世間はお盆を迎え、それぞれが縁のある故人を偲んだが、筆者はゆっくりと任天堂4代目社長の岩田聡さんのことを思い出した。縁があった、と言うのはおこがましいが、2006年秋以降、取材を通じて随分とお世話になっただけに、偲ばずにはいられない。
岩田さんが急逝してからもう1カ月が経つ。週明け、7月13日の午前9時前、任天堂広報から「メールをご確認ください」という電話がかかってきた。慌てて確認すると、信じがたい内容のメールが届いていた。
「当社をご担当頂いている記者の皆様 当社代表取締役社長岩田聡が7月11日土曜日午前4時47分、胆管腫瘍のため京都大学附属病院において永眠いたしました」
直後、脳裏をよぎったのは、今年3月に任天堂の京都本社でお会いした、岩田さんの意気軒昂とした姿だった。
その前日にディー・エヌ・エー(DeNA)との業務・資本提携を東京のホテルで発表した岩田さんは、「してやったり」といった調子でいつもの応接会議室に現れ、こう言った。
「昨日、1時間30分、プレゼンテーションと質疑応答を通じていろいろなお話をさせていただいたんですが、井上さんとお話しすれば、もう少し掘り下げた話ができるかもしれないなと思いましてね」
正統な後継者としての務めをまっとう
確かに痩せてはいた。「お体の具合いはいかがですか」。最後にそう聞こうと思っていた。が、したり顔で「時が来た」と話し始め、普段は謙虚な岩田さんにしては珍しく強気な発言がいくつも飛び出るのを聞いているうちに、そんな思いは吹き飛んでいた。
それほど、岩田さんはお元気そうだったし、活力がみなぎっていた。だからこそ突然の訃報は余計に信じられなかった。まさか、あれが最後のインタビューになるとは。大きな喪失感が筆者を襲った。
しかし呆然とはしていられない。訃報が流れたその日に、「任天堂・故岩田社長の魂は消えず」と題した日経ビジネス2015年7月20日号向けの原稿を書き、入稿した。ただ、わずか1ページの記事に岩田さんの功績を書ききることなど到底、できない。
岩田さんが遺した功績とは何だったのか。
2006年秋から今年3月まで、取材を通じて岩田さんの謦咳に触れる機会に多く恵まれた筆者は、「ニンテンドーDS」や「Wii」のヒットとか、財務的な記録とか、そういった表層的なことではない何かを、改めて見つめてみようと考えた。
まずは過去の取材メモをすべて読み返した。そこで感じたのは、岩田さんは革新的な経営者である前に、任天堂の正統な後継者としての務めをまっとうしていた、ということだった。革新的な商品を世に放ったが、それまでの企業風土や文化を大きく変えたわけではない。
DSやWiiを立て続けにヒットさせ、任天堂を長く暗いトンネルから抜け出させた後のこと。2006年秋の取材で印象的だったのは、創業家で3代目社長を務めた山内溥氏(取材当時は存命中、2013年に逝去)の名が随所に出てきたことだった。
ゲーム機やソフトがコアなファンに向けた重厚長大路線に突き進んだ結果、一般人の「ゲーム離れ」が起きてしまった。これに危機感を感じたことが、DSやWiiを開発するきっかけとなった。ゲーム機から離れてしまった人々にもう一度振り返ってもらうにはどうしたら良いかを考え抜いた末、シンプルで直感的で身近なゲーム機とソフトが生まれた。
岩田さんはこの一連の取り組みを「ゲーム人口拡大」戦略と名付け、それが2002年に山内氏から経営を継いだ新生任天堂を象徴するキーワードとなったのだが、その気付きは山内氏にあったと話していた。
「ビデオゲーム産業が健全な状態ではないというのを圧倒的に早く言い出したのは、たぶん山内だと思います。それは現場から離れて俯瞰していたのかもしれないし、特別な能力があったからかもしれないけれども、私たちよりも相当早く、このままじゃアカンと言うわけです」
「サイエンスが加わった」岩田体制
DSやWiiという独創的な商品が生まれたのも、山内氏の教えを忠実に守った結果だと強調していた。
「生活必需品と娯楽品の違いっていうのは、山内から一番私たちがたたき込まれている部分で、区別しろっていうことなんですよ。それは、ものすごくそうだと私も思うのね。だって(ゲーム機なんて)なくてもいいんですもん。例えば、毎日髪の毛を洗うのにどうしてもシャンプーが必要ですよね。シャンプーに求めるものは何ですかって徹底して聞いて、作っていく。でも、ゲーム機はそういうものではないんですよ」
では、生活に必需でないものを買ってもらうにはどうしたら良いのか。教えはこう続いた。
「山内が私たちに事あるごとに、『よそと違うことをやれ』と、『よそと違うから価値があるんや』ということを言い続けていて。それは私たちに限らず、ベテランの社員たちにも染みついているんです」
「DSに関しては、実は山内はすごい大きな貢献をしていて、画面を2枚にしろと言ったんですよ。どうしても2枚にしろって。これには最初困りました。だけど、これくらい今までと明らかに違うものを作らないとダメだ、ということなんですよ」
むろん、独創的な商品を作れと言われて簡単にできるわけはない。
ヒントがあったとはいえ、DSやWiiを商品化し、ヒットに導いたのは岩田さん、そしてソフト部門のトップである専務の宮本茂氏、ハード部門のトップである竹田玄洋氏ら新経営陣の功績にほかならない。
岩田さんが任天堂に新風を吹き込んだのも事実だ。その経営スタイルは、山内氏とは異なっていた。岩田さん、宮本氏、竹田氏の3人が揃った、今思えば贅沢なインタビューで、「任天堂は何も変わっていないのか、何かが変わったから成功したのか」と聞いたことがある。
岩田さんは、「先に2人に聞いてから私が(笑)」と譲り、竹田氏がこう答えた。「芯は変わっていないと思いますよ。ただ、寛大なものの言い方をすると、岩田になって少しサイエンスが加わったんだと僕は見ています」。これに宮本氏が続けた。
「山内は天性の勘とか、経験則とかで予言をする人なんです。けれども、岩田は逆に経験則から否定されている部分でも、科学的に見たらまだ使える要素があるんじゃないかと、1つずつ仮説を立てて裏付けを取ろうとする。裏付けが取れたら、今度は戦略に折り込んでいくみたいなところは、ものすごく科学的なわけですね。勘から確信として動けるようになって、他の人たちも説得しやすくなるんです」
「それから、私は外様です」
要するに、岩田さんは起きていることの理由や仮説の裏付けを取るために、言いたいことの委曲を尽くすために、データを多用した。社内のみならず、例えば決算説明会など対外的な場所でもそうだった。
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