、誰がどのフィクションを楽しみ需要するかというのも、基本的には等価だと思うのですがいかがでしょう?
>信頼の有無と無関係な「フィクションの受容」
ここには、「フィクション」としての「面白さ」や、「需要される理由」の差はありそうですね。
ん~、「信仰の範囲外」でも「フィクション」として楽しまれるものというのは確かに存在しますね。
私も各種宗教音楽を楽しんだりするわけですし。
そして「オウムの周辺文化」を外部が楽しむのは確かに難しいでしょうね。
ただ、「尊師マーチ」も別の意味でお笑いの楽しみがありましたけど(笑)
ですが、誰がどのフィクションを楽しみ需要するかというのも、基本的には等価だと思うのですがいかがでしょう?
たんぽぽさん
>>特に「坊主だけは呼んでくれるな」と(笑)
>呼ぶと高くなるからね。(笑)
その通り(笑)
息子の経済的負担を減らしてやろうという、思いやりでしょうか(笑)
ぼーず呼ばないと周囲から批判されたりして私を含めた残されたもんがくろ~するかも知れないという危惧は一顧だにしていませんが(笑)
ま、それは私が引き受けましょ。
>呼ぶと高くなるからね。(笑)
その通り(笑)
息子の経済的負担を減らしてやろうという、思いやりでしょうか(笑)
ぼーず呼ばないと周囲から批判されたりして私を含めた残されたもんがくろ~するかも知れないという危惧は一顧だにしていませんが(笑)
ま、それは私が引き受けましょ。
No title
>誰がどのフィクションを楽しみ需要するかというのも、
>基本的には等価だと思うのですがいかがでしょう?
ちょちょんまげさまのおっしゃることも、わかりますよ。
リンクさきの「あちら側」の人たちは、
自分の感覚至上主義っぽいところがあると思います。
おそらく、「ルルドの泉」がありがたいという、
自分たちのカチカンは、絶対的にして、普遍的なもので、
都筑卓司氏のような考えかた(「ルルド」も、たぶん否定的と思う)は、
劣っているとか、まちがっているとか、思っているのかもしれないです。
>基本的には等価だと思うのですがいかがでしょう?
ちょちょんまげさまのおっしゃることも、わかりますよ。
リンクさきの「あちら側」の人たちは、
自分の感覚至上主義っぽいところがあると思います。
おそらく、「ルルドの泉」がありがたいという、
自分たちのカチカンは、絶対的にして、普遍的なもので、
都筑卓司氏のような考えかた(「ルルド」も、たぶん否定的と思う)は、
劣っているとか、まちがっているとか、思っているのかもしれないです。
微妙な違い
誰がどのフィクションを楽しみ受容するかは等価でも、そのフィクションは等価でしょうか。
文化というのは、その中に価値判断や規範、一種のモノサシを含んでいます。「文化相対主義」というのは、どのモノサシも等価であるということであって、モノサシがない、ということじゃありません。
つまり、クラシック音楽におけるモノサシも、ロケンロールにおけるモノサシも等価であるということであって、クラシック音楽にもロケンロールにも、それぞれの中では優劣の基準があるのです。
それらを包含する「音楽」としてのモノサシだってあります。もちろんクラシック音楽のモノサシにも包含はされるが同一ではありませんね。そこにヨソのモノサシをそこに持ち込んでくることもできます。ワーグナーはナチが使ったからヨロシクナイの類ですね。
そうしてみると「信仰」の周辺文化にも、信仰というモノサシと切り離されても文化たりえるものと、「信仰」という芸能・芸術とはヨソのモノサシでしか評価されえないものがあります。つまり、ルルドやお四国さんの巡礼文化は前者であって、尊師のマーチだの創価のマスゲームってのは後者ですよね。つまり、複数のモノサシで評価されるものは、そのうちのひとつのモノサシさえ共有していれば受容されうるし、単一の「信仰」というモノサシでしか評価されないものは「信仰」を共有しない限り受容されないわけです。モノサシ間に優劣はなくたって、「信仰」というモノサシを持たない人によって「優劣」は判断できます。
それで、モノゴトを考えるには、その「枠組み」というものがあります。
http://lapsang-souchon.tea-nifty.com/pokopon/2005/04/post_614d.html
ここで、バスの絵を例にしてますが、「絵の中の世界」「画面」「宇宙」という枠組み、それぞれで違う回答があるわけです。そして、こういう「枠組み」というのは、普通は確認する必要もなく、暗黙の前提として共有されています。
きくちさん(ゆみではない)やとらこさんが、「科学も信仰」という時には、明らかに、日常的な枠組みでは「別物」という前提があって、ある種の枠組みでは、そう言えるということですね。
それで、ちょちょまんげさんが「ルルドと麻原の残り湯は等価です」という場合、「液体の効果への信頼性が何に担保されているか」という枠組みの中でのことですよね。周辺文化を含めた「巡礼文化」のシンボルとオームのシンボルという枠組みの中ではないわけです。その枠組みでは等価になりえません。
そうすると、複数の枠組みで、その枠組みに否定的であっても、考えることが出来るならば「そうとも言える」となるわけです。
ところが、否定的な枠組みだと、その枠組みで考えたくない人だっているわけです。そういう人には通じなくて当然です。地動説を否定する人に「絵に描いたバスも動いてる」と言っても理解されません。でも、こういう方は、ご自身の中で確固たる枠組みをお持ちですから、相手の枠組みの中じゃ話も通じるし、通じない枠組みの中でのことは話さなきゃいいだけです。
それよりも困ったちゃんは、世の中には何でも相対化すればエライような錯覚を持ってるんじゃないかと思えるような人だっています。そういう人は、枠組みの違うことだって平気で相対化して「ドーダ」という気分になれるのかもしれません。そうなると、枠組みということがグダグダになってしまうんですね。
「シンボル」としての枠組みでは「ルルドと麻原の残り湯は等価じゃない」ということが共有されている中で、あえて「液体の効果への信頼性」という枠組みでは等価と言っているという構造ですね。この二重の構造を同じ次元で、ご自分だけの構造で比較しちゃったりする。
たんぽぽさんのいう「あちら側」の人には、この2種があると思います。印象だけだけど。言語化は不得意でもご自身の考えは体系化されていて、違った枠組みを否定する人と、そもそも枠組みがないというか、聞きかじりの知識はあっても、体系化してモノを考えられない人というか。
文化というのは、その中に価値判断や規範、一種のモノサシを含んでいます。「文化相対主義」というのは、どのモノサシも等価であるということであって、モノサシがない、ということじゃありません。
つまり、クラシック音楽におけるモノサシも、ロケンロールにおけるモノサシも等価であるということであって、クラシック音楽にもロケンロールにも、それぞれの中では優劣の基準があるのです。
それらを包含する「音楽」としてのモノサシだってあります。もちろんクラシック音楽のモノサシにも包含はされるが同一ではありませんね。そこにヨソのモノサシをそこに持ち込んでくることもできます。ワーグナーはナチが使ったからヨロシクナイの類ですね。
そうしてみると「信仰」の周辺文化にも、信仰というモノサシと切り離されても文化たりえるものと、「信仰」という芸能・芸術とはヨソのモノサシでしか評価されえないものがあります。つまり、ルルドやお四国さんの巡礼文化は前者であって、尊師のマーチだの創価のマスゲームってのは後者ですよね。つまり、複数のモノサシで評価されるものは、そのうちのひとつのモノサシさえ共有していれば受容されうるし、単一の「信仰」というモノサシでしか評価されないものは「信仰」を共有しない限り受容されないわけです。モノサシ間に優劣はなくたって、「信仰」というモノサシを持たない人によって「優劣」は判断できます。
それで、モノゴトを考えるには、その「枠組み」というものがあります。
http://lapsang-souchon.tea-nifty.com/pokopon/2005/04/post_614d.html
ここで、バスの絵を例にしてますが、「絵の中の世界」「画面」「宇宙」という枠組み、それぞれで違う回答があるわけです。そして、こういう「枠組み」というのは、普通は確認する必要もなく、暗黙の前提として共有されています。
きくちさん(ゆみではない)やとらこさんが、「科学も信仰」という時には、明らかに、日常的な枠組みでは「別物」という前提があって、ある種の枠組みでは、そう言えるということですね。
それで、ちょちょまんげさんが「ルルドと麻原の残り湯は等価です」という場合、「液体の効果への信頼性が何に担保されているか」という枠組みの中でのことですよね。周辺文化を含めた「巡礼文化」のシンボルとオームのシンボルという枠組みの中ではないわけです。その枠組みでは等価になりえません。
そうすると、複数の枠組みで、その枠組みに否定的であっても、考えることが出来るならば「そうとも言える」となるわけです。
ところが、否定的な枠組みだと、その枠組みで考えたくない人だっているわけです。そういう人には通じなくて当然です。地動説を否定する人に「絵に描いたバスも動いてる」と言っても理解されません。でも、こういう方は、ご自身の中で確固たる枠組みをお持ちですから、相手の枠組みの中じゃ話も通じるし、通じない枠組みの中でのことは話さなきゃいいだけです。
それよりも困ったちゃんは、世の中には何でも相対化すればエライような錯覚を持ってるんじゃないかと思えるような人だっています。そういう人は、枠組みの違うことだって平気で相対化して「ドーダ」という気分になれるのかもしれません。そうなると、枠組みということがグダグダになってしまうんですね。
「シンボル」としての枠組みでは「ルルドと麻原の残り湯は等価じゃない」ということが共有されている中で、あえて「液体の効果への信頼性」という枠組みでは等価と言っているという構造ですね。この二重の構造を同じ次元で、ご自分だけの構造で比較しちゃったりする。
たんぽぽさんのいう「あちら側」の人には、この2種があると思います。印象だけだけど。言語化は不得意でもご自身の考えは体系化されていて、違った枠組みを否定する人と、そもそも枠組みがないというか、聞きかじりの知識はあっても、体系化してモノを考えられない人というか。
南郷力丸さん
お返事が大変おくれました。
いつもながら申し訳ありません。
例のブログ(ルルドのブログ)にちょっと戻りますが、あちらでの「モノサシ」としてまず「液体の効果への信頼性」というのがありました。
これについては、ブログ主自身が
>自分の妻がどういう状態で、予後がどうかなんてことはとっくに知っている。もちろんその水が単なる湧き水だってことぐらい。
ということで「信頼性無しを表明していたわけですね。
そして、その「モノサシ」による判断に私は完全同意という前提で話を進めていたわけですね。
で、同様に「(患者さんへの)効果への信頼性」において「信頼性が無いもの」を並べ立てた訳です。(麻原の残り湯はその一つ)
さらに、もう一つあった「モノサシ」は「患者の周囲にいる人たちが行う、例えば『お守りを買ってくる』ような効果が無いとわかっていても行いたいと思うような行為」だったと思います。
その「モノサシ」の中で、誰が何を行いたく思うのかは千差万別、私は優劣が無いと考えたわけです。
ですので、あそこのコメントに対し「文化的価値のようなモノサシ」で文句をつけてくるのは言いがかりなんじゃないかなと思っているわけです。
まぁただ、私が気がつかなかったことがあったとするならば、私があのエントリを「意見、主張」として扱ったことに対する反発ですね。
いま思えば「論とかじゃないけどわかってよ」のような、どーぶつの泣き声に近いものだったのでしょう。
ですから、そのどーぶつの頭を撫ぜたり、なだめたりでなく、「論」で切り込んでいってしまったバカに対する反発なのでしょうね。
でも、MEDAMAさんのブログにも書きましたが、「お花畑表示」が見あたらなかったですから、まぁ、しょうがないかなとも思いますね。
いつもながら申し訳ありません。
例のブログ(ルルドのブログ)にちょっと戻りますが、あちらでの「モノサシ」としてまず「液体の効果への信頼性」というのがありました。
これについては、ブログ主自身が
>自分の妻がどういう状態で、予後がどうかなんてことはとっくに知っている。もちろんその水が単なる湧き水だってことぐらい。
ということで「信頼性無しを表明していたわけですね。
そして、その「モノサシ」による判断に私は完全同意という前提で話を進めていたわけですね。
で、同様に「(患者さんへの)効果への信頼性」において「信頼性が無いもの」を並べ立てた訳です。(麻原の残り湯はその一つ)
さらに、もう一つあった「モノサシ」は「患者の周囲にいる人たちが行う、例えば『お守りを買ってくる』ような効果が無いとわかっていても行いたいと思うような行為」だったと思います。
その「モノサシ」の中で、誰が何を行いたく思うのかは千差万別、私は優劣が無いと考えたわけです。
ですので、あそこのコメントに対し「文化的価値のようなモノサシ」で文句をつけてくるのは言いがかりなんじゃないかなと思っているわけです。
まぁただ、私が気がつかなかったことがあったとするならば、私があのエントリを「意見、主張」として扱ったことに対する反発ですね。
いま思えば「論とかじゃないけどわかってよ」のような、どーぶつの泣き声に近いものだったのでしょう。
ですから、そのどーぶつの頭を撫ぜたり、なだめたりでなく、「論」で切り込んでいってしまったバカに対する反発なのでしょうね。
でも、MEDAMAさんのブログにも書きましたが、「お花畑表示」が見あたらなかったですから、まぁ、しょうがないかなとも思いますね。
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信仰 あるいは左翼批判
当エントリーは手抜きでして、前エントリー『「知的フレーム」を壊せ!」にいただいたコメントとその応答を再掲載しただけのもの。でも、そ...
自己責任と相対主義
こんなのを見つけましたよ。 いまどきはやり(?)の、「自己責任」と「相対主義」の悪用批判です。 わたしは、こういうのを、ネットで見るようになったので、 ネットにありがちなことなのかと、思っていたのでした。 そうではなくて、90年代のはやりものだったみたいです...
水の伝説
「えぼり」さん、とつぜん「共感派」サイドに立って参戦。
「水の伝説、略して水伝」
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新年あけましておめでとうございます。
去年は、いっぱいお世話になりました。
ことしも、よろしくお願いいたしますね。
なんて、もう成人の日だけど。
(成人の日になったら、もうお正月じゃないよな...)
「おめでとう」なんて、型通りあいさつしたけれど、
なにやら、おめでたくない雰囲気が続いていますね。
(あちらさんは、あいかわらず、「共感派メソッド」全開って感じだ。(笑))