「我が国では、年間自殺者が3万人を超えるなど、『国民のこころの健康の危機』と言える状況が続いています」(2010年4月3日、厚生労働省「こころの健康政策構想会議発足式」リリースより)。3月には「お父さん 眠れてる?」というポスターがあちこちに貼られました。「2週間以上続く不眠は、うつのサインかもしれません」。あなたは、そしてあなたの親しい人は、よく眠れているでしょうか。

 この自殺数の異常な高止まりは、まさしく緊急事態です。日本で精神救急医療を立ち上げた精神科医、計見一雄さんに、この事態に対してなにかできること、知っておくべき事はなんなのか、伺ってきました。余談ながら、私は氏のべらんめぇな語り口が大好きなのですが(味わいたい方は『統合失調症あるいは精神分裂病 精神病学の虚実』などでどうぞ。この本は書名の印象に反してとても面白くて分かりやすい!)、今回は状況の深刻さを反映してか、静かで、迫力がありました。(日経ビジネスアソシエ 山中)

【おことわり】記事の内容、肩書き、リンクなどは掲載時のものです

計見 一雄(けんみ・かずお)

1939年東京都生まれ。千葉大学医学部卒業。医学博士。千葉県精神科医療センターの設立に参画、現在名誉センター長。公徳会佐藤病院(山形県南陽市)顧問。精神科救急医療という分野を立ち上げ、今も臨床の最前線に立つ。日本精神科救急学会前理事長
(写真:大槻純一、以下同)

山中(以下Y) 計見先生が書かれた『戦争する脳-破局への病理』を読んで、押しかけてお話を聞き、「日経ビジネス」に記事を載せさせていただきましたね(「硫黄島守備隊の強さ 上司は『休ませる勇気』を」(記事リンク ※「日経ビジネス」定期購読者の方限定です)。

 このとき「この10年で日本の自殺者は中高年男性を中心に1万人も増加した。その人数は、日清戦争の戦死者とほぼ同じ。精神科医に言わせれば、戦線はもはや崩壊しつつあるのです」とおっしゃった。あれからもう2年。状況はむしろ悪くなっているように見えます(自殺に関する詳しい情報は内閣府の自殺対策ホームページを参照)。

計見 自殺問題へのアプローチには、重要な視点が二つあるように思います。まず、日本文化は歴史的に自殺を受容してきたし、ときにはそれを賛美してきたこと。江戸時代の近松門左衛門による心中狂言や、歌舞伎の演目。幕末から明治では、多くの志士が自裁、西郷隆盛も心中未遂をしています(※相手は既遂)。

 明治天皇に殉じた乃木希典の自殺もありますね。

計見 大正から昭和でも、芥川龍之介の自殺、有島武郎の心中。戦争中の神風特攻や玉砕その他の「自殺強要作戦」とその称揚。この称揚は今も続いているようです。「この辺でケリをつけよう」と、生き延びるための持久戦をやめて集団自殺的攻撃に転じる。その種の「潔さ」は今も否定し切れていない。

 う~ん、戦前は、体制側の問題も大きいんじゃないでしょうか。

計見 じゃあ戦後を見てみよう。まず太宰治の二度にわたる心中事件。1回目は片割れだけ死ぬ。2回目は玉川上水に入水自殺。そして彼の人気はその死に方が支えている部分もあるように見えます。今もその命日には「信者がお参り」しています。三島由紀夫も同様だ。いまだに徹底的な批判は為されず、むしろ賛仰されていないか。

 うーん……それは一種の「ファン心理」じゃないでしょうか…。

計見 だったら渡辺淳一の『失楽園』。

 あっ、そこに来ますか。

計見 あれは有島(武郎)の心中事件を下敷きにした、情死自殺賛美の側面を強く持つ。その後の同じ作者の小説でも、性交中に女性を殺害してそれを正当化する描写がありました。あれが、多くのビジネスマンが読む新聞で大人気になり、映画にもなった。ああ、連載はY君のところだったね。

 先生、ご存じでおっしゃっているでしょう。それに「うち」じゃありません。親会社です。何卒、穏便にお願いいたします。

計見 いや、嫌味を言ってる訳ではありません。働き盛りの日本の男性が、こういう小説を熱く支持することの興味深さを指摘したいだけです。ざっと挙げたけれど、日本人と日本文化への、こうした側面からの批判的検討、そしてそれが現代の自殺にどういう影響を及ぼしているか、そこに対しては精神科医や精神科医療関係者ではない人々からの教説を求める必要があるように思います。例えば、アジア諸国の社会学者や文化人類学者の意見とか。はたから見たら「ちょっと、ヘン……」かも知れません。

精神科医が自殺予防に役に立てるとしたら

計見 もうひとつは、精神科医、精神科医療が自殺予防に有効な手段を持っているのか? という視点です。

 まさか、持っていないのですか?

計見 「ある」としても、自殺予防全般への寄与ではあり得ない。自ら自殺症例を幾人持った経験があるかにもよりますが、私の経験則では「精神科医は自殺予防はできない」という覚悟がなければ、精神科医という仕事にはかかわれないと思う。

 手段はあるが、万能ではないし、その限界を認識しておくべきだと。

計見 もし「精神科医は自殺予防に寄与できる」というなら、その守備範囲を明確化すべきだ、と思います。具体的に言えば、 自殺の危険が迫っていることを本人が自覚できるような「自己評価マニュアル」を作成してみるという試みは可能かも知れない。

 green、yellow、 red zone が「一目瞭然」で分かるようなもの。 4~5軸のスケールで、4段階評価程度のもの。レッドゾーンに入ったら「もうすぐ自殺しますよ」と告げる警報装置。まだまだ未完成だけど試案は作ってみました。これを君のところで紹介してもらえますか。

 了解しました! 記事の最後にいれておきます。そして、この警報に思い当たったら、レッドになる前に精神科医を受診すると。

計見 君のその発想ですけど、「自殺につながるような精神病はメンタルな病気で、早期受診を勧めれば防止できる」ということですよね。

 違うんでしょうか?

計見 そういう主張が今回の政府のキャンペーンでも打ち出されていることは知ってます。でも「本当にそうか?」と思ったことはありませんか? 仮にそうだとしても、「受診勧奨キャンペーン」は有効だろうか。50年近く精神科医を生業とし、しかも少なからざる数の自殺既遂者を受け持ち患者から出してきた身としては、考え込まざるを得ない。

 既遂者…。先生のそういう率直すぎる物言いは、人によってはあらぬ誤解を招きそうですが、個人的にはとても信頼しております。では、どうすればと。

計見 異常な自殺者増加に対して、いくばくかでも歯止めをかけることが可能か、可能とすればどんな手段がありうるか。結論が「可能だ、こうすればよい」というものにはならないかも知れないが、一応、話してみるか。

受診させたいなら「精神・メンタル・こころの」という扱いでいいのか

計見 たとえば「精神・メンタル・こころの」病気、という扱いが正しいのか?

 だって、そもそも「精神科」ではないですか、受診する科の名前が。

計見 そうか。では実際の臨床場面で、私がどんな風に初診の患者さんに接するか、手の内をあかしますか。

打ちひしがれ、憔悴した五十がらみの男性が診察室に入って来る。

私:
ここが精神科であることは、ご存じですね?
彼:
ええ、まあ精神科って書いてありますから。
私:
精神科なんかに来るのはお嫌でしたでしょうね。
彼:
(無言で頷く)
私:
からだの病気ならよかったのにと思ってますね?
彼:
エ、エー…まあ。
私:
例えですが「癌のようなものでもその方がまだましだ」と?
彼:
(頷く。多少、涙ぐむ)
私:
からだの病気なら皆に分かって貰えますからね。
彼:
そうなんです(さらに涙ぐむ)。
私:
しかし、あなたの病気はからだの病気なのですよ。
彼:
(きょとんとして)だってここは…
私:
看板は精神科となってますがね、あなたの病気はからだの病気なんです。
彼:
そんな(やや憤然とする)。
私:
私の言うことが信じられないのは分かってます。でも、身体の病気なんです。これからその証拠を列挙しますから、聞いてください。
あなたはこの一カ月くらいの間に体重が減ってますね、10キロも痩せましたか?
彼:
7~8キロでしょうか。一カ月よりはもうちょっと前からかな。
私:
食欲がないですね?食べても味がしないでしょう?
彼:
そうです、砂を噛んでいるような。
私:
それでも食わなきゃと思って食べてるんですよね。
ところで、あなた便秘してますね。
彼:
はい。
私:
初めのうちはウサギの糞みたいな固いコロコロした便で、今では数日間に一度程度の排便ですね。
彼:
そうです。
私:
ここんとこ、眠ってないでしょう?
彼:
はい、昨夜は…
私:
殆ど一睡も出来なかったでしょう…その状態になるまでは、こんな風ではありませんでしたか?
 
――最初の頃は、いつもより朝早く覚めてしまう、4時とか5時に。もう一度寝ようとしても眠れない。そのうちに、例えば夜の11時頃寝たとして、午前2時に覚めてその後眠れない、その後は一時間半くらいで覚めて朝まで輾転反側している、そうして昨夜のように殆ど眠れなくなってしまった。
彼:
その通りです(この辺で彼は「この医者は分かっている」という顔をし始める)。
私:
朝と夕方ではどっちが気分が多少は良いですか?
彼:
夕方から夜は元気になります。朝がね…。
私:
そうすると、こういう事になりますね。前の晩に翌日の仕事の支度、下調べなどをして「明日は出勤するぞ」と思って寝ても、朝になると全然動けないと?
彼:
その通りです。

 なるほど…実は自分も過去に、この患者さん同様の経験をした時期がありました。早寝したのに午前2時くらいに目が覚める、なんてくだりは怖いほど同じです。

計見 この人物は、勤勉で職場では頼りにされ、頼まれればイヤとは決して言わず、しばしば自宅に仕事を持ち込んでも片付ける人で、周囲からはとても親切で温かい人とみられているんです。診察ではそこまでは念を押さないが、「あなたのことは分かっている」ことを強調したければそういうことも告げる。

私:
思ったように身体が動きませんね? ああしようこうしようと思っていてもからだがついて行かない。午前中は考えることにも集中できないでしょう。考えてもまとまらないし「あっちの方が良いかなと思うと、やはりダメだ、という結論になるし、じゃあこっちの方がいいかなと思うとそっちもダメ」になるでしょう。いくら考えても堂々巡りで、今は八方ふさがりだと思ってますね?
頭が重くて、ボーッとしているか、頭痛もする、頭の周囲に輪っかを嵌められて締め付けられていません? 特にこの数日は?
彼:
(その通りであるという顔をする)
私:
今までに私があげたことは、ぜーんぶ身体の不調ですね? 痩せて食えなくて、便秘して、眠れなくて…不眠やそれに伴う日内変動という一日のうちでの体調の乱れは、日夜リズムという周期の異常で、これも脳という臓器の「歩調取り装置」の故障ですから、やはりからだの異常です。
 
それが了解されたら、私の提供する治療を受ける気になって下さい。全てに優先するのは睡眠の確保です。それがご自宅で出来ないようであれば入院を勧めます。

計見 以上が、初診のときのやりとりのあらましです。

 いや、驚いた。当時の自分がこういってもらえたらどんなに助かったか。

計見 この話の意味するところを、手っ取り早く説明します。この段階に至った人は一つのことしか考えられないような心境に至っていて、その一つとは「もうケリをつけたい、終わりにしたい」です。そこに向かってどんどん思考の範囲が狭まって行く。あたかも「トンネルの出口に小さな光が見え、その他は暗闇」のような。本物のトンネルなら進めば光は大きくなってやがて外の野山が広がった光景になりますが、この人のトンネルは後ろに逆行して光がどんどん狭まって「死」しか選択の余地が無くなっている。

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