疑うということ2
日本人は、印刷物に書いてあるものが“正しい”ことに慣れすぎている、と思う。
ひとつの原因は、学校教育で使う(少なくとも高校までの)教科書は
基本的に“正しい”ことしか書いていないからだろう。
理科でも社会でも、基本的に“真実”“定説”とされている事柄しか記載されていない。
現在進行形の理論を取り上げることは御法度のようだ。
だが、学問をするうえでこれは大きなマイナスだと私は思う。
科学理論が健全に(というのもおかしいが)発展していくには、
いくつもの反論や不備の指摘を受け、
その都度検証し、新しい実験を行い、ときには出発点にたち返って
理論が正しいかどうかを確認していかなくてはならない。
そういう過程を経てはじめて、信頼できる理論が生まれてくる。
たとえその分野の権威が発表した理論であろうが、
いったんはそれを疑うというのが、科学の世界ではあたりまえのことだと思う。
こうして確立された理論であっても、数年後、あるいは数十年後には
全面的にもしくは部分的に間違っていることが証明されるかもしれない。
ヴェーゲナーの大陸移動説などというのは、昔は
「おもしろいけれど、間違っていることが証明された」と学校で教えられていたそうだ。
いまではプレートテクトニクスはさまざまな面から検証され、
ヴェーゲナーの理論が基本的には正しかったことと考えられるようになった。
(たまたまヴェーゲナーの『大陸と海洋の起源』を読んだことがあるけれど、
読み物としてもおもしろかった。それにこの本を見ると、ヴェーゲナーが単なる思いつきとして
この理論を唱えたのではなく、きちんと検証していることがわかる。
両方の海岸線の生物化石とか地質的特徴とか)
☆続きは下をクリック
☆←泡瀬埋め立てに反対する方は署名をよろしくお願いします!
今日はもう1本、泡瀬に関するさめさんのトラックバックを紹介しました。
ぜひさめさんのブログをご覧くださいませ。
このように学問には、とりわけ科学には紆余曲折があるにもかかわらず、
日本では(というか他の国がどうなのか、実はよく知らない)
“正しい”(つまり、この時点で正しいとされていること)ことしか教えようとしない。
これはおかしいのではないだろうか?
最初の教育で「教科書に書いてあることは正しい」として、物事を教えてしまう。
それは書いてあることが本当に正しいのか疑うことを忘れさせてしまう。
そうではなく、この理論はこういう背景の中、このようにして生まれたのだ、と、
そしてこのような反論があったと、そういうことを教える必要があるのではないだろうか?
すでに確立した理論だけではなく、現在進行形の理論も取り上げてもよいのでは?
いまはこのような根拠で、こう考えられているが、
これに対抗する仮説としてこういうものもあると、教える。
ときには教えた理論が間違っていることもあるだろう。
それはそれでよい。
この場合は、もともと絶対的に正しいとして教えているわけではないから。
教育も、やり方によってはある種の洗脳になってしまう。
日本人が本当に自分で考える人間になるためには、教育では
まず疑うこと、というか、自分で本当に正しいかどうかを考えることを
もっとも大切にすべきではないのだろうか?
いわゆるパラダイムシフトを起こす理論は、
常識や定説に反するものであることが多い。
いま存在するものを疑わなければ、先へ進むことは困難だと思う。
(いったいこの記事、いつ書き始めたんだっけ…笑)
☆関連記事
疑うということ1
☆1/26 書き忘れに気づき、最後3行追加。と思ったら、すでにコメントついてましたっす。
お返事は後ほど~^^
ひとつの原因は、学校教育で使う(少なくとも高校までの)教科書は
基本的に“正しい”ことしか書いていないからだろう。
理科でも社会でも、基本的に“真実”“定説”とされている事柄しか記載されていない。
現在進行形の理論を取り上げることは御法度のようだ。
だが、学問をするうえでこれは大きなマイナスだと私は思う。
科学理論が健全に(というのもおかしいが)発展していくには、
いくつもの反論や不備の指摘を受け、
その都度検証し、新しい実験を行い、ときには出発点にたち返って
理論が正しいかどうかを確認していかなくてはならない。
そういう過程を経てはじめて、信頼できる理論が生まれてくる。
たとえその分野の権威が発表した理論であろうが、
いったんはそれを疑うというのが、科学の世界ではあたりまえのことだと思う。
こうして確立された理論であっても、数年後、あるいは数十年後には
全面的にもしくは部分的に間違っていることが証明されるかもしれない。
ヴェーゲナーの大陸移動説などというのは、昔は
「おもしろいけれど、間違っていることが証明された」と学校で教えられていたそうだ。
いまではプレートテクトニクスはさまざまな面から検証され、
ヴェーゲナーの理論が基本的には正しかったことと考えられるようになった。
(たまたまヴェーゲナーの『大陸と海洋の起源』を読んだことがあるけれど、
読み物としてもおもしろかった。それにこの本を見ると、ヴェーゲナーが単なる思いつきとして
この理論を唱えたのではなく、きちんと検証していることがわかる。
両方の海岸線の生物化石とか地質的特徴とか)
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今日はもう1本、泡瀬に関するさめさんのトラックバックを紹介しました。
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このように学問には、とりわけ科学には紆余曲折があるにもかかわらず、
日本では(というか他の国がどうなのか、実はよく知らない)
“正しい”(つまり、この時点で正しいとされていること)ことしか教えようとしない。
これはおかしいのではないだろうか?
最初の教育で「教科書に書いてあることは正しい」として、物事を教えてしまう。
それは書いてあることが本当に正しいのか疑うことを忘れさせてしまう。
そうではなく、この理論はこういう背景の中、このようにして生まれたのだ、と、
そしてこのような反論があったと、そういうことを教える必要があるのではないだろうか?
すでに確立した理論だけではなく、現在進行形の理論も取り上げてもよいのでは?
いまはこのような根拠で、こう考えられているが、
これに対抗する仮説としてこういうものもあると、教える。
ときには教えた理論が間違っていることもあるだろう。
それはそれでよい。
この場合は、もともと絶対的に正しいとして教えているわけではないから。
教育も、やり方によってはある種の洗脳になってしまう。
日本人が本当に自分で考える人間になるためには、教育では
まず疑うこと、というか、自分で本当に正しいかどうかを考えることを
もっとも大切にすべきではないのだろうか?
いわゆるパラダイムシフトを起こす理論は、
常識や定説に反するものであることが多い。
いま存在するものを疑わなければ、先へ進むことは困難だと思う。
(いったいこの記事、いつ書き始めたんだっけ…笑)
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疑うということ1
☆1/26 書き忘れに気づき、最後3行追加。と思ったら、すでにコメントついてましたっす。
お返事は後ほど~^^
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科学の健全な発展のために
正しい考え方はただ一つと思ってるのも困ったことで,ある問題についてA説とB説の二つの学説があると言うことを講義で話したら「どっちを信じたらいいのか」という愚問があって参っちゃいました.
いまの義務教育って「天動説だけが正しく,他の説は異端だから火あぶり」というのを思い起こさせます.