日本人はディベートが苦手。これは今さら言うまでもないと思いますが、昨今、小学生からディベートの授業をするといった風潮にはやや違和感がありました。

榎本 博明(えのもと・ひろあき)
1955年、東京都生まれ。心理学博士。MP人間科学研究所代表。『「上から目線」の構造』(日経プレミアシリーズ)、『俺は聞いてない!」と怒り出す人たち』(朝日新書)など著書多数。近著は『ディベートが苦手、だから日本人はすごい』(朝日新書)

榎本:日本は昔から、海外のものを取り入れることを推奨する人が多いですね。ただそれが基で問題やトラブルが起きてもあまり疑問視しません。

 昨今、国の教育施策や企業の教育研修に携わる人がディベートをやたらと推奨している。『ディベートが苦手、だから日本人はすごい』は特にそういう人たちに、日本人のコミュニケーションの本質について考えてほしいと思って書いたものです。

日本人が自己主張が苦手なのは、日本語の構造と文化風土に由来するもので、そこにこそ日本的コミュニケーションの長所があると主張されています。

榎本:日本語と英語は言語構造が全く違います。英語はまず主語のIとかYouが最初に来る。一方、日本語は人称代名詞がTPOによって様々に変化する上、多くの場合で主語が省略されてしまいます。こうした言語構造の違いがコミュニケーションの違いを生み、自分と相手の関係性の違いを生んでいるのです。心が全く違うわけです。それを踏まえずに、小さいうちから英語やディベートを教えるなど、二刀流のやり方を取り入れるのがグローバル化への道だと考えることがそもそもおかしい。

 例えば、英語では普通の表現でも、日本語で言うと角が立ちます。「あなたの言っていることに私は同意できません、なぜなら…」と言えば、日本語だとかなり失礼だと受け取られかねない。日本語であれば「そうかもしれませんけど」とか「そういう見方もあるとは思いますが」とか言いつつ、相手に気づきを促すようなスタイルを取りますよね。

 真っ向から対決の姿勢を取り、異なる意見の相手を論破したり説得したりすることに力点を置く欧米型コミュニケーションとは、スタイルが全く異なるということをまず認識する必要があります。

他者との関係性の中に自己がある日本人

本の中で、日本語は主語・主体が曖昧なため、聞く相手にも理解するための配慮を求める言語であると説明されていたのがとても腑に落ちました。古くは源氏物語などでも主語が明示されていないことがとても多く、「どこそこにおはして、何々をし給ひき」など尊敬表現の度合いなどによって、いったいこの主語が誰なのかを読み手が伺い知る必要があります。それが日本語の原型ですから。

榎本:「私は」とか何とか言わなくてもお互い理解し合えるだろうというのを前提としているわけですね。場の状況を汲み取りながら、誰が誰のことを言っているんだなとか。

 こういう言語構造は、相手の気持ちや要求を常に汲み取ってそれに応えようとする姿勢を生み出します。元来、日本人が自己主張をあまりしなかったのは、「個」よりも他者との関係性の中で生きてきたという風土があるからです。個としての自己を生きるというのではなく、他人との関係性の中に自分が生きる場というものがある。

日本人には決して自分の意見がないわけではないが、あまりにも相手の立場や気持ちに対する共感性が高いために様々な見方が頭に浮かんでしまい、自分の見方を一方的に相手に押し付けることができにくいと説明されていましたが、なるほどと思いました。

榎本:例えば子供が勉強を頑張る理由について日米の小学生を対象に調査、比較した結果で、アメリカの子供は「自分の知識を増やすため」など自分自身のことが1番に来ます。これに対して日本の子供は「親を喜ばせたい」「先生にほめられたい」などが上位に来ます。他人との関係性が動機付けになっている。日本のプロ野球選手も「監督を胴上げできるように頑張りたい」とか言いますよね。アメリカ人はあまりそういうことは言わないでしょう。

 日本人は他人との関係性に生きているので、それを維持していけるコミュニケーション形態が一番重要なのです。

 ところが若い世代ではある意味そういうことを否定する訓練を受けてきているため、自分の立場や自分の本音を一方的に主張するというコミュニケーション形態が増えてきた。これがいろいろなところで摩擦を生み、昨今の殺伐とした社会状況を作り出していると言えます。

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