大阪のホテルの一室でこの原稿を書いている。
当地に滞在している理由は、昨晩(水曜日の夜)、市内のとある書店で開催されたトークイベントに登壇者として呼んでいただいたからだ。
イベントは盛況だった。終了後の打ち上げも、終始なごやかにこなすことができた。
ところが、ホテルに着いてみると、携帯電話が無い。
イベント会場の書店に、上着ごと忘れてきたらしい。
東京を離れると、かなり高い確率で、所持品を失くしたり、忘れてきたりする。
昔からそうなのだが、旅先でのオダジマは平常心を失う設定になっている。
ノマド適性が低いのだと思う。
とにかく、夜が明けたら、書店の開店を待って、ブツを引き取りに行かないといけない。なのに、携帯電話がないと、携帯電話を回収するための連絡さえままならない。ダブルバインドだ。
というよりも、大げさに言えば、世界とのつながりを絶たれた感じだ。
電波世界のロビンソン・クルーソー。
お手上げだ。
で、仕方なく開店を待つ間、ホテルにとどまって原稿を書いている。
ところが、うまく執筆のリズムに乗ることができずにいる。
そんなに繊細至妙な文章を書いている自覚は無いのだが、どういうものなのか、調子が出ない時は筆が進まない。
おそらく私は、自室の執筆環境に依存している。
いつも使っているパソコンの扱い慣れたエディタや、ブラウザのブックマークや、各種の辞書や、気晴らしのためのゲームや、逃避先としての紅茶やテレビといった、固有の環境が揃っていないと、アタマが十全に機能してくれないのだ。
とはいえ、ノマド環境に適応するべく自分を最適化すれば良いのかというと、単純にそうとばかりは言えない。
マックブックエアでバリバリ仕事ができるようになると、今度はどうせあいつに依存するようになる。私はそういう性質(たち)の人間なのだ。
持ち歩き用のパソコンやタブレットに依存している人々は、昨今、珍しくない。
たとえば、昨晩のようなトークイベントに若い世代の登壇者が登場するケースでは、彼らは、まず間違いなくモバイルのパソコンを持ち込んで来て、それを目の前に開いた状態で話を始める。必ずそうするのだ。
シンポジウムでも、単独の講演でも、公開の鼎談や座談会でも同じことだ。三十代までの若手文化人は、デジタルのガジェット込みの拡張版の自我を介して現実に対応していて、それらのモバイルなエゴのスイッチがオンになっていないと、自分の知的活性力を十全に機能させることができない。だから、彼らは生放送のスタジオにさえ自前のマシンを持ち込む。
彼らは、場の話題に追随しながら調べ物を続行する能力を備えている。具体的に言うと、口から言葉を発しながら、同時に、手元では資料を並べ直していたりするわけで、訓練の行き届いた人になると、会場のナマの声(ツイッター経由だったりニコ生のコメントだったり)を拾いながら、パワポの資料をスクリーンに展開しつつ、絵柄に沿ったジョークをカマすことができる。おそらく、生まれた時からあのテのマシンと並走してきた彼らのアタマは、デフォルトの設定がマルチタスクになっているのだと思う。
私にはそういう真似はできない。
昨晩の対談のお相手だった内田樹先生も、そういうことはまるでおできにならない。
わたくしども半世紀以上以前に生まれた人間の脳みそは、徹底的にシングルタスク仕様で設計されている。だから、しゃべっている時にはしゃべる以外のことはできない。
私はマナーの話をしているのではない。
若い人たちを非難するつもりでこういうことを書いているのでもない。
大切なポイントは、ある世代から下の人々にとって、「知識」や「情報」という言葉の持つ意味が、バックグラウンドに後退しているということだ。
善し悪しの問題ではない。
現実に、若い人たちにとって、「知識」は、まず何よりもマシンの中に(あるいはクラウドの上に)格納してあるものだ。ということは、それらは、必要に応じてアクセスすれば良いものであって、必ずしも生身の人間がムキになって自分のアタマの中に保持せねばならないものではない。そういうことになっている。
だからこそ、その反作用として、彼らは、生のトークが展開されるみたいな場所に、パソコン(そういえば「ナレッジナビゲータ」なんて言葉がありましたね)を伴った知的サイボーグ状態で登場せずにおかないのだ。
彼らにとって、パソコンの中味(とその先にあるネット上の情報、つぶやく言葉、フェイスブックでのお付き合い)は、半ば彼ら自身なのであって、ということは、ウィンドウを開いていない時の彼らは、半分ぐらいスリープした状態であるのかもしれない。
私自身も偉そうなことは言えない。
現にいま現在、手元にスマホがないだけのことで分離不安に陥っているわけだし、慣れないモバイルのマシンで原稿を書くことに多大なストレスを感じたりもしている。
私の自我も、かなりの部分で、自分の書斎に取り込まれてしまっているということだ。
いずれにせよ、ガジェットを手にした人間の機能なり自意識が拡張するということは、その人間の自我がガジェットやクラウドに吸収されるということでもある。これは、なかなかやっかいなことだ。
私が子供だった頃、知識は、でき得る限り、自分のアタマの中に詰め込んでおくべきものだった。そう考えて、われわれは、暗記競争に血道をあげていた。だからこそ、私の世代の若者は、澁澤龍彦や種村季弘のような博覧強記の教養人に憧れたのである。
事実、私よりも上の世代の知識人は、ほとんどすべての知識を身体化(具体的に言えば「丸暗記」ということだが)していたし、そうでなくても、旧世代の書斎人は、自宅の書斎に自前の書籍や紙の資料を集積することで、独占的な情報を確保していた。
しかしながら、いまや、知識は外部化され、共同化され、クラウド化され、シェアされ、公共化する流れの中にある。
ということは、象牙の塔は、象牙のタブレットぐらいのところまで大衆化しているのだろう。
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