収納しないブログ

持ち物を減らして収納術不要の暮らしを目指しています

汚家育ちのミニマリストは、洗面台を片付けたい。

こんな夢を見た。

実家に帰省すると、居間や客間に堆く積まれていたはずの衣類や古新聞、亡くなった祖父母の遺品や押し入れに詰め込まれていた古い寝具、私たちきょうだいが子供の頃に使っていた学用品といった「不要品」の類がきれいに撤去されている。以前、居間の座卓に所狭しと置かれていた調味料、チラシ、湿気た米菓、出なくなった無数のボールペン、爪楊枝、なども撤去され、こざっぱりした空間で、実父母が穏やかにお茶を飲んでいる。

見違えるほど片付いた実家の様子に私は驚き、心の底からじわじわと喜びの感情が湧いてくるのを抑えきれない。「すごい!頑張ったじゃん!」。実父母にそう声を掛けたところで、

目が覚めた。

 

中学卒業まで「散らかった家」で育った収納しない系お片付けブロガーの優多(ゆた)です。

時々見る、「散らかった家が片付いている夢」。これって何かの暗示なんでしょーか。

さて。

「散らかった家」のトラウマは、現在の私の「モノをたくさん持ちたくない」という嗜好に大きな影響を与えてくれています。その思いが象徴的に現れている空間の一つが「洗面台」です。「散らかった家あるある」だと思いますが、実家の洗面台や洗面室の窓枠のふちには、古い洗剤ボトルや化粧水の空き瓶、数年前の日焼け止め、使用済み歯ブラシ、旅先から持ち帰って放置されたままのアメニティ類、錆びたカミソリ、ひび割れた石鹸など夥しい量のモノたちで溢れていました。

「もう使わないモノたち」に占拠された空間の隙間に、「いま現在使われているモノたち」が肩身狭そうに置かれている、といった有様。

洗面台というスペースの特性上、「使わないモノたち」の表面には石鹸カスや水滴、化粧品などの油分が飛散し、その上に埃が付着していきます。そう。水回りにモノが多いと、「散らかりのスパイラル」が指数関数的に悪化していくのです。

 

そんな「洗面台トラウマ」を抱えて成長した私が、自分で建てた家に於いては「洗面台の清潔と静寂」を死守したいと願うのは自然の摂理だと思いませんか…。思いませんか…(2回言ってみる)

基本的に「洗面台の棚は空けておく」が正義と思っている節があります。

洗面台収納は新築時に造り付けで設置したもの。通気性を考えて「扉」はあえて付けませんでした。「よし、今日も収納スペースはガラ空きだな!」と確認して、心の静寂を得て元気に出社するのであります。

「洗面台を磨く」は、毎朝のルーティン。身支度を整えた後に、鏡面に吸盤で貼り付けた丸型スポンジでささっと磨きます。水回りは、汚れがたまらないうちに「ちょこっと掃除」が肝ですね…毎日30秒でも磨いておけば、大掛かりな掃除も不要です。

我が家に来客者の中には「洗面台にモノを置かないのは分かったけど、歯ブラシとか洗面用具とかはどこに置いているのさ」という疑問を持たれる方も少数ながらいらっしゃるので、近々それらの収納スペースもご紹介できればと思います。

 

さて、このように私の「片付けたい欲求」の原点となった「散らかった実家」についてですが…

今までも時々ブログで触れていた通り、「自分以外の他者に片付けを強要する」ことの無意味さ、有害さを私自身、よく分かっているので、「片付けない」というライフスタイルも両親が選んだ生き方だと捉え、口を出さないようにしています。いつか実父母が「家を片付けたいんだけど手伝って欲しい」等と相談してくれることがあったら、快く力になってあげたいとは思っています。来るのかな、そんな日は。

ちなみに「片付けの価値観」は全く異なる私と実父母ですが、関係自体はとても良好です。

たまに一緒に旅行したり外食したり、仲は良い方だと思います。

yuringo738.hatenablog.com

私の現在の思考パターンと行動特性を育んだ源は、間違いなくこの「散らかった実家」にありますので、私はどこかで感謝してもいるのです。

 

親は親、私は私。それぞの選んだ人生を淡々と、だけど燦々と、過ごしていきたいと思う。

 

明日も愉快な人生を〜