目で見ているものが「実際」とは違って見えてしまうことを指す「錯視」。この錯視を含め、見たり聞いたり考えたりしているときの脳の活動を測定して、「時間の知覚」「多感覚統合」「脳の性差」など、人間の内なる活動のメカニズムを探る四本裕子先生の研究室に行ってみた!(文=川端裕人、写真=内海裕之)
日本錯視コンテストの入賞者に、毎年、東大に所属する人が複数いることに気づいて、東京大学大学院総合文化研究科の四本裕子准教授の研究室にたどりついた。
そこから、「時間の知覚」や「多感覚統合」といったスリリングなお話を伺ってきた。
最後にとりあげるテーマはもっと日常的な文脈に引きつけやすい「脳の性差」、つまり、「男の脳」「女の脳」の話だ。
神話を剥ぐ
まず、お断りしておくと、お酒の席で「だから男は●●で、だから女は◆◆だ」というふうに盛り上がる話にはなりそうにない。むしろ、これまでこうだと言われてきた神話を剥ぎ取るような話になる。
四本さんは東大の教養学部がある駒場キャンパスの准教授なので、大学に入ってほやほやの1年生の講義を受け持つことがある。その時のエピソードをもって、まず想像してほしい。
「駒場の1年生の心理学の講義で、最初にやるんですよ。血液型性格判断がいかに正しくないか、科学的じゃないか。でも、結構な数の子があれでショックを受けちゃうんですよね。今まで信じてましたって。でも、サイエンスとしての心理学の講義をとる以上、そこのところはちゃんとしてほしいです。血液型性格判断は、もう100パーセント非科学的なんですけど、ただ、血液型性格判断を信じてしまう人の心理っていうのは、おもしろい研究対象ではありますね」
血液型性格判断については、もう信奉する人が度を越していて、ぼくもうんざりなので、四本さんのこの姿勢には大いに共感する。それが「正しくない」「科学的じゃない」理由については、本稿のカバーする範囲ではないと思うので触れないが、学問的にまったく支持されていないという事実はゆるぎなく、これまで信じてきた人は、そんな変な枠組みに自分自身や他人を鋳込むのはやめておいた方がいい。
さて、脳にかかわる世間の関心は強く、さまざまなことが語られる。科学的な根拠がなかったり、あったとしても曲解、拡大解釈して、結果、誤った理解を広めてしまうことが絶えない。たとえば、2009年、OECD(経済協力開発機構)が公表して、有名になった「神経神話」“Neuromyths”には、「人間の脳は全体の10%しか使っていない」「右脳人間・左脳人間が存在する」「脳に重要なすべては3歳までに決定される」「男性の脳と女性の脳は違う」などが挙げられている。
脳の性差は、まさにこの「神経神話」の代表的なもののようだ。四本さんは、そこにどう切り込むのか。
「間違った心理学で、男性がこう、女性がこうとか、世の中ではよく言われていますね。例えば、男女の脳の違いとして、男性の方が左右の脳の連携がよくないとか。これには、元になった論文がありまして、1982年に『サイエンス』誌で発表されています(※)。男女それぞれ、脳梁の太さを測ったら、女性のほうが太かったと。でも、この論文のデータは男性9人、女性5人からしかとってないんです。それだけで、女性のほうが左右の脳の連絡がよくできてるっていう結果にしている。そもそも信頼性がないし、その後、いろいろな研究者が再現しようとしたんだけど、結局できてません。今さすがにこれを信じている脳科学者はあんまりいないんですよ」
現在の知見では、少なくとも形態上、男女の脳に違いはない、ということになっているそうだ。しかし、「男女の脳」「脳梁」といったキーワードで検索すると、驚くほどたくさんの結果がヒットして、「脳梁が太いから女性はおしゃべりで、感情的」みたいなことが平気で書いてある。
どんな差?
では、「脳の性差」を研究する四本さんは、「性差がない」と見越した上で研究を進めているのだろうか。もちろん、「ない」ことを証明するのは難しいし、科学的な議論としては、検出できる違いがあるか、あるならどの程度か、ということになるのだろうが、それでも、見通しがどの方向なのかというのは知りたい。
「私、別に男女の脳に差がないとは全然思ってなくて、絶対あると思ってるんです。でも、じゃあ、それがどんな差なんだろうっていうときに、気をつけてもらいたいことがあります。たとえば、これを見てください。メンタルローテーション課題というんですけど、立体図形を頭の中でクリクリッと回して、一致するものを探す課題ですね。これって、世の中にある諸々の課題の中で一番、男女差が出しやすいっていわれてます」
これはぼくも聞いたことがある。「女性は地図が読めない」という理由付けに使われていた。それ自体、神話の香りがする説だが、そこはスルーして、四本さんの説明をさらに聞く。
http://science.sciencemag.org/content/216/4553/1431
「じゃあ、この課題での男女差ってどのくらいだろうっていうときに、横軸に点数をとって、縦軸にその点数をとった人の人数をプロットしたヒストグラムを作ります。右にいくほど成績がいい人で、左にいくほど成績が悪い人で、平均あたりに一番人数が多いという形になった時、男性と女性のプロットを比べると、女性はちょっとだけ全体的に左にずれている。これは統計的にはめちゃめちゃ有意なんです。確実に男女差がある。でも、有意だというのと、大きな差があるかというのは別で、男女のヒストグラムがこれだけ重なって、男女の平均の差よりも、個人差の方が大きいよねってくらいのものですよね。一番、はっきり差がでるものでもこれくらいですから」
「有意」であっても
すごく大事なのは、集団Aと集団Bの間に差があると分かった時、それが統計的に「有意」であったとしても、それだけで、集団Aの構成員はこうで、集団Bの構成員はこうだ、とは決めつけられないことだ。集団間にある分布の違いを明らかにすることと、構成員の個々の特性を明らかにすることは全く違うことなのに、しばしば混同される。
さて、それでは、四本さんが、以上のような前提に立って、また、手持ちの武器である高性能なfMRI装置を使って分かってきたことは?
「先にも言いましたが、最近の男女差研究って、スキャンして見たら、この部分が男女で形態的に違うみたいなことはもうないんです。では、何が違うのかというと、脳内部でのつながりの強さなんです。私たちの研究では、脳の中の場所を84カ所に取り分けて、そのつながりの強さの違いを、84×84の組み合わせで考えてます」
これは四本さんが自家薬籠中の物とするfMRIの面目躍如たる研究だ。脳の形態も血流もすべて考慮して、84×84の組み合わせ(正確には2で割って3500くらいの組み合わせ)を総当り的に見ている。様々な部位が、別の部位とどれくらい強くつながっているかを丹念に確かめ、その結合の強さで色分けすると、ちょっと訳のわからない模様が浮き上がってくる。
1割は間違う
「84×84の組み合わせの表を男女別に作って、女性と男性の差を計算してあるんです。84カ所、それぞれ脳の場所の名前がついています。それで、皆さん、関心があるのは、こういった組み合わせで何が言えるだろうってことだと思うんですけど、それはわからないです。ただ、こういったもののパターン認識は、最近の機械学習が得意なので、パターンの違いを学習したAIに分類させると、約92%の精度で男女を見分けることができる、くらいのことは言えるんです。でも、これって、たぶん男女じゃなくても、これくらいの差は出るんですよね。例えば、20代の人と30代の人、というふうに比べてもやっぱり差はでると思います」
違いはある。見分けることも9割以上できる(1割は間違う)。
男女という分け方だけでなく、年齢差やほかの分け方でも、ネットワークの結合パターンの違いは見えてくる。
今わかっているのは、それくらいだ。
ここから新たな神話を引き出すというような話ではないらしい。
やがて、男女の認知とか行動とかの違いとの関係が分かる日が来るかもしれないが、それも、おそらくは「ローテーション課題」の場合と同じで、集団としての分布の違いは言えても、個人の差をはっきりと語るものにはならないだろう。
それでも! 相変わらず、神経神話は量産され続けている。四本さんは、同じくfMRIを使って、男女の脳のネットワークに統計的な差を見つけたとする論文が、その後、どのように伝わっていったか追跡した論文(ややこしい!)を見せてくれた。
「これ、2014年の『プロスワン』誌に科学コミュニケーションの研究者たちが書いたものです。まず、注目した論文というのが『PNAS(米国科学アカデミー紀要)』に出たfMRIを使った脳研究で、脳の中のネットワークが、女性は半球“間”のつながりがやや強くて、男性は半球“内”のつながりが強い傾向があるというものでした。その後、論文からプレスリリースになり、ニュースにとりあげられてブログの記事になり、ニュースのコメント欄、ヤフコメみたいなところにいくにつれて、本来は『結合パターンに統計的な差が見つかった』って話なのに、『女性はマルチタスクにすぐれていて、男性は難しい課題に集中することができる。だから女性は家にいて家事をやるのが得意で、男性は外で仕事をするのがいいということがわかり、報告された』になってしまうと。いかに細心の技術と知識を使って、2群の差をあらわそうとして、単純化できないような差を見つけたとしても、そんなのは社会に必要とされていないんだなあと思い知らされます」
そして地味になる
四本さんは、「自分にとっての赤が、他人にとって赤だと証明するためにはどうすればいいか」と考えるような子どもだった。たぶん、現時点でも、その回答はない。今後のことはわからないけれど、目下のところ、サイエンスが適切な回答を与えることができない、哲学上の問いになっている。
けれど、目の前にある面白いことに夢中になるうちに、ここまでやってきた。視覚の研究から始まり、我々が時間をどう知覚するかという難問に真正面から取り組み(時に、退屈な会議を短く感じる方法に思いを馳せ)、いくつもの知覚をまとめあげる多知覚統合の仕組みを解明しようとする。
科学的であろうとすると、大風呂敷を広げるの自制して、地味になる。にもかかわらず、こと脳神経については、自分の研究がすぐに「神話」に組み込まれてしまう可能性と常に隣り合わせだ。では、どう伝えればいい?
四本さん自身もジレンマを抱えているわけだが、何時間もお話をうかがって、今、この原稿を書いているぼくにしてみても、やはり大いなるプレッシャーを感じざるを得ない。
さて、ここまで読んでくださったみなさん。
この連載は、地味だけど充分に知的好奇心を刺激しましたか? それとも、「はっきりした結論を出さない」がゆえに、もどかしく不親切なものだったでしょうか。
前者なら、いいなあと、心から願う。
おわり
(このコラムは、ナショナル ジオグラフィック日本版公式サイトに掲載した記事を再掲載したものです)
1976年、宮崎県生まれ。東京大学 大学院総合文化研究科 准教授。Ph.D.(Psychology)。1998年、東京大学卒業。2001年から米国マサチューセッツ州ブランダイス大学大学院に留学し、2005年、Ph.D.を取得。ボストン大学およびハーバード大学医学部付属マサチューセッツ総合病院リサーチフェロー、慶應義塾大学特任准教授を経て2012年より現職。専門は認知神経科学、知覚心理学。
1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、少年たちの川をめぐる物語『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、天気を「よむ」不思議な能力をもつ一族をめぐる壮大な“気象科学エンタメ”小説『雲の王』(集英社文庫)『天空の約束』、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』『風のダンデライオン 銀河のワールドカップ ガールズ』(ともに集英社文庫)など。近著は、知っているようで知らない声優たちの世界に光をあてたリアルな青春お仕事小説『声のお仕事』(文藝春秋)と、ロケット発射場のある島で一年を過ごす小学校6年生の少年が、島の豊かな自然を体験しつつ、夏休みのロケット競技会に参加する模様を描いた成長物語『青い海の宇宙港 春夏篇』『青い海の宇宙港 秋冬篇』(早川書房)。
本連載からは、「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめたノンフィクション『8時間睡眠のウソ。 ――日本人の眠り、8つの新常識』(日経BP)、「昆虫学」「ロボット」「宇宙開発」などの研究室訪問を加筆修正した『「研究室」に行ってみた。』(ちくまプリマー新書)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)がスピンアウトしている。
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