「タイの状況がおかしい。近々政変があるかもしれない」。タイから帰ってきたばかりの知人がそう筆者に告げたのは2月下旬のこと。今の騒動の予兆は、既に現地では露骨に感じられていた――。
もちろん予兆といえば前々からプミポン国王の健康不安説、タクシン元首相支持派の巻き返しなど、いろいろな不安材料は語られてはいた。だが、今なぜこの時期に政変なのか? そもそも誰が政変を仕掛けるのか?
また、どのような手段なのか、大規模暴動か、軍事クーデターなのか。これらの問いには彼は多くは語らず、ただ国王周辺の不穏な動きに言及した。では宮廷革命が起きるのか? 「それは分からない。だがCIA(米中央情報局)もMI6(英情報局秘密情報部)も情報収集に精を出しているよ」。
CIAもMI6も秘密活動を中心にしており、通常その活動は目に見えない。しかし東南アジアなどで彼らは日本人に接触してくる場合がよくある。日本企業などの持っている東南アジア情報は信頼度が高いし、彼ら自身も日本勤務を経験したりしていて日本に親しみを抱いている場合も多いのだ。もちろん偽の身分を名乗っているのだが、話の内容で政府関係の人間であることは察せられる。仮に相手がCIAだと分かっても、日本人は現地政府に密告したりしないから彼らとしても安心なのだろう。
現に1998年のインドネシアのスハルト政権崩壊時には、CIAは日本人からの情報を重視したという話がある。「日本の企業はどこが安全なのかを一番よく知っていた。おかげで我々は在留米国企業に現地にとどまるよう指示できた。ところが日本の外務省はこんな貴重な情報を無視して避難勧告を出したようだ」。後に米国大使館の関係者が語った言葉である。
米英の情報機関が日本人の目につくように動いていたとすれば、これは明確に危機の予兆であろう。だが、なぜこの時期に? この問いがすべてを物語る。
米国の関心はインド洋
先週、都内で開かれたある講演会は異様な熱気で満ちていた。講師はロバート・カプラン氏。米シンクタンクの新アメリカ安全保障センターのシニア・フェローを務める。昨年フォーリン・アフェアーズリポートに「台頭する中印とインド洋の時代」という論文を執筆、中国とインドの地政学的な抗争の危険性を鋭く指摘し世界的に注目された。聴講する側も元インドネシア大使はじめ外務省関係者、外交・安保評論家、中国をはじめ各国大使館関係者らが勢揃いした。
カプラン氏は言う。「インドはインド洋を中心に東西に水平的に勢力の拡大を目指し、中国は垂直的に南下している。この両者は衝突しつつある」。
インドの水平軸と中国の垂直軸が交差するのは東南アジア周辺であろう。確かにミャンマーやネパールなど、不安定な動きを示しているが、その背後に中国とインドの影を指摘する声は多い。
カプラン氏はさらに付け加える。「米国、日本、インドネシア、オーストラリアは連携して中国の拡大に対処しなくてはならないだろう」。
今週、バラク・オバマ米大統領はグアム、インドネシア、オーストラリア歴訪に出発する予定だった。先週末に、来週日曜出発に変更されたのだが、カプラン氏の指摘は多分にこの歴訪を意識したものと言えよう。歴訪の中で新しいアジア太平洋戦略についての何らかの宣言が行われるのではないかとの予測は2カ月以上前から飛び交っていた。さらにそれが対中封じ込めを示唆する踏み込んだ内容になるのではないかとの憶測も一部で強く囁かれていた。
日本ではオバマ大統領のグアム訪問に特に強い関心が寄せられているようだ。沖縄の普天間基地にある海兵隊司令部はグアムに移転することで日米間は合意している。飛行場は同じ沖縄の名護市に移設することでも日米間は合意しているが、自民党時代の合意ゆえ、民主党政権は見直しを主張、連立与党の社民党は「飛行場までもグアムに移転せよ」と主張する。
もちろん米国は見直しに応ずるつもりはない。そこでオバマ大統領はグアムでこうした日本の動きを牽制する発言をするのではないか、という観点から関心が集まっているわけである。
だがオバマ大統領は単に日本を牽制するためだけに、この3地域を歴訪するのではない。米国領グアムから見たインドネシアとオーストラリアの地政学的価値は明白だ。両国に挟まれた海域はインド洋への通路となっている。インド洋は中東への海路である。米国はインドとの友好関係を強化しつつあるが、同時にインドネシアやオーストラリアとの同盟関係を確保しなければ中東へのアクセスを安定化させられないのである。
そしてこのアクセスを脅かしつつあるのが、ほかならぬ中国なのである。インドが水平的に拡大して中国と衝突するなら、米国はこのインドに加担せざるえない。そしてインドネシア、オーストラリアそして日本も連携して中国の勢力拡大に対処することになるというのがカプラン氏の予想なのである。
存在感増す、もう1つの大国
ここに至って日本と米国の間に安全保障について認識にかなりの開きがあることは明白だろう。日本にとってはグアムと沖縄の問題でしかないものが、米国にとってはアジア太平洋地域全体の問題なのだ。
そして米国は日本も中国への対処に乗り出さざる得ないと見ているのに対して、日本には一部に中国脅威論はあるものの、全体としてそうした準備は政界、経済界を含めて全くできていない。おそらく、この認識の落差こそが日米関係悪化の本質なのである。
インドが水平軸に従って勢力を拡大させようとしており、米国がそれを助長させようとしているというその構図に、誰も語りたがらないもう1つのプレーヤーが明らかに加担を始めている。ロシアである。
先週、ロシアのプーチン首相は訪印しシン首相と会談、原子力分野での協力、空母アドミラル・ゴルシコフの引き渡し、さらにミグ29戦闘機29機の売却で合意した。
ロシアは中国にも空母、戦闘機の供与を行っているから、まさに漁夫の利を得ていることになるが、今回のインド接近は単なる利益追求だけが目的ではない。
ミグ29を29機という数字の語呂合わせは、中国へのメッセージを含んでいると思われる。ロシアは中国とインドにスホーイ戦闘機を供与している。ところが中国はスホーイの類似品を作り、ロシアに無断で各国に輸出している。怒ったロシアはスホーイの供給を停止した。
ロシアは中国にはミグ29を供与していないが、改良されたミグ29はスホーイを上回る性能を有していると噂されている。そのミグ29を29機と強調して見せたのは、「中国の持っているスホーイより優秀な兵器をインドには売るぞ。だが、無断コピーする中国には売らない」というメッセージなのである。
空母についても、かつてロシアは未完成品の空母を中国に供与しており、中国は現在これを完成させつつある。ところがその完成の時期に合わせるようにインドに完成品の空母を引き渡すというのは穏当なやり方ではない。中印対立においてはインドの肩を持つと宣言しているようなものである。
そして原子力分野での協力、このメッセージは途方もなく大きい。
インドは既に核武装国であるが冷戦時代から旧ソ連の協力を得て原子力開発をしてきた。現在はインドは米国とも原子力分野での協力関係を結んでおり、事実上、米国はインドの核武装を承認していることになる。
だがここにおいてロシアがインドと原子力分野での協力を強化するということは、今後、場合によってはインドの核兵器開発をロシアが支援する可能性を示している。イランの原発事業へのロシアの協力については文句を言う米国がインドについては何も言わないところを見ると、インドの核兵器開発支援で米露が一致しているのではないかとも取れる。
しかもどう見ても性能がいいとは思えないロシアの原発を最近買い込んだ国が東南アジアにある。ベトナムである。
ベトナムへの日本の原発売り込みが失敗したことで、日本の原発関係者はかなりのショックを受けたそうである。日本の原発がロシアの原発に劣るはずはないとの思いがあるからであるが、これは些か平和ボケと言った方がよい。というのもベトナムがロシアと原子力協力をしたがる最大の理由は電力供給ではなく、実は核兵器開発のためであり、これは一部の軍事関係者の間ではもはや“常識”となっている。
なぜ核兵器を持ちたがるのかといえば、理由は中国である。中国と国境を接する国はどこでも、大量の中国系移民に悩まされている。だが、これを強制的に排除しようとすれば中国が自国民保護を理由に武力侵攻する可能性がある。つまり戦争になるかもしれない。しかし核兵器を持てば中国は侵攻を思い止まる公算が大である。一部の国々にとってはもはや核兵器は悪魔の兵器ではなく、平和を守るための大事なお守りなのである。
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