1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/24(火) 22:25:09 ID:ojqiXP3T0
梁の韋虎について語るスレです
韋 叡(い えい、442年 - 520年)は、南朝宋から梁にかけての武将。字は懐文。韋祖帰(韋玄の子)の子として生まれた。
先祖は関中の名族として著名な家柄であったが、東晋の劉裕が後秦を滅ぼした後、南朝に仕えるようになる。南朝斉の末年、反乱が相次ぐようになると、韋叡は願い出て上庸郡太守となり、雍州刺史の蕭衍と深く結びついた。
500年、蕭衍が蕭宝巻(東昏侯)に反乱を起こすと、韋叡は郡の人々に竹を伐って筏を作らせ、それに乗って川を下り、2000の兵と200の馬で蕭衍のもとに赴いた。蕭衍が郢州一帯を制圧するにあたって、韋叡の献策はすべて用いられた。蕭衍の軍が郢州を出発すると、韋叡は江夏郡太守・行郢州府事に任じられた。
郢州は籠城により多く者が病に苦しんでいたが、韋叡は彼らを哀れみ、適切な処置で救済したため、人々は彼を慕うようになった。
505年、北魏を討伐する命令を受け、淝水に堰を築いて合肥城を水攻めにし、これを陥落させた。
翌506年、北魏の中山王元英・楊大眼らが100万を号する大軍で鍾離を攻め、北徐州刺史の昌義之を包囲した。右衛将軍の曹景宗が20万の兵で鍾離の救援に向かい、韋叡も武帝の命を受け、豫州の兵を率いて邵陽洲で曹景宗と合流した。楊大眼・元英らが相次いで攻め寄せたが、いずれも韋叡の指揮により撃退された。
これより以前、北魏軍は鍾離を攻めるにあたって、邵陽洲の両岸に2本の橋を架け、淮水の上に道を通していた。韋叡は大艦をそろえ、梁郡太守馮道根・廬江郡太守裴邃・秦郡太守李文釗らに水軍を率いさせ、淮水の水位の上昇に乗じて敵陣を攻め、油をかけ草を満載した小船に火を放ち、橋を焼き払った。馮道根ら南朝梁の軍は奮い立って勇戦し、北魏軍を大いに打ち破り、鍾離の救援に成功した。
520年、侍中・車騎将軍に任じられたが、病気を理由に固辞、8月に家で亡くなった。享年79。
武帝は深く哀悼し、侍中・車騎将軍・開府儀同三司を追贈した。
韋叡は生来体が弱く、戦場でも馬に乗ったことがなく、常に儒服をまとい輿に乗り、竹の如意で軍を指揮した。将兵には思いやりをもって接し、自分が休むのは兵士の営所ができた後であり、食事をとるのも兵士たちの食事の準備が整ってからであった。
昼は客と接し、夜に起きては軍務を処理し明け方にまで及ぶこともあった。兵士たちをいたわり、いつも行き届かないことがないか気を配っていたため、兵士たちは争って彼に従った。
鍾離の戦いの後、曹景宗ら諸将は先を争って勝ち戦を報告したが、韋叡だけは後に残るなど、いつも戦功に頓着しない態度をとり、そのことで世間の賞賛を受けた。
慈愛をもって人々を治め、どの職にあっても常に治績をあげた。朝廷にあっては常に穏やかで慎み深く、武帝は彼を敬い礼遇した。
家では万石君(石奮)・陸賈の絵を壁に掛け、その人柄を慕っていた。
老いてからも公務の合間には子供らに学問を教えることを課していた。
思いやりのある人柄で、孤児となった兄の子供たちを手厚く養い、官で得た俸禄はすべて親類・友人に与えていたため、家に財産はなかったという。
先祖は関中の名族として著名な家柄であったが、東晋の劉裕が後秦を滅ぼした後、南朝に仕えるようになる。南朝斉の末年、反乱が相次ぐようになると、韋叡は願い出て上庸郡太守となり、雍州刺史の蕭衍と深く結びついた。
500年、蕭衍が蕭宝巻(東昏侯)に反乱を起こすと、韋叡は郡の人々に竹を伐って筏を作らせ、それに乗って川を下り、2000の兵と200の馬で蕭衍のもとに赴いた。蕭衍が郢州一帯を制圧するにあたって、韋叡の献策はすべて用いられた。蕭衍の軍が郢州を出発すると、韋叡は江夏郡太守・行郢州府事に任じられた。
郢州は籠城により多く者が病に苦しんでいたが、韋叡は彼らを哀れみ、適切な処置で救済したため、人々は彼を慕うようになった。
505年、北魏を討伐する命令を受け、淝水に堰を築いて合肥城を水攻めにし、これを陥落させた。
翌506年、北魏の中山王元英・楊大眼らが100万を号する大軍で鍾離を攻め、北徐州刺史の昌義之を包囲した。右衛将軍の曹景宗が20万の兵で鍾離の救援に向かい、韋叡も武帝の命を受け、豫州の兵を率いて邵陽洲で曹景宗と合流した。楊大眼・元英らが相次いで攻め寄せたが、いずれも韋叡の指揮により撃退された。
これより以前、北魏軍は鍾離を攻めるにあたって、邵陽洲の両岸に2本の橋を架け、淮水の上に道を通していた。韋叡は大艦をそろえ、梁郡太守馮道根・廬江郡太守裴邃・秦郡太守李文釗らに水軍を率いさせ、淮水の水位の上昇に乗じて敵陣を攻め、油をかけ草を満載した小船に火を放ち、橋を焼き払った。馮道根ら南朝梁の軍は奮い立って勇戦し、北魏軍を大いに打ち破り、鍾離の救援に成功した。
520年、侍中・車騎将軍に任じられたが、病気を理由に固辞、8月に家で亡くなった。享年79。
武帝は深く哀悼し、侍中・車騎将軍・開府儀同三司を追贈した。
韋叡は生来体が弱く、戦場でも馬に乗ったことがなく、常に儒服をまとい輿に乗り、竹の如意で軍を指揮した。将兵には思いやりをもって接し、自分が休むのは兵士の営所ができた後であり、食事をとるのも兵士たちの食事の準備が整ってからであった。
昼は客と接し、夜に起きては軍務を処理し明け方にまで及ぶこともあった。兵士たちをいたわり、いつも行き届かないことがないか気を配っていたため、兵士たちは争って彼に従った。
鍾離の戦いの後、曹景宗ら諸将は先を争って勝ち戦を報告したが、韋叡だけは後に残るなど、いつも戦功に頓着しない態度をとり、そのことで世間の賞賛を受けた。
慈愛をもって人々を治め、どの職にあっても常に治績をあげた。朝廷にあっては常に穏やかで慎み深く、武帝は彼を敬い礼遇した。
家では万石君(石奮)・陸賈の絵を壁に掛け、その人柄を慕っていた。
老いてからも公務の合間には子供らに学問を教えることを課していた。
思いやりのある人柄で、孤児となった兄の子供たちを手厚く養い、官で得た俸禄はすべて親類・友人に与えていたため、家に財産はなかったという。
4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/25(水) 01:06:46 ID:7+WmGzwkO
誰か詳しく知っている人、この人の概略を頼む
凄い興味あるんだが資料が無くて…
凄い興味あるんだが資料が無くて…
7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 11:20:59 ID:IjTS4ssfO
楊大眼に勝ったことしか知らないけど容貌に惹かれる
8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/28(土) 08:46:58 ID:BavDBui30
韋叡(442~520)
字は懐文。京兆郡杜陵の人。
宋の泰始元年(465)、雍州主簿に任ぜられた。
斉末には建威将軍・上庸太守となり、蕭衍と交わりを結んだ。蕭衍が起兵すると、郢州の留守をつとめた。梁初には輔国将軍・豫州刺史となった。
天監四年(505)、兵を率いて北伐し、翌年には合肥を攻め落とした。
六年(507)、北魏が反攻して中山王元英率いる大軍が鍾離を囲むと、豫州の兵を率い、征北将軍の曹景宗の軍と合して、北魏軍を火攻し大勝を博した。この功で永昌侯に封ぜられた。散騎常侍・護軍将軍にまで上った。
体が弱く騎馬に乗れず、輿に乗って督戦し、魏の人はかれを畏敬して「韋虎」と称した
字は懐文。京兆郡杜陵の人。
宋の泰始元年(465)、雍州主簿に任ぜられた。
斉末には建威将軍・上庸太守となり、蕭衍と交わりを結んだ。蕭衍が起兵すると、郢州の留守をつとめた。梁初には輔国将軍・豫州刺史となった。
天監四年(505)、兵を率いて北伐し、翌年には合肥を攻め落とした。
六年(507)、北魏が反攻して中山王元英率いる大軍が鍾離を囲むと、豫州の兵を率い、征北将軍の曹景宗の軍と合して、北魏軍を火攻し大勝を博した。この功で永昌侯に封ぜられた。散騎常侍・護軍将軍にまで上った。
体が弱く騎馬に乗れず、輿に乗って督戦し、魏の人はかれを畏敬して「韋虎」と称した
9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/28(土) 17:05:18 ID:0CnKDMPQ0
異民族の敵から褒められるのは名将の証
10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/29(日) 12:02:57 ID:26deI4230
抗金名将岳飛だって、敵から畏怖されたしね
13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/11(土) 20:35:29 ID:RHkm29VM0
身体が弱かったらしいね。
14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/17(金) 13:39:09 ID:Ih508dKX0
「韋虎」について検索したら、ここが最初にヒットしたw
15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/29(水) 12:27:17 ID:SWEfWNpO0
それだけマイナーということか……
18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/15(木) 16:01:21 ID:+El2VFbQ0
騎馬に乗れずに輿に乗って督戦するって、日本の戦国時代の立花道雪みたいだね。
立花道雪こそは日本の韋叡か。
立花道雪こそは日本の韋叡か。
20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/15(木) 19:45:39 ID:YE3VGJ3DO
いやいや大谷刑部少輔吉継だろ
病気の所為で輿に乗って督戦してるし
寧ろ彼の方が韋叡の状況に近いじゃないか?
病気の所為で輿に乗って督戦してるし
寧ろ彼の方が韋叡の状況に近いじゃないか?
19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/15(木) 18:38:06 ID:SQXTj9U/0
>>18
つ上杉謙信
つ上杉謙信
21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/04(日) 23:42:20 ID:X6vs+Uuq0
>>19がなぜ上杉謙信を示したのかが分からない。
22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/04(日) 23:59:07 ID:qKnmk28C0
>>21
ああ、常山記の記録に、「梁の韋叡の風あり」と書かれているからだよ。
上杉謙信は杖を指揮棒として使ったそうな。それが当時の人らには、韋叡を髣髴とさせる、と持ち上げたのだろう。
真偽のほどは知らんけどね。
ああ、常山記の記録に、「梁の韋叡の風あり」と書かれているからだよ。
上杉謙信は杖を指揮棒として使ったそうな。それが当時の人らには、韋叡を髣髴とさせる、と持ち上げたのだろう。
真偽のほどは知らんけどね。
23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/20(火) 23:53:30 ID:exdkBklg0
韋叡って結構有名だったのかね
24: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/21(水) 12:14:04 ID:hw5oNMCnO
>>23
基本的に書いてる方も知識階級だから、今の学者が書いた論文を想像してもらえばいい。
なら知っててもおかしく無さげだろ?
幕末の河井継之助が、古賀茶渓の所の書庫にあった李忠定公集を、ぜんぶ書き写したという。
李忠定公が誰で、どのような業績を残した人物かを、知ってる人はあまりいないと思うが、江戸時代には書物が入ってきている。
平家物語には朱イが、中国史上の最悪の家臣と紹介されてるが、これまた、いつどこで、ナニをしたからそう言われてるのか、分かる人も少ないだろう。
人間がとつじょ進化をとげて、まったく別のモノにならない限り、全体の知識の量なんてたいして変わらない。
基本的に書いてる方も知識階級だから、今の学者が書いた論文を想像してもらえばいい。
なら知っててもおかしく無さげだろ?
幕末の河井継之助が、古賀茶渓の所の書庫にあった李忠定公集を、ぜんぶ書き写したという。
李忠定公が誰で、どのような業績を残した人物かを、知ってる人はあまりいないと思うが、江戸時代には書物が入ってきている。
平家物語には朱イが、中国史上の最悪の家臣と紹介されてるが、これまた、いつどこで、ナニをしたからそう言われてるのか、分かる人も少ないだろう。
人間がとつじょ進化をとげて、まったく別のモノにならない限り、全体の知識の量なんてたいして変わらない。
28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/17(木) 22:11:16 ID:mLHOfhjQ0
>>24
李忠定と朱イとやらのこと教えてくれ
初めてそんな名前聞いたぞ
李忠定と朱イとやらのこと教えてくれ
初めてそんな名前聞いたぞ
37: 通りすがり 2007/08/26(日) 09:25:18 ID:+SrjsNYEO
>>28
李忠定公は李綱のことだよ。
諡号が忠定なんだ。
中国史の人物名とかで、『公』とか後ろに付いてたら、諡号だと思った方が良いよ。
李忠定公は李綱のことだよ。
諡号が忠定なんだ。
中国史の人物名とかで、『公』とか後ろに付いてたら、諡号だと思った方が良いよ。
29: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/18(金) 09:18:57 ID:aLTo8uEb0
朱异は梁の武帝の寵臣で、侯景の乱を招いて梁の滅亡を招いた人物。
秦の趙高、漢の王莽、唐の安禄山と並ぶ大悪党みたいに言われることもあるけど、一応武帝に忠義は尽くしていたみたいだし、そこまで悪人とは言えないと思うけどね。
秦の趙高、漢の王莽、唐の安禄山と並ぶ大悪党みたいに言われることもあるけど、一応武帝に忠義は尽くしていたみたいだし、そこまで悪人とは言えないと思うけどね。
30: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/20(日) 03:06:43 ID:IMB/AYN20
朱イは典型的な恩倖だろう
貴族に対して、経済力を持った人間が直接皇帝と結びついて辣腕を振るう
まぁ寒門だわな。後世の歴史は貴族側が書くからどうしたって悪役
貴族に対して、経済力を持った人間が直接皇帝と結びついて辣腕を振るう
まぁ寒門だわな。後世の歴史は貴族側が書くからどうしたって悪役
34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/08/03(金) 00:09:48 ID:ojOdLRfu0
まあ当時の日本の認識じゃ国を傾けた逆臣ってことでひとくくりにされてたんじゃね?
なぜ宇宙大将軍じゃなくて朱イごとき小物が入ってるのか分からんが。
なぜ宇宙大将軍じゃなくて朱イごとき小物が入ってるのか分からんが。
35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/08/24(金) 16:16:37 ID:IVEPfF6w0
韋叡って有名な子孫はいないの?
36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/08/24(金) 19:00:28 ID:zquvRPBSO
>>35
子の韋放 孫の韋載
子の韋放 孫の韋載
41: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/04/22(水) 10:54:29 ID:qg2EAyrd0
>>36
子の韋粲もなかなかのモンだ。
侯景討伐のために柳仲礼麾下にはせ参じて、一族郎党とともに斬り死に。
その前に、柳仲礼都督に反発する裴之高を叱り飛ばしてたり。
子の韋粲もなかなかのモンだ。
侯景討伐のために柳仲礼麾下にはせ参じて、一族郎党とともに斬り死に。
その前に、柳仲礼都督に反発する裴之高を叱り飛ばしてたり。
42: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/07(日) 05:47:25.65 ID:pmY4bCtZ0
日本人好みの軍師キャラだと思う
引用元: ・【竹杖】韋叡【虚弱体質】
韋叡の甥の韋洵は韋放の下で敵に単騎突撃を敢行するなど下の世代は丈夫だったようだ