京都大学の入学試験中に、問題の一部をインターネットの質問サイトに書き込んでいた受験生が逮捕された。
 山形県出身の19歳の予備校生だという。
 当件は、ニュースショーのコメンテーターが述べていたように「ハイテク犯罪」と捉えるべき事案なのであろうか。

 違うと思う。
 凡庸なカンニング事件だ。ハイテクどころか、犯行の手口の随所に粗雑さが露呈している。
 スマートフォンもインターネットも、いまどきの受験生にとっては、日常のツールに過ぎない。われら中高年にとってさえ、携帯とネットは既に生活の前提だ。とすれば、靴を履いた人間による犯罪をわざわざ「靴犯罪」と呼ばないのと同じく、インターネットを使った犯罪をあえて「インターネット犯罪」と呼ぶ必然性は、もはや消滅したと考えるべきだ。同様にして、携帯電話を駆使した事件を「ハイテク犯罪」として特別視する理由も無い。

 今回は、「ヤフー知恵袋」を利用した不正入試疑惑と、鹿児島の大学生による高速バス横転事件について考えてみたい。私の見るに、この二つの出来事は、いずれも「若い人たちが現実社会への適応を誤って起こした事件」という点で共通している。これは、悲鳴なのだ。とすれば、大人であるわれわれは、心して耳を傾けなければならない。

 芸術家や詩人を「炭鉱のカナリヤ」になぞらえるお話がある。
 ここで言う「カナリヤ」は、鉱夫が炭鉱に入る際に鳥カゴと一緒に持ち込む小鳥のことで、炭鉱の男たちがカナリヤを先頭に坑道を進む理由は、安全確認のためだ。カナリヤは空気の変化に敏感な生き物で、炭鉱内の空気にほんの少し有毒ガスが含まれているだけで、たやすく死んでしまう。それゆえ、カナリヤと共に坑道を行く炭鉱夫たちは、手もとにある可憐な小鳥の死によって、有毒ガスの発生をいち早く察知し、そのことによって、有毒ガスが致命的な濃度に達する前に避難する機会を得るのである。

 以上のプロットを踏まえて、芸術の擁護者を自認する人々は、芸術家をカナリヤにたとえる。芸術家がその一身のうちに備えている鋭敏な感受性が、ちょうどカナリヤが自身の死を以て炭鉱の危険を知らせるように、作品を通して時代の潮流の変化を告知している……とかなんとか。パトロンは、そうやって芸術家の役割を人々に訴え、かくして、この一つ話は、新聞社が美術展を協賛したり、地方公共団体がある種の団体に補助金を交付する際の前振りの演説として利用されるのである。まあ、枕詞みたいなものだ。

 個人的な意見を申し上げるに、私は、芸術家の先生方より、犯罪者の方が時流告知カナリヤとして優秀なのではなかろうかと考えている。
 つまり、犯罪は、社会的ストレスの露頭であり、その意味で、目新しいタイプの犯罪の発生は、われわれの社会に新たな矛盾が生まれつつあることを告げるカナリヤの歌なのだ。
 盗人に三分の理がありテロリストに三行のスローガンがあるように、犯罪者にもいくばくかの正義がある。そして、その彼等のねじ曲がった正義は、時に、時代に特有な欺瞞を鋭く告発する。そういうものなのだ。

 いや、私は犯罪の発生原因を社会の矛盾に帰することで、犯人を免責しようとしているのではない。オダジマは社会派のコラムニストではない。ただ、私は、誰かがバスをひっくり返したり、試験問題をネットに放流したりするのにはそれなりの理由があるはずで、その種の事件が起こった際には、迷惑をこうむった社会の側からの言い分とは別に、事件をやらかした人間の側の理屈に注目せずにおれない、カナリヤ派の書き手なのだよ。歌を忘れてはいても。カゴの中にいる自覚は失っていないわけだからして。

 バス横転事件を引き起こしたと見られている学生(K容疑者)は、1月5日、フェイスブックに
「今春に仕事を見つけないといけない。少しナーバスで忙しい」
 という意味の文章を英語で投稿している。
 さらに、今月16日には、ミクシィに
「ES終わらないorz」
 と書き込んでいる。

 ちなみに、「ES」は「エントリーシート」の略。学生が就活の際に企業に提出する「応募用紙」のことだ。単なる履歴書と違って、企業の側が独自に設定した質問項目を含んでいる。小論文試験と履歴書を兼ねた応募用の書類と考えれば良いのかもしれない。

「orz」は、無理矢理に読み下す場合、「おるつ」ないしは「おるず」と発音する組が多数派らしいのだが、普通は音読しない。心眼で読む。なぜなら絵文字だから。絵解きをすれば、「o」が頭、「r」が肩と腕、「z」が「膝をついた下半身」を表現し、全体として「四つん這いの姿勢で落胆する(膝から地面に崩れ落ちている)人間」のありさまを描写する。ニュアンスとしては、「ガックシ」「やってらんねぇ…」ぐらいだろうか。

 私は、「orz」の後ろに括弧書きで(落胆・失意を示す記号)という解説を付した新聞記事を読んで、少し笑った。ははは、新聞は、こういう解説が必要な人々のためのメディアになってしまったのだなあ、と。
 が、笑いが引いた後、容疑者の学生の孤独を思って粛然とした。
 K容疑者の焦燥が、校閲経由の解説抜きでは世間に届かなかったという、そのことに思い至ったからだ。ESの受け取り手である企業の採用担当の人々も、彼が「orz」という自らの似姿にこめた感情を汲み取ることはできないだろう。なんという孤独な嘆き。結局、大人たちは、この学生の「orz」を黙殺したのだ。

 就活に従事している大学生は、多かれ少なかれ、誰もが打ち捨てられた気持を抱いている。
 といって、日本中の就活生がバスをひっくり返しているわけではない。まして容疑者は3年生だ。4年生に比べれば、まだまだずっと楽な立場にいる。だから私は、就活生が苦しんでいるという理由で、K容疑者を擁護しようとは思わない。

 でも、それはそれとして、昨今の就活の様相は、やはりどうかしていると思う。圧力に敏感なタイプのカナリヤ人格の学生が、発作的に高速バスのハンドルに手を伸ばす気持も理解できる。彼等にはそれほど巨大な負荷がかかっている。

 就活が大変なのは今にはじまったことではない。私が就活生だった時も、それはそれで苦しかった。
「なんでオレがネクタイをしているのかわかるか?」
 と、私は、当時、2浪3留のあげくに3回目の大学1年生をやっていた高校時代の同級生に、先輩面をしてこぼした。
「胸の奥からこみあげて来るものをせき止めるためにだよ」
「……ん? 二日酔いか?」
 楽天家の1年生は、へらへらと笑っていた。
 ……お前にはわからない。オレのこの気持は、同じ就職活動をしている紺ギャバの学生奴隷と、火の輪くぐりをしているサーカスの動物にしかわからない。ちくしょう。

 それでも、私の時代の就活は、現在のそれに比べれば、ヌルかった。
 なにしろ、就活の開始が、4年生の10月1日だ。
 10月以前は、ほとんど何もしなかった。私は、9月の連休をはさんだ10日間ほどを、八ヶ岳の山荘で過ごしていた。それでも間に合ったのだ。さよう、当時はまだ「就職協定」(就職解禁日を10月1日とする紳士協定)が機能している時代だった。あの協定は、どうして破棄されてしまったのだろう。この国の企業社会から紳士がいなくなったということであるのか。

 私よりさらに以前の大学生の就活は、さらにさらにお気楽だった。就職が決まって髪を切ってきた時にもう若くないさとキミに言い訳していたあの学生は、考えてみれば、長髪のままで面接をしていたわけだが、ことほどさように、昭和の就活は牧歌的だった。ふざけるなと言おう。

 もちろん、ESなんていう七面倒臭いものはなかった。提出書類は履歴書オンリー。あとはぶっつけ本番の面接があるだけ。ダメなら落ちる。で、落ちたら次を当たる。ま、箱入り娘のお見合いみたいなものだ。
 訪問する会社の数も、せいぜい10社まで。私は4社しか回らなかった。
 10月の上旬に初回の会社訪問をした企業から2回目の面接のお呼びがかかったら、当然そこに出向く。ということはつまり、よほど連続して初回面接で落とされ続けない限り、10社以上の企業を回ることは、物理的にありえなかった。そんなことは心理的にも不可能だった。

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