[註記追加 8.16][文言変更 8.20]
[図版改訂 文字を大きくしました。 6月3日 11.41]
先回、多雨・多湿の環境ではいわば宿命的な「木の腐朽」に対して、古人がいかに腐心してきたか、触れました。
つくった建物が容易に腐ってしまっては困りますから、当然のことです。
一方古人は、それより前に、そのような多雨・多湿の環境で、そして頻発する地震、毎年襲う台風に付き合いながら暮すには、どのようなつくりの空間がふさわしいのか、当然考えていたはずです。
大分前になりますが、建物の原型は住居であり、住居の基本・原型は「出入口が一つのワンルームの空間」であること、そしてまた、古い住居ほど、開口部の少ない閉鎖的なつくりであることについて書きました(下註参照)。
それは、その閉鎖された空間だけが「家人が安心して居られる場所」だったからでした。
註 「日本の建築技術の展開-1・・・・建物の原型は住居」
「分解すれば、ものごとが分るのか・・・・中国西域の住居から」
中世の文人が、「住まいは夏を旨とすべし」と言っていますが、このことは、たとえ気象に変動があったにしても、古代においても、それ以前においても、そしてまた現代においても、日本の置かれた環境では当を得た言であることに変りはない、と私は思っています。
註 現代人はそのようには考えてはいない、と思うかもしれません。
しかし、電力消費量が最大になるのが真夏である、というのは、
現代人もまた「夏を旨」とせざるを得ない証でもあります。
[文言変更 8.20]
その点では、閉鎖的な空間は、蒸れてくると、しのぎにくい場所になったと思います(もっとも、常時人が暮していないからかもしれませんが、民家園などで、真夏、茅葺屋根で土壁で覆われた閉鎖的な空間に入ると、最近のつくりの住居に比べれば数等しのぎやすい)。
当初の閉鎖的なつくりの住まいも、自分が安心して居られる場所が建屋以外に広がると、つまり、自領の屋敷のなかに建屋がつくることができるようになると、建屋自体が壁の少ない開放的なつくりに変ってきます。すでに、古代においても、貴族の住まいはそうなっています(下註:「寝殿造」参照)。
註 「日本の建築技術の展開-2の補足・・・・身舎・廂、上屋・下屋の例」
では、「壁の多いつくり」と「壁の少ないつくり」では、架構のつくりかたに、何か違いがあったのでしょうか。
おそらく、現在の「建築構造理論」や木造建築の「仕様」を見慣れている方の多くは、「壁の少ないつくり」では、外力に対する「耐力要素」が少なくなるのだから、それに見合う対策を講じなければ地震や大風で倒れてしまう、と考えるのではないでしょうか。
しかし、これまで見てきたように、そのような事実はありません。
つまり、「壁の多いつくり」の架構も、「壁の少ないつくり」も、「架構」すなわち「軸組」「小屋組」には何の違いも見られないのです。
言い方を変えると、架構のつくりは同じで、随意・任意に壁が付加されていたのです。壁の量の多少と、架構の強さは直接関係がないのです。
壁が一定量なければ保てない架構、そんな暮すに不便きわまりない架構などは考えなかったのです。
そしてそれこそが、多雨・多湿、地震が頻発し、台風に襲われるという環境のなかで培われたわが国の建物づくりの技術だったのです。
以上は、長くなりましたが、今回、この点にしぼった「まとめ」を書くための「前置き」です。
現在の木造建築の「専門家」は、もうすでに何度も書いてきたように、『架構は「耐力部分(要素)」+「非耐力部分」で構成される』と考えています。
そして今、これも何度も紹介してきたように、「いわゆる伝統的工法」をも、その考え方で解析?すべく実験を繰り返しています。
「耐力部分(要素)」として挙げられる一つが「壁」です。
そこで、今回は先ず、以前にも触れていますが、かの「浄土寺・浄土堂」では、「壁」をどのように扱っているかを具体的に紹介します。
記述に正確を期すために、今回は「修理工事報告書」のなかの解説をそのままそっくり紹介します。それが、上掲の図版下の文章です。
「浄土寺・浄土堂」の平面、断面、立面などは、下註記事にありますので、お手数ですが、開けてみてください。
註 [追加 8.16]
「日本の建物づくりを支えてきた技術-19」
「日本の建物づくりを支えてきた技術-20」
「浄土寺・浄土堂」は、東大寺南大門同様、建立以来、800年以上もの間健在です。「浄土寺・浄土堂」は、大修理も行われたことがなく一時期荒れていたこともありましたが、倒壊に至るようなことはありませんでした。もちろん、その間、何度も地震や台風にも遭遇しています。
したがって、この建物が健在であり続けた理由を、「現在の木造建築の専門家の考え方」で解釈・説明するには、その建物に、有効な「耐力要素」がなければならないことになります。
「筋かい」は見当たりませんから、残るは「壁」。
この建物の「壁」は、上掲の解説にもあるように、「横板壁」と「小舞土塗壁」です。
「横板壁」の板厚は、0.16尺:約5cm弱。土塗壁は上掲の仕様で厚さ0.3尺:約9cm。
柱間20尺:約6m、柱径1.8~2.0尺(約54~60cm)、軒高約18尺:約5.4mです。
この建物の主な壁は「横板壁」ですが、この板厚では、現在の法令規定の「落し込み板壁」と見なすわけにはゆきません。ゆえに、現在の考え方で言う「耐力要素」になならない。
「小舞土塗壁」にいたっては、上掲仕様で分るように、軸組の大きさから見て、まったく現行法令規定:つまり現在主流の「構造理論」には適合しません。
ということは、現行法令の規定する「耐力要素」が皆無なのに、「浄土寺・浄土堂」の建物は、800年以上の歳月、無事だったということです。
つまり、別の言い方をすれば、架構:骨組みだけで外力に堪えてきたのです。
これは、「偶然」なのでしょうか?
そうではありません。「必然」なのです。
少なくとも有史以来、現場の技術者の間で継承され、成長してきた技術の一つの表れが、12世紀の末に一つの「結果」を生んだのです。だから「必然」なのです。
私は、こういった実例が現に厳として存在することを、現代の「専門家」は素直に認めるべきだ、と考えます。
この厳然とした事実を直視したとき、
「伝統構法は、現代的な科学技術とは無縁に発展してきたものであるだけに、その耐震性の評価と補強方法はいまだ試行錯誤の状態であり、今後の大きな課題である。・・・」(坂本功「木造建築の耐震設計の現状と課題」「建築士」1999年11月号より)
などいう戯言を言うのは「無恥」というものではないか、と私は思います。
そして、現在行なわれている「実験」は、「恥の上塗り」だ、とも思っています。
それとも、「浄土寺・浄土堂」や「東大寺南大門」、あるいは「西本願寺御影堂」等々は特別なのだ、とでも言うのでしょうか。
そうではなく、それが普通、それで普通なのだ、ということを、次回は農民の住居「古井家」の「壁」で見てみようと思います。
これは、もう長いことやってきましたが、「現在の(木造)構造理論」では「事実」が解釈できない、ということの確認のための重ねての試みです。
「現代的科学技術と無縁だから解釈できない」のだ、などとして見ないで済ますようなことは、私の「趣味」に合わないのです。
まして、『「現在の理論」で解釈できないものは、その存在を認めない』などという乱暴な論理?を認めるような「趣味」も、私は持ち合わせていません。