先週の今ごろ、私は、当欄のためにホワイトデー商戦の衰退に関する原稿を書いていた。
 なんとお気楽な原稿であったことだろう。
 信じられない。半年前の出来事みたいだ。
 それだけ、私の頭の中味がすっかり入れ替わっているということだ。
 実際、この一週間で、すべての状況は変わってしまった。

 ホワイトデーの当日、私は、しばらくぶりにクルマを運転していた。計画停電(のアナウンス)の影響で電車が止まっている地域に顔を出さねばならない用件があったからだ。本心を言えば、燃料不足の折、なるべくなら自動車を動かしたくはなかった。

 ところが、ハンドルを握ってみると、ドライブは快適だった。縮こまっていた心が息を吹き返すみたいに感じられた。それもそのはず、地震発生からこっち、私は丸3日間家に閉じこもりきりで、ひたすらにテレビを見続けていたのだ。しかも、テレビの画面を凝視する傍らで、ツイッターのタイムラインをチェックし、ニュースサイトを渡り歩き、検索を繰り返していた。どうしても目を離すことができなかったのだ。あまりにも強烈で、前代未聞で、心配だったから。

 しばらくぶりに空の下の道路を走って、私は、自分が、先立つ3日の間、完全なテレビ漬けであったことにあらためて気付かされた。眠っている時以外は、一日中テレビをつけっぱなしにしていた。その間、ほどんどまったく画面から目をそらさなかった。こんなにも集中的にテレビの報道を注視し続けた経験は、たぶん、オウム事件の大団円の頃以来だ。
 クルマの中で、オーディオの音量を上げて久々に音楽を聴く。
 わけもなく、突然涙ぐみそうになる。
 私は、様々な感情を押し込めていたのだと思う。だから、一瞬、感情が制御を失ったのかもしれない。
 というよりも、あの圧倒的な地震報道の映像は、私の精神に、意外なほど大きなダメージを刻んでいたのだ。

 津波の映像はとてもキツい。
 あの凄惨な映像を受け止め続けた者は、内面に処理しきれない感情を蓄積することになる。当然だ。誰であれ、あんな画面を何十時間も浴びせられて、無事であり続けられる道理がない。
 3日ぶりのドライブで私の心が多少とも晴れたのは、外の景色を見たこともあるが、なにより、テレビの映像から解放されたからだ。要するに、私はふさぎこんでいたのだ。

 私だけではない。この一週間の間、ほとんどすべての日本人は、私と同じように、深いダメージを負っていたはずだ。
 もっとも、私のように、自分のダメージに敏感なタイプの人間もいれば、そうでない人々もいる。
 マッチョを自認する皆さんは、テレビを見た程度のことに対して「ダメージ」みたいな言葉を使う男を軽蔑するかもしれない。
「なーにを女学生みたなことを」
 と。
 しかしながら、そう言っている彼等だって外面がタフだというだけで、不死身なわけではない。内面には傷を負っているはずだ。ハードボイルドなポーカーフェースは、表情を喪失している結果で、本当のところ、その表情の意味するところは、茫然自失であるのかもしれない。

 今回は、震災報道がもたらしている心理的なダメージについて考えてみたい。
 被災者の皆さんが強烈な精神的外傷を蒙っていることは、いまさら申すまでもない。
 その圧倒的な傷の深さを思えば、物理的な損害を受けたわけでもない遠隔地の傍観者が、自身の痛みについてあれこれ語るべきではないのかもしれない。

 が、コトは単純ではない。
 被災者に手を貸すためにも、彼等の気持に寄り添うためにも、なによりもまず、直接の被害者でなかったわれわれが立ち直らなければならない。そのわれわれが、一時的なショック状態から脱して日常に復帰するためには、気持を切り替える必要がある。とすれば、まず最初に、私たちは、自分たち自身が陥っている虚脱を正直に見つめ、理解し、そうやって虚心にこの度の事態を整理し直した上で、あらためて立ち直りのためのルートマップを作るべきなのだ。

 2時間ばかりのドライブから戻って、私は、その夜、テレビを見ないことに決めた。休まずにテレビを見続けることが、自分の精神の健康のために良くないことが、部屋の外に出てみて、身に染みてよくわかったからだ。
 津波の映像の反復と、放射能汚染のイメージは、画面を見ている人間の日常感覚を破壊しにかかる。衝撃は、「虚無感」「無力感」「無常観」として定着し、知らず知らずのうちに精神を蝕んでいる。ああいうものを見続けた人間は、自分でも気がつかないうちに、無気力になっている。少なくとも私はそうなる。

 何もする気がしない。やる気が出ない。いつもやっていたはずのルーチンワークに復帰する気持ちが湧いてこない。
「どうせ、いずれは死ぬわけだからさ」
 と、声に出してそう言うわけではない。が、心の奥には、いつしか「死」のイメージが居座っている。だから、手間のかかる仕事や、気の進まない約束に直面すると、精神の一部分が断固として動くことを拒むのだ。幼稚園の制服を着ないために柱にしがみついていた5歳児の頃みたいに。
「いやだ」
 少しでもそう思い始めたらもう駄目だ。
「絶対にいやだ」
 と、心は、抜けられない深みにはまって行く。

 無常観は、一見、深遠な態度に見える。賢人の処世であるみたいに。
 でなくても、捨て鉢になっている若い人間にとって、ニヒリズムは、魅力的だ。絶好の逃げ場にもなる。
 私自身、生活信条をきかれて、「諸行無常」と答える若者だった時代を持っている。うん。恥ずかしい過去だ。あれは、ジョークに見せかけた悲鳴だった。わかる人は見抜いていたはずだ。うわあ。

 さてしかし、テレビを見ないことに決めてみると、やることがない。
 仕事が無いわけではないのだが、取り組む気持になれない。
 本を読んでも情報が頭に入ってこない。文字がそのまま脳味噌を通過して行く。呆けたように映像にぶらさがっていたことの後遺症かもしれない。
 なので、この際だから、未見だった録画済みコンテンツ(サッカーとボクシング)を視聴してみることにする。
 行き詰まったらサッカー。この数年、私が採用しているセルフ・ヒーリング・ソリューションだ。

 ところが、これが面白くない。
 バルセロナのゲームも、ノニト・ドネアのファイトも一向に心に響いて来ない。
 試合の途中で、自分が点差を把握していないことに気づく。私は画面を見てはいても、サッカーを見ていないのだ。こんなことははじめてだ。
 感覚が麻痺しているのだろう。
 精神の深い部分に疲労が蓄積している。というか、平たく言えば、私は「参って」いるのだ。

 こういう時には、間違った判断をしがちだ。
 振り返ってみれば、新卒で入った会社を辞めたのもこんな精神状態の時だった。
 5月に足を折って入院し、9月に仲の良かった友人を亡くし、12月にジョン・レノンの死を知って、私は深い無常観に囚われていた。
「人間は、ある日、前触れもなく、死んでしまうものだ」
「オレだって、いずれそのうちに消えてなくなる」
「だとしたら、好きでもない職場でくだらない我慢をし続ける理由がどこにあるんだ」
 …………

 わかっている。逃避だ。無常観にかこつけて、敵前逃亡をしたという、それだけの話だ。後悔している。仮に結果としていずれ退社することになったのだとしても、3年は粘ってみるべきだった。そうすれば、もう少し実のある経験を積むことができたはずだ。なのに私は、入社一年を経ずに逃げ出した。会社の側に非があったわけでもなく、上司や同僚にも恵まれていたというのに。まったく。

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