フランスの大統領選挙は大方の予想どおり、エマニュエル・マクロン氏が大勝した。
日本では「反EU vs 親EU」「反移民・難民 vs 親移民・難民」という話題ばかりが取り上げられていたけど、現地フランスではもうひとつ話題になっていた“問題”がある。
「週35時間労働制」。これを維持するか、撤廃するか(週39時間制に戻す)、だ。
ちなみにルペン氏は維持派、マクロン氏は撤廃派で「週35時間労働制の若年層での廃止と柔軟化」を政策に掲げていた。
え? 週35時間労働制?? 残業じゃなく、純粋な労働時間?
はい。そのとおりです。1週間の労働時間を35時間とし、それ以上働かせた場合、企業は25~50%時給を上乗せする必要がある(※労使交渉で割増率を10%にすることは可能。1998年から「週35時間労働制」は段階的に進められ、2000年からは従業員21人以上の規模の事業所を対象に、2002年には20人以下の事業所も加え法制化した)
1990年代に左派政権によって「週35時間労働制」は導入され、その主たる目的は、雇用の維持と失業者対策だった。しかしながら、1人当たりの労働時間を削減して雇用を増やす「ワークシェアリング」という言葉を使わなかったのは、フランス人ならではの「生き方」へのこだわりがある。
週35時間労働で、生活の質は改善したが…
「労働者である以前に人間である」──。
という歴史的・哲学的思想の下、失われつつある社会性や連帯の再構築、“自由”という人間性の回復のためにも、労働時間の削減は必要と判断されたのだ。
政府の目論見通り、2000年~2002年にフランス全土で実施された大規模調査では、5割が「職場の人員が増えた」とし、6割超が「生活の質が向上した」と回答(失業率の改善には好景気が影響した、という意見も多い)。
また、残業時間は有給にすることも可能なので、2週間に1回は3連休になる人も増え、「会議なし、アポなし金曜日」というフレーズも生まれた。とりわけ12歳以下の子を持つ親には35時間労働は好評で、半数以上が「子どもと過ごす時間が増えた」とするなど、生活に余裕ができたことが確認されている。
ところが、である。いかなる施策も、“使い方”次第なのは万国共通。
「労働者の健康と生活」を重視するフランスでも、人間性を無視し「競争力」や「コスト」などの言葉で労働者を語る経営者が存在し、仕事量は従来どおりで労働時間だけを短縮、賃金を抑制したのである。
これによって、労働環境は一変する。
先の調査でも4割が「業務の負担が増えた」とし、そのうちの6割超の労働者が、「ストレスが増加した」と回答。職場の人間関係の悪化、上司からの攻撃や暴力……etc etc、いわゆる「モラハラ」が増えてしまった。
「モラハラ」とは、モラル・ハラスメント。日本でいうところのパワハラである。
そこで今回は、「モラハラを生む職場」についてアレコレ考えてみようと思う。
一流企業の社員が相次ぎ自ら命を絶った
ますは今から8年前に起きた、“事件”から紹介する。
2009年10月。フランス最大手の電話会社「フランス・テレコム」(社員約10万人)で、わずか1年8カ月の間に24人もの社員が「自殺」するという、衝撃的なニュースが飛び込んできたことがあった。
このショッキングな“事件”は、私もこのコラムで取り上げていたので、以下、当時の文章の一部を抜粋し再掲する。
51歳の男性社員は高速道路の陸橋から「仕事の重圧」を理由とする遺書を残して投身自殺。49歳の男性社員は降格を告げられた会議で、腹に刃物を刺して自殺を図るなど、自殺者の大半が職場で自殺し、労働環境の急変を嘆く遺書を残す人もいた。
23人目の自殺者となった社員は自殺直前に父親に、「今夜オフィスで命を断つつもり。もちろん上司には言ってない」とのメールを送り、自殺理由について「部署の再編成が許せない。新たな上司のもとで働くくらいなら死んだほうがマシ」と記したという(9月19日付 AFP)。
当時、私はこの事件の原因を「経営状況の悪化による、急激なリストラにある」としていたのだが、その後行われたさまざまな調査結果から、フランスでは「モラハラ」の代表事例のひとつとして扱われている。
しかも、自殺者も24人ではなく34人。未遂者も13人以上いるとされ、中には50人とする報告もある。
実はテレコムの事件が起こる2年前の2007年。自動車メーカー「ルノー」で、4カ月間に3人が自殺したことがあった。
フランスの自殺者は日本ほど多くないものの、人口10万人に占める自殺者の割合は、G8(主要8カ国)中、ロシア、日本に次ぐ3位。1990年に入ってからは、それまで「ゼロ」とされていた「仕事を理由」に自殺する人が出てきたとされている。
「職場に変化が起きている」と多くの人が肌で感じていただけに、ルノーの連続自殺事件の注目度は高く、カルロス・ゴーン氏が、ルノー本体のCEOに復帰した時期と重なることから、「ゴーンは、日本の『過労自殺』という経営手法までフランスに持ち帰ったのか」と揶揄された。
実際ゴーン氏の要求は高く、自殺者が残したメモには「会社が求める仕事のペースに耐えられない」と書かれ、夫を失った妻は「毎晩、書類を自宅に持ち帰り、夜中も仕事をしていた」とサービス残業が常態化していたと告白するなど、ゴーン氏の経営手法は問題視された。
また、08年にはフランスの銀行で働く12人の従業員が自殺。その翌年に起きたのがテレコム事件だったことから、度重なる連続自殺の背景には「組織的モラハラ」があるという認識が広まり、“モラハラ“という言葉が連日メディアで取り上げられるようになったのである。
フランスで「モラハラ」という言葉が一般化したのは、1990年代後半。
精神科医のマリー・F・イルゴイエンヌの著書、『Le Harcelement Moral: La violence perverse au quotidien(邦題『モラルハラスメント・人を傷つけずにはいられない』)』が大ベストセラーになったことがきっかけである。
批判は個人ではなく、会社という組織に向けられた
それまで多くの人たちが、「職場のいじめや暴力」を経験したり、目撃していたが、その“問題”を“問題にする”ための言葉がなかった。
そこへ、イリゴイエンヌ氏はもともと夫婦間の精神的暴力を示す言葉だった「モラハラ」を、職場で日常的に行われているイジメに引用したことで火がついた。
「私もモラハラされた!」「うちの職場でもモラハラがある!」と大論争になり、それまで「隠されていた問題」が表面化したのだ。
さらに、イリゴイエンヌ氏が著書の中で、いくつもの実際におきた事例を被害者目線でとりあげ、「企業経営がモラハラを助長している」との見解を示したことで、批判は「個人」ではなく「組織」に向けられることになる。
その結果、1999年には国会で法案が提案され、2002年1月17日職場でのモラルハラスメントに言及した「社会近代化法」(労働法)を制定。
労働法では、
「従業員は、権利と尊厳を侵害する可能性のある、身体的・精神的健康を悪化させるような労働条件の悪化をまねくあるいは悪化をさせることを目的とする繰り返しの行為に苦しむべきではない」
とし、
「雇用者には予防義務があり、従業員の身体的・精神的健康を守り、安全を保障するために必要な対策をとらなければならず、また、モラルハラスメント予防について必要な対策を講じなければならない」
と、企業に予防・禁止措置を課したのである。
また、企業は従業員の健康と安全を保障する義務があることが大前提で、たとえハラスメント予防の対策を導入していたとしても、モラハラを起こす社員が出た場合、その社員だけでなく雇用者にもその責任がある、としている。
モラハラ自体は個人間で行われるものだが、そういった言動を引き起こす責任は企業にある。「企業経営がモラハラを助長している」というイリゴイエンヌ氏の訴えが、法律で明文化されたのである。
フランスって……、すごい。「労働者は、その労働力を雇用者のために提供するが、その人格を与えるのではない」という哲学を徹底して貫いている。
日本に最も欠けている視点
「組織的モラハラ」という考え方は、日本に今もっともと欠けている視点であり、フランスに学ぶべき視点だ。
そもそも人は環境で変わるし、環境が働き方を作る。 そして、長時間労働だけが人を追いつめるわけじゃない。
現にフランスでは「たった週35時間労働」で追いつめられる人たちが、続出した。彼らはその「死」を「過労自殺」と呼び、社会問題化している。
昨年の5月に過労死防止学会が行った国際シンポジウムには、フランスの研究者も参加。フランスの過労自殺問題を報告した国立社会科学高等研究学院のS・ルシュバリエ教授は、「過労自殺は労働時間の長さではなく、密度の濃さに問題がある」と指摘。
その上で、以下のように述べた。
「週35時間労働は確かに生活の質を向上させ、ワークライフバランスを実現させた。ただ、問題はそう単純ではなかった。
従来の仕事量を変えず、労働時間だけ週39時間から35時間にしたことで、大きな問題が2つ起きてしまった。
ひとつ目は『すべての時間を生産的に過ごさなくてはならない』という考えが、労働者に広まってしまったこと。2つ目は経営側が、労働者に強いストレスをかけ労働者を管理し、仕事を増やして効率をあげさせようとしたことだ」と。
つまり、
- 労働時間 週35時間(年1600時間)
- 休息 次の勤務までに連続11時間のインターバルを保障
- 休暇 週1日(原則日曜日)、年間30週日(5週)の有給休暇(バカンス法)
と週単位、月単位、年単位で、「身体を休める」制度が整っていても、人はストレスに追いつめられる。
人をコストと考え、効率だけを重視する企業経営は、過度なプレッシャーとストレスを従業員に与え、それらのストレスに堪えられなくなったとき、人は「死」という悲しい選択をするのだ。
これまでにも何度も「過労死」と「過労自殺」は別物であると書いた。
過労死とはいわば、突然死のこと。長時間労働などの過重労働で引き起される脳血管疾患、若しくは心臓疾患を原因とする死。
一方、過労自殺は、業務における強い心理的負荷を原因とする自殺による死で、重い責任、過重なノルマ、達成困難な目標設定などによるストレスによる比重が大きい。
過労死は週50時間勤務でリスクが増大し、過労自殺は組織的モラハラ(パワハラ)が引き金となる。
日本では「パワハラ」という言葉が一般化しているにも関わらず、それを規制する法律はない。政府お得意の「労働相談」という制度があるだけ。しかも、 そこでの相談内容は「いじめ・嫌がらせ」が6万6566件で4年連続トップだ。(ソースはこちら)。
「過労死は必然」なんて思ってはダメだ
先週、厚生労働省が発表した「職場のパワーハラスメントに関する実態調査」でも、2016年までの3年間に、「パワハラを受けた」と回答した従業員は32.5%と、前回(2012年)に比べ、7.2ポイント増加している。
「労働者である以前に人間である」。
この当たり前のことを、私たちは置き去りにしていないだろうか。
「やっぱり過労死とか過労自殺って、資本主義の必然なんじゃないの」という、社会全体に漂う諦めが、組織的モラハラによる被害者を生み出していないだろうか。
フランスでは経営者を養成する機関で、「いかなる状況でも『働く人の尊厳』を傷つけ、『屈辱的で劣悪な労働条件』をつくるモラハラを絶対に許すべきでない」という教育が行われ、学校でも子どもたちに教える取り組みが進められていると聞く。
長時間労働だって減らすことができないのに、モラハラまで手を付けるのはムリでしょ?
いや、同時にやればいいことだ。
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