新潟県建築士会の応急危険度判定に関わった方が、今回の地震では、前回の「中越地震」に比べ、土蔵の被害が多いようだ、との感想を述べておられた。
一般には、軟弱地盤では通常の木造建築(軸組工法)が被害を受けやすく、しっかりした地盤では、木造建築の被害は少なく、土蔵が被害を受けやすい、と言われている。関東大震災の調査でもそのような傾向があったという。
それから言えば、今回多く被災した地域は、大半が軟弱地盤:砂質地盤であり、これまでの「常識」とは異なることが起きたことになる。
これは、地震の被災を、このような「図式」で一般化して理解しまうことは、危険だ、ということを示唆しているように思える。一つずつ事例を詳しく観察することから、その事例の被災の理由を探る、という方法をとらなければならないのではないか。
これは、医学の世界、特に臨床医学では、大原則と言ってよい。個々の患者の症状を、「一般的傾向」で図式的に理解してしまっては、患者の治療にはならないからだ。第一、「一般的傾向」とは、個々の事例の集積、個々の事例への対応の集積の結果、読み取れたことにほかならない。
ところが、こと地震被害については、この「臨床」を省略した統計が大手を振って歩いているように思えてならない。かねてから私が「疫学的」調査・検討と言っているのは、単なる統計ではなく、「臨床」結果の統計的観察のことなのだ。
註 倒壊した土蔵のうちのいくつかは、
写真で見るかぎり、形を維持したまま転倒しているように
見受けられる(実際を見ていないから詳しくは分らない)。
ことによると、地盤が波打ったことによる転倒なのでは
ないだろうか。
それはさておき、「土蔵」とはどのようなつくりなのか。
先に紹介した近江八幡の旧家・西川家の修理工事報告書(「重要文化財 旧西川家住宅:主屋・土蔵:修理工事報告書(滋賀県)」)に、西川家の土蔵についての詳細な報告がなされていた。
上掲の写真、図は、同書から転載・編集したものである。
西川家の土蔵は、主屋よりも20年ほどさかのぼる天和年間:1681年~1683年:の建設とされる(妻梁に墨書)。ただ、明治44年:1911年に、屋敷内の南西隅から北西隅(現在位置)に曳家されている。
長い間空き家の時期があったため、修理時には、壁はほとんど剥落に近い状態であった。
写真、図面は解体修理後の状態である。
一般に、土蔵は完成まで最低でも三年かかると言われているが、西川家の解体・復原工事では、次の工程がとられている。
初年度(1985年):実測調査および解体の一部(野地、1階床組、
1・2階壁板、土壁全面)。
次年度(1986年):実測調査および解体(軸組、小屋組を残して完了)、
基礎工事、木工事、屋根工事、壁は小舞掻き・斑直しまで。
三年次(1987年):木工事残、および壁工事の中塗り~上塗り完了、
建具修理等。
木工事は、ほとんどすべて元の材が使用可能であったから、材料の収集、墨付け、刻みの工程が不要であった。
それにもかかわらず三年を要しているのは、単に実測調査が加わったからだけではないだろう。もっとも、仕事もきわめて丁寧に往年の工法を復原している(工程の写真も報告書にあるので、紹介したい)。
なお、この土蔵で破損・腐朽が著しかったのは、1階の床で、何度も取り替えられていたらしい。
写真(上掲写真右列下段)で分るように、1階の床は、布石(数段積みの高さ)に囲まれた中に、軸組とは別個に組まれ、きわめて床下の通風も悪い。これは腐朽の最たる原因。
もっともこれは、想定済みで、だからこそ、軸組とは無関係に組んだものと思われる。