経済成長のけん引役は企業だけではない。ヒト・モノ・カネが集積した「都市」もまた、成長の担い手である。変わる首都・東京。シリーズ第1回は、「商業の街」からスタートアップが集結する「クリエーティブ産業の街」に変貌を遂げる渋谷を取り上げる。p>

 「渋谷を挑戦的な街にしましょう!」

 5月中旬、東京・渋谷のとあるビルで開かれたイベントで、主催者がそう開会のあいさつをすると、会場は大きな拍手に包まれた。

 「sprout(発芽)」と題されたこのイベントは「スタートアップ」と呼ばれる起業間もない会社の経営者や、有望なスタートアップに資金を出して大きなリターンを得ようとする投資家などを集めて開かれた。参加者は100人超。事業資金を得ようとする者、新たなビジネスを立ち上げるのに手を組む相手を探す者──。思惑は様々だ。

(写真=吉成 大輔)
(写真=吉成 大輔)

 本誌は今号から5回にわたって「変わる東京」シリーズを連載する。2020年の東京五輪をにらんで、都心の各地で再開発が進んでいるから、それを紹介しようというのではない。

 アベノミクスのキーワードの一つに「トリクルダウン」がある。今年の春季労使交渉でも使われた。政権がトヨタ自動車や日立製作所といった大企業に賃上げを促し、それを他の企業にも波及させ、消費を喚起することを指した。けん引役を決めて一つの流れを作り、全体に広げようというものだが、けん引役の担い手は企業ばかりではない。都市もなり得る。

 実例がある。約60年前、米西海岸のシリコンバレーは半導体メーカーが拠点を構えたことをきっかけにIT(情報技術)企業が集積、その後、米国だけでなく世界経済をけん引する都市になった。中国・深圳は今や世界のスマートフォン市場の行方を左右する。

 街が変貌を遂げ、新たな価値を生む。東京の至る所でそんな試みが始まっている。それは日本経済の活性化にもつながるはずだ。若者の街・商業の街として発展してきた渋谷は、産業構造の大転換をもたらすかもしれないベンチャー企業の集積地に生まれ変わろうとしている。

「渋谷で創業」が投資基準

 投資基準の一つに「渋谷での創業」を掲げているベンチャーキャピタルがある。5億円の投資資金を持つスカイランドベンチャーズだ。木下慶彦代表は理由をこう語る。「東京大学、慶応義塾大学、早稲田大学。いずれも渋谷から近いところにキャンパスがある。渋谷はみんな学生の頃に遊んだ街なんですよ。なじみ深い街で仕事をすれば新たな発想が生まれ、これまでになかったビジネスが立ち上がる可能性が高い」。

 風変わりな投資基準だが、それなりの理屈がある。ベンチャー企業にはIT関連企業が多いが、エリア別のIT企業数で渋谷は2位の新宿を大きく引き離してトップ。設立年で見てみると、近年になるほどその差は開く方向にある。投資対象になりそうな企業が渋谷に続々と集結しているのだ。

 「『IT企業だからどこでも仕事ができる』なんていうのは嘘。すぐに人に会って話せる場所にいなければ、企業は切磋琢磨しないし、成長もしない。同じ地区にオフィスを構えてくれれば投資先同士の紹介もできる。だから投資条件に渋谷という縛りを設けている」(木下代表)

「ビットバレー」、一度は瓦解

 もっとも渋谷にはIT企業の街になり損ねた歴史がある。

 1990年代後半のITバブル期、渋谷はその谷地形を由来として、シリコンバレーになぞらえて「ビットバレー」と呼ばれた。そこに米グーグルや米アマゾン・ドット・コムなどが拠点を置いた。

 しかし2000年代中盤に入ると、多くの企業が渋谷を抜け出し、六本木や目黒などに本社を移転した。ファーストリテイリング、グーグル、アマゾン・ジャパン、ミクシィ──。全て渋谷から他地域へ本社・本部を移した企業だ。ビットバレーは一度終わった。

2000年代に企業が渋谷を離れた●渋谷から本社・本部を移した企業と移転先
2000年代に企業が渋谷を離れた</br>●渋谷から本社・本部を移した企業と移転先
注:ファーストリテイリングはその後赤坂、ミクシィは渋谷に移転した

 原因はオフィスの延べ床面積が決定的に足りなかったからだ。成長著しいこれらの企業は年々、社員数が急増。それに伴って賃貸面積も急拡大していった。しかし当時の渋谷には増床に耐え得る大型のオフィスがほとんど存在しなかった。「今にして思えば逃した魚は大きかった」。渋谷で多くの不動産を保有する東急不動産の内田克典・統括部長はこう振り返る。

IT企業の集積は断トツで渋谷 ●東京23区対象エリア別のIT企業数と設立年
IT企業の集積は断トツで渋谷</br> ●東京23区対象エリア別のIT企業数と設立年

 風向きが変わったのは2012年に大規模再開発ビル「渋谷ヒカリエ」が開業してからだ。ディー・エヌ・エー(DeNA)などが入居したことでIT企業の再集積が加速。周辺にはこうした企業と取引のあるベンチャー企業が次々に入居した。人呼んで「ビットバレー2.0」という動きだ。

 ベンチャー企業を渋谷に呼び込むためのイベントは数多い。冒頭に紹介したsproutはそのうちの一つだ。日本IBM、ベンチャー企業の上場を支援するトーマツベンチャーサポート、空間デザイン・プロデュースを手掛けるツクルバ(渋谷区)の3社が主催した。

 こうした試みを後押ししている企業がある。「渋谷の大家」と言われる東京急行電鉄だ。今の流れを逃がすまいと、繰り出す布石は多岐にわたる。

 その一つがsproutのようなイベントに無償で場所を提供するといった活動だ。渋谷ヒカリエ8階に設けた交流スペースや渋谷に保有する他のビルの一部を提供、積極的にイベントを仕掛けている。既に「TED×Tokyo」や「Tokyo Work Design Week」など、特にクリエーティブ系の若者から支持されるイベントを誘致した。

 東急が「街ブランディング」と呼ぶこうした活動は、足元の収益には貢献しない。それでも熱心なのは将来のテナント候補を増やすことにつながるからだ。「今やオフィスビルを造って待ち構えていれば企業が入居する、マンションを造れば自動的に売れるという時代ではない。攻めの営業が必要だ」(東急電鉄幹部)。渋谷の大家はベンチャー企業に照準を定め、攻勢をかける。

「賃料で丸の内を抜きたい」

 渋谷駅周辺で東急電鉄、東日本旅客鉄道(JR東日本)、東京メトロの3社による大規模再開発が進んでいる。今後2027年までに、駅周辺だけで8棟の超高層ビルがタケノコのように現れる。

「100年に1度」の大規模再開発 ●渋谷駅周辺再開発の完成予想図
「100年に1度」の大規模再開発</br> ●渋谷駅周辺再開発の完成予想図
(写真=4点:吉成 大輔)
(写真=4点:吉成 大輔)

 渋谷駅真上に位置する駅街区には、駅周辺で最大級のオフィスと商業施設を併せ持った超高層ビル、東急東横線渋谷駅の跡地である南街区には、オフィス、ホテル、イベントホールの複合施設ができる。駅に隣接する道玄坂地区と桜丘口地区にも、再開発組合による超高層ビルが計画され、東急不動産が事業協力者として参画している。

 同時に動くこれら4つの再開発で生まれる延べ床面積は約69万平方メートル。六本木ヒルズ森タワー約2棟分に相当する規模だ。オフィスの賃貸床面積だけで約22万平方メートルに上り、ビットバレー終焉の原因となった床面積不足を補う。

 「どんな企業でもいいから入居してほしいとは思っていない」と東急電鉄の野本弘文社長は語る。「渋谷はいろんな文化が次々と誕生する若者の街。それがいつの間にか混然一体となって新しい価値を生み出す。“カオス”が最大の魅力だ。目の前で毎日のように生まれている新しいアイデアを逃さず、ビジネスに結びつける企業に入居してほしい。我々はカオスを絶やさぬよう渋谷に様々な仕掛けを置いていく」。

 東急の戦略に乗る企業も出始めている。東急不動産の内田氏は「渋谷から移転した企業に戻ってきてほしいと思って誘致をしている。具体的な企業名はまだ出せないが、手応えは十分にある。正直、再開発の床面積でも足りないくらいだ」と自信を見せる。

 オフィス仲介の三鬼商事によると渋谷区の4月のオフィス賃料は前年同月比で約9%上昇。丸の内を抱える千代田区と肩を並べるまでになった。オフィスの空室率も2012年のヒカリエ開業後、低下の一途をたどっている。渋谷の不動産市場の活況は10年後や20年後の日本経済を担う企業の予備軍がそれだけあることを示す。「ビットバレー2.0を成功させ、賃料で丸の内を抜きたい」と内田氏は意気込む。

渋谷ヒカリエ開業後に空室率が改善 ●三鬼商事による地域別のオフィス平均空室率
渋谷ヒカリエ開業後に空室率が改善 </br>●三鬼商事による地域別のオフィス平均空室率

海外大手デベがシブヤに注目

 壮大な再開発は世界の注目も集めている。「今、注目している都市はシブヤ。完成後だけでなくそのプロセスも含めて視察したい」。シンガポール大手デベロッパーや中国・上海のデベロッパーは口々にそう語る。

 理由は2つある。一つは再開発がオフィスビルや商業施設、ホテルなどの「ハコモノ」を造るばかりでなく、渋谷に乗り入れる鉄道の利便性も高めようと一体開発している点にある。

 既に2013年3月に東急東横線の地下化が完了。東京メトロ副都心線との相互乗り入れが始まった。埼玉県滑川町から神奈川県横浜市まで電車一本で移動することができる。乗り入れ開始後1年。利便性の向上で電鉄各社の乗降客数は合計で約4万人増加した。

 2018年度には、相模鉄道の相鉄線が東急東横線などとの直通運転で渋谷駅に乗り入れる予定で、渋谷を訪れる人の数はさらに増える。これに伴い2027年までに東京メトロ銀座線の駅が渋谷ヒカリエ側に130メートルほど移動、JR埼京線のホームが山手線と隣接する。人の往来をよくするため、密集地で駅やホームを移動させる前代未聞の工事が進んでいる。

 世界の有力都市で慢性化する交通渋滞は魅力を損ねる原因の一つだ。とりわけ東南アジアなどの新興国でその傾向が強い。舛添要一・東京都知事は「東京を世界に類を見ない渋滞のない都市にしたい」と指摘、首都圏の高速道路網整備に意欲を見せる。

 もっとも渋谷のような繁華街の道路渋滞は解消しそうにない。有力な解決策は鉄道などの公共交通で人が足を運ぶ街を作ることだ。世界が注目する「公共交通指向型都市開発(TOD)」と呼ばれる手法で、これだけの規模の計画は世界でも例がない。

 有力デベロッパーが注目するもう一つの理由は渋谷の回遊性だ。人が駅周辺だけにとどまるのでなく、宮益坂や道玄坂といった駅から10分ほど歩く地点にも繰り出す。「点ではなく面で発展している街」が渋谷。限られた敷地の再開発を得意としてきた海外大手デベロッパーは人が駅から四方八方に散らばり、交錯する街がターミナル駅の再開発でどう変わるかに興味を持つ。

ライバルとの競争で活性化

 「駅の再開発によって特徴である回遊性が低下するのではないか」。地元はこう懸念する。宮益町会の小林幹育会長は「再開発後に人が駅の周辺だけに集う街になったら困る」と話す。  4月上旬、東急電鉄都市開発部門の集会で、幹部からカミナリが落ちた。  渋谷駅から徒歩3分ほどにある宮下公園周辺整備の候補事業者が3月に決定。東急電鉄もプロポーザルに参加したが、選ばれたのは三井不動産だったからだ。「最近、渋谷の不動産がガンガン買われている。そこに大手の三井不動産の本格参入が決まったため、集会はピリピリしたムードだった」と参加者の一人は明かす。  もっとも三井不動産というライバルの出現は渋谷にとってはプラスに働く。渋谷が「若者の街」と呼ばれるようになったのは、西武グループによる西武百貨店(1968年)、パルコ(73年)の開業に端を発している。渋谷は東急と西武がそれぞれ人を集めようとしのぎを削ったからこそ人が回遊するようになり、それがカオスな街を形成した。  カオスな街づくりは今後も進む。その中でヒントを得た若い企業が新たなビジネスを創出、東京に新たな価値を生むだけでなく、日本経済を引っ張り、産業構造の転換をも促す。そんなシナリオを実現すべく「渋谷発トリクルダウン」は動いている。
広域生活圏「職住遊」で一歩先を行く渋谷

 東急電鉄が鉄道網の「扇の要」と位置付ける渋谷。再開発が進展するにつれ分譲マンションの価格は上昇の一途をたどっている。「ファミリータイプならまず『億ション』を覚悟した方がいい」と地元の不動産業者は言う。

 こうした中で不動産調査を専門とする東京カンテイの井出武・上席主任研究員はその渋谷駅から西に延びる東急線沿線で進む開発に注目している。「この数年で東急沿線のマンション、戸建て開発が復活してきた。渋谷駅から1駅か2駅電車に乗れば、決して安くはないが手に届かなくもないマンションや戸建て住宅に住むことができるようになっている」。

(写真=時事通信フォト/朝日航洋)
(写真=時事通信フォト/朝日航洋)

 サイバーエージェントは勤務するオフィスの最寄り駅から2駅圏内に住む正社員に対して住宅補助を出す制度を整えている。例えば渋谷本社に勤務していれば東横線なら代官山、中目黒、田園都市線なら池尻大橋、三軒茶屋周辺に住む社員には月3万円が支給される仕組みだ。渋谷ヒカリエに本社を移転したDeNAは、引っ越しを機に、渋谷区内など近隣に住む正社員に対してやはり月3万円を補助する。

東急の長年の悲願

 世界の先進都市では人が都市に住み、働く「職住近接」が一般的になっているが、渋谷は一歩先を行く。建築・街づくりの権威である内藤廣・東京大学名誉教授は「21世紀型のライフスタイルは職住に加えて、文化や消費に支えられた情報が街にあること。その意味で渋谷にはポテンシャルがある」と語る。職住に「遊」が加わるのが渋谷だという意味だ。

 東急はもともと「職住近接」を開発の原点としてきた。同社が60年前から開発を進めたニュータウン「多摩田園都市」は豊かな住宅環境とオフィスなどの都市機能を計画的に配置しようというものだった。

 しかし田園都市は結果的にベッドタウンとして発展。そこから電車に揺られて都心に通う今日のライフスタイルを定着させてしまった経緯がある。

 「職」と「遊」を備えた渋谷と「住」を備える代官山や中目黒など。広域の「渋谷生活圏」誕生は東急の長年の悲願を達成しようという計画でもある。

(日経ビジネス2015年6月1日号より転載)

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