昨年12月、東京都農業会議の松沢龍人さんから1本のメールが来た。「情報提供です」。そう題したメールには、「若者の就農と、また一味ちがいます」として、大手企業を早期退職し、農業法人を立ち上げた3人組のことが書かれてあった。
東京で若者の新規就農が増えている。松沢さんはその立役者で、この連載でも何回かその活動を取り上げた(2015年4月10日「これはもう革命と言っていいんじゃないだろうか」)。いまや東京で農業を志す人のほとんどは松沢さんを訪ねているだろう。その松沢さんにとっても、3人組は「案外珍しい」という存在だった。
70代まで健康に働けるって最高だ
今回紹介するのは、2015年12月に東京都八王子市でアーバンファーム八王子を立ち上げた続橋昌志さん、泉政之さん、水野聡さんの3人だ。3人とも1960年生まれ。ある大手企業の同期入社で、2015年3月に会社を辞め、農業の世界に飛び込んだ。
「50歳ぐらいのとき、自分の人生をふり返りました。このまま会社にいて、組織に埋もれたままでいいのかと思ったんです」。代表の続橋さんはしみじみそう話す。続橋さんは仕事がうまくいかなかったから、会社勤めに疑問を持ったわけではない。一時は部下が400人以上いるような要職にあった。
東日本大震災も影響したという。「自分だけの利益とか、利己主義というものはもういいかなあ」。震災をきっかけにそんなことも思い始めた。50歳を過ぎると、多かれ少なかれ、自分の人生をふり返るようになる。「この先どうする?」。同期と話すと、そんなことが話題になるようになった。「酒を飲んで、くだを巻きながら」。
頭にあったのは「アクティブシニアでいたい」という思いだった。趣味の世界でのんびり生きようという発想はなかった。そこで浮かんだのが農業だ。食にたずさわり、自然に触れることができて、70代まで健康に働くことができるかもしれない。「それって最高じゃねえの?」。続橋さんと泉さんはいつしか農業に照準を定めていた。
一方、水野さんは2人とはべつに、「自然のなかで暮らしたい」という思いを募らせていた。定年退職して長野にログハウスを建て、キャンプ場を経営している先輩から「田舎暮らしはいいぞ」と勧められていた。「農業がベースの人生を組み立てられないだろうか」。田舎暮らしへのあこがれが高まった。
これを聞きつけた続橋さんと泉さんが「どうやら、我々と同じっぽいぞ」「あいつなら信用できるだろう」と話し合い、水野さんに声をかけた。「おれたちとほぼ一緒じゃん。3人でやらないか」。この「ほぼ同じ」は解説が必要だろう。
田舎暮らしか東京で就農か
水野さんは「田舎暮らし」をイメージしていた。これに対し、続橋さんと泉さんは「田舎暮らし的なもの」をしようと思ってはいたが、就農場所として考えていたのは東京だった。そこに「趣味の世界でのんびり生きようとは思わなかった」というこだわりがある。
「つくった野菜を売るためのマーケットが必要だと思った」。続橋さんはそう説明する。地方ではなく、あえて東京で野菜をつくるという意外性への思いもあったが、起業する以上、ビジネスとして成り立たないと意味がない。続橋さんはそれを「打算的な安心感」という言葉で表現するが、ようは家庭菜園の延長ですませたくはないという意味だ。
収入が安定している会社勤めから「ドロップアウト」することに対し、続橋さんは家族に反対された。とくに高齢の父親からは「家族の生活はどうするんだ。定年まで勤めろ」とくり返し諭された。「最初はまったく聞く耳を持ってもらえませんでした」。就農を決意したころのことをそうふり返る。
「組織に埋もれたままでいいのか」という動機については、「サラリーマンの多くが同じ思いを抱えながら、それでも組織のなかでがんばっている」と感じる人もいるかもしれない。3人が違うのは、自分たちの決意を行動で示したことだ。まず体験農園で農業に触れた。片道2時間かけ、週末に2年間、農園に通い続ける続橋さんの姿を見て、家族は「本気だ」と思い始めたという。
最初に通った体験農園は、農薬も化学肥料も使わない有機栽培の農園で、「ほとんど虫のために野菜をつくった1年だった」。翌年通った農園は、丁寧に農作業を教えてくれた。そこで作物ができる喜びを知った。「自分たちも野菜をつくることができるんだ」。水野さんはそんな手応えを感じたという。
そして2015年3月、55歳の年に3人はそろって会社を辞めた。アマチュアが農作業を楽しむ体験農園ではなく、プロの農家のもとで本格的に研修するためだった。2つの農場でそれぞれ週に2日ずつ、さらに自分たちで借りた小さな畑で1日。週に5日、どっぷり農作業につかる日々が始まった。
この出会いがすばらしかった
ここで3人は幸運な出会いにめぐまれた。正確に言うと、会社を辞めて研修生活に入る前、就農の準備をしていたとき、3日間の短期研修に参加した。その研修先が、八王子の70代のベテラン農家、中西忠一さんだった。会社を辞めたときも、研修先として中西さんのもとで農業を学ぶことを希望した。
「この出会いがすばらしかった」。3人に共通の感慨だ。中西さんは「ここはこうやるんだ」と言いながら、一緒に作業し、懇切丁寧に栽培の仕方を教えてくれた。先回りすることになるが、3人が法人を立ち上げて独立するとき、地主や売り先を紹介してくれたのも中西さんだった。だが、この取材でしびれたのは、研修中に中西さんが3人に語ったという次の言葉だ。
「いいものをつくらないと、絶対に長続きしないよ」
これは、たんに高値で売れる野菜をつくるべきだと強調した言葉ではないだろう。農業をずっと続けるうえで必要な、モチベーションのあり方を伝えるための言葉ではないだろうか。
ところで、就農にいたるまでのエピソードを取材しながら、気になることがあった。取材場所は、3人が立ち上げたアーバンファーム八王子の作業場だ。打ち合わせ用のテーブルがあり、壁には作業着がかかってあり、隅のほうには野菜の苗を育てるプレートが置いてある。水を噴霧して野菜を洗う機械もある。本棚には雑誌の「現代農業」など、農業関係の本がびっしり並んでいる。
農業一色にみえる作業小屋だが、プリンターの上の棚をみると、農業とはあまり関係のないものが載せてあった。レコードプレーヤーだ。そのことを指摘すると、続橋さんが段ボール箱からレコードを取り出し、音楽を流し始めた。ブラームスの交響曲第一番ハ短調だ。「指揮はブルーノ・ワルターです」。
ブラームスと木村カエラと
小屋に運び込んだレコードはシングルを含めて約100枚。壁にかけたスピーカーは水野さんが提供した。「マンションに住んでたら、大きな音は出せないですから。若いころ、30年前に買って押し入れに入れといたものです」。しばらくすると、スピーカーをインターネットにつなぎ、木村カエラの「リルラリルハ」をかけた。このあたりは、いまの50代のウイングの広さだろう。
作業中はずっと音楽をかけっぱなしだという。反対側の壁にはテレビもかかっている。「自分たちの自由な城です」「もう大人の秘密基地ですよ」。会社を辞めるとき、「組織はもういいや」と思った。そこで実現を目指した開放感は、こういう形で実現していた。
話をもとに戻そう。会社を立ち上げてから1年あまりが過ぎた。肝心の農業はうまく行っているのだろうか。
「自分たちで、自嘲の意味を込めて『後手後手農業』って呼んでます」
いくら研修を積み、周到にシナリオを描いても、作物の栽培が1年目からすぐうまくいくわけではない。次回は、1年目の栽培の苦労と、将来のビジョンを伝えたい。それは超高齢化社会に突入しようとしている日本の未来像を考える手がかりにもなると思っている。
『コメをやめる勇気』
兼業農家の急減、止まらない高齢化――。再生のために減反廃止、農協改革などの農政転換が図られているが、コメを前提としていては問題解決は不可能だ。新たな農業の生きる道を、日経ビジネスオンライン『ニッポン農業生き残りのヒント』著者が正面から問う。
日本経済新聞出版社刊 2015年1月16日発売
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