8月6日の広島平和記念式典にルース駐日大使が米国の代表として初めて出席したことが話題になった。広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツ氏(故人)の息子さんはテレビ・インタビューで、広島の式典への米国代表の参加について、「参加すべきではなかったと思う」と不快感を示したという。
もっとも原爆投下についてルース大使が謝罪を述べたわけではない。これに対して、日本の被爆者やその遺族・家族らは強い不満を感じているようだ。一方、米国では「参加したこと自体が『無言の謝罪』になるので許せない」という批判が起こっている。ポール機長の息子さんは、同じテレビのインタビューで「原爆投下が戦争終結を早め、多数の人々の命を救ったとして、『当然、正しいことをした』と話したという。
「原爆投下がなければ、降伏しない日本は本土決戦となり、日米ともに原爆による死者数をはるかに上回る数の死者が出たはずだ。それを避けるために原爆投下はやむを得なかった」
こういう意見は米国ではむしろ今に至るまで支配的だ。(ちなみに広島の原爆死者数は1945年時点で9万~14万人、累計で約22万人、長崎は累計で約15万人だという)
サンデル教授の「正義」を当てはめてみると…
この議論に改めて接して、私の脳裏に浮上した1冊の本がある。最近NHKで講義が放映されて日本でも大評判となった米ハーバード大学マイケル・サンデル教授の「正義(JUSTICE What's the right thing to do?)」だ。倫理・哲学分野としては異例の超ベストセラーになった。
お読みになった方もいるだろうが、「暴走する路面電車」の例が「正しいこととは何か」を考えるケーススタディーとして第1章に登場する。あなたは路面電車の運転手だが、ブレーキが壊れて電車は暴走している。正面方向には線路で工事をしている人が5人いて、電車の暴走に気がついていない。このままなら5人が轢かれて死ぬ。ところが右に線路の待避線があり、そちらでも線路で人が働いているが1人だけだ。
さてあなたはどうする? 何もせずにまっすぐ暴走して5人を死なせるか、あるいは右の待避線にハンドルを切って1人の死を選ぶか?
私も大学の学生諸君に実際に問うてみたが、大多数の学生は右にハンドルを切って1人死なすを選択する。やむを得ざる場合は最小限の不幸で済ませるのが正しいという選択だ。
そこで、サンデル先生は、ケース2を提示する。
あなたは、その路面電車の線路を見下ろす橋の上に立っており、傍らにはとても太った男が立っている。あなたが彼を橋から突き落とせば、彼の巨体が電車の行く手を阻んで線路上の5人を救えるとする。しかし彼は死ぬ(あなたが飛び降りたのでは小柄過ぎて電車は止められない)。
あなたは何もしないで5人の死を見るべきか、あるいは彼を突き落として、1人の死を選ぶべきか。この場合、既存の法律などは関係ないとして、正しい選択はどちらか。5人の死か、1人の死かという選択はケース1と変わらない。しかし、ケース1と違って1人の死を選択すべきだという人は一転、極めて少数となる。
「最初の事例では正しいと見えた原理(5人を救うために1人を犠牲にする)が、2つめの事例では間違っているように見えるのはなぜだろうか?」とサンデル先生は問う。
あれが日本だったら、どのような選択をしたか?
要するに私たちの社会には「できるだけ多くの命を救うべし」という原則と、「どのような状況であっても無実の人を殺すのは間違いだ」という異なった原則があり、いずれも捨てられない。ところが2つの原則が対立し、私たちが道徳的に板挟みになることがあるという厄介な事実が、提示されているわけだ。
5人を救うために1人の犠牲を正当化する思想は、「最大多数の最大幸福」を原理とする功利主義の系譜であり、それが原理主義的に極端になると個人の自由も人権も結果的に否定される。サンデル先生はそこまで書いていないが、共産主義への「歴史の進歩」のために労働者階級による独裁を唱えた20世紀の共産主義は、ある意味で功利主義の思想的伝統を継承したと言えよう。
その対極が、個人の自由を至上とする米国のリバタリアニズムであろうか。米国のリバタリアニズムは特異な思潮傾向で、保守派に属しながらも、その個人主義的な自由原則の徹底の故に一切の対外的な軍事的関与に反対する。リバタリアニズムを自覚的な信条とする人々は対イラク戦争にも反対だった。
アメリカ人の原爆投下を合理化する議論は、「5人の命を救うために1人の命を犠牲にして何が悪いか」と主張していることになる。日本人の私たちが米国の原爆投下の論理を肯定できないのは、この場合、犠牲になって死んだのが日本人ばかりだからだろう。仮に原爆投下で死ぬ人間の半分がアメリカ人だったら、たとえ本土決戦の場合の数分の1の死者数で済んだとしても、米国政府は原爆投下には踏み切れなかったのではないか。そう考えると、やはり米国の意見は正当化のための傲慢な屁理屈に過ぎないと日本人は思う。
しかし、さらに一歩踏み込んで、もし日本が原爆の開発に成功し、それを米国本土に投下する手段があったとしたらどうだろうか。
日本は間違いなくやっただろう。
実際、日本は風船爆弾という気球爆弾を大量に生産し、無差別攻撃の目的で米国本土に向けて飛ばしている。ただし、ほとんど攻撃成果を上げることはなかっただけだ。
もっとも、この時期の国際情勢はかなり複雑で、日本は本土決戦の準備をする一方で既に降伏交渉を模索しており、原爆投下がなくても降伏は時間の問題だったとも言われる。しかし、問題は「時間」だったのだ。米国の原爆投下はソ連の対日参戦(8月9日)という動きに対して、ソ連の対日占領を防ぐ目的で日本の降伏を促すためだったという解釈もある。もし原爆の投下がなく、日本の降伏が長引いていた場合は、ソ連軍はカラフトのみならず北海道、東北の一部に進駐していたかもしれない。その場合は、戦後の日本はドイツと同じような分裂国家になっていた可能性がある。
歴史解釈はともかく、本稿では倫理の議論に限定しよう。
なぜ出ない?「もっと早く降伏すべきだった」論
私が不思議に思うのは、毎年8月になると被爆問題が議論される中で、「なぜ当時の日本政府はもっと早く敗戦、降伏の決断をしなかったのだ。そうすれば、沖縄の惨劇も広島、長崎の被爆も避けられたではないか」という方向に日本での議論が向かわないことだ。
「戦争したこと自体が間違いだった」として当時の日本の軍国主義を非難することは、戦後ならばたやすいし、そういう議論は繰り返されてきた。私もあの戦争は、戦争したこと自体が間違いだったと思う。しかし、間違いを犯すことは国でも個人でもあり得る。間違いだったと思った時点で、それを撤回できれば被害は少なくできる。
もちろん、戦争遂行者(権力者)は無条件降伏となれば処罰は必至だから、容易には降伏などしない。それでも、それができなかった故に国民の命と財産の莫大な損耗に輪をかけたことを訴える、あるいは問題にする声があっても良さそうなのだが、なぜか日本の議論にはそれが欠けている。
原爆は是か非か、戦争は是か非か、軍事力は是か非か──。白か黒かの二分法の論理だけに議論が支配されている。興味深いことに、旧日本軍では戦争の展開までも、勝利か玉砕かの二分法に支配され、「投降」という選択肢が最初から否定されていた。「撤退」という言葉すら否定されて「転進」と言われた。これはけっこう根の深い問題かもしれない。次にこれを考えてみよう。
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