収納しないブログ

持ち物を減らして収納術不要の暮らしを目指しています

捨てなければ、始まらない。

今日の結論はシンプル。「捨てることと向き合わなければ、片付けは進まない」

収納しない系お片付けブロガーの優多です。

 

「捨てるかどうか迷ったら、一時保管ボックスに入れて様子をみましょう」

と、優しい言葉をかけてくれる片付け本もあるでしょう…

しかし、

モノで溢れ掃除すらままならない状態の部屋から抜け出したいのなら、

「片付けなきゃ」という強迫観念にも似た薄暗い焦りを抱えて休日を迎える日々から抜け出したいのなら、

贅沢ではなくても気に入った家具や食器や雑貨だけに囲まれてストレスのない暮らしを手に入れたいのなら、

やっぱり結局は、持ちすぎたモノを「捨てる」ことからしか物事は始まらない、と思うのです。

 

改めて、こんなことを考えたきっかけは、母の日に実家を訪問したから。

私の「過剰ともいえる片付け欲求」を育んだ、「散らかった実家」の話は過去に何度か叙述している通り▽

yuringo738.hatenablog.com

結局、花ではなくお菓子(残るモノではなく消えるモノを贈るのが鉄則…)を選んで持っていきました。母は60代後半、父は70代前半。おかげさまで大きな病気をすることもなく、田舎で小さな畑と田んぼを耕しながらのんびりと暮らしています。

家の中はといえば…相変わらず廊下には大量の衣類や書類が積まれていて、居間にも用途不明な雑貨(箱に入れたままの粗品やお茶の輪シミがついた市報など)が溢れていました。壁には、企業ロゴの入ったA2サイズのカレンダーが幾つも貼られて隙間がないほど…。

「変わってないなー」と思いつつ、「親は親、自分は自分」と割り切って生きると決めてから久しいので、「片付けたら?」などとは進言しません。

 

モノに溢れた実家で、母が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、ふと「今この時、大きな地震が起きたらどうなるだろう?」と考えました。

 

きっと、テレビ台に所狭しと置かれた干支の貯金箱は崩れ落ち、背の高い本棚に積まれた黄ばんだ書類が入った紙袋や段ボールが勢いよく落ちてくる。靴箱(中にはもう履かない靴が満タンに詰まっている)の上に雑多に置かれた花瓶が音を立てて割れ、三和土にガラスの破片が散乱する。普段使いの靴は靴箱ではなく三和土に並べてあるので、ガラスの欠片は靴の中にも入るかもしれない。

 

昨今の、日本列島における地震の多さを思い起こして、不安になりました。

それで、余計なお世話と思いながらも、お茶を啜る父と母に「ちょっと家の中のモノを減らしたら〜?」と進言してみた私。

はい。分かっているのです。今さら、娘にちょっと言われたくらいで片付けるなら、もう使わないモノを手放せるなら。ここまでの状況には、なっていない。

やっぱり、の結果ですが、父母とも真剣に捉えた様子はなく、聞き流してお茶を飲んでいました。

私も、それ以上、強くは言いません。

今まで、何度も「片付けよう」と促してきたけれど、

「家の主人」である父母にその気がないのなら、

それは仕方のないこと。

その家に居住していない私が、「危険だから」などと言って、部屋の中のモノを勝手に捨てるわけにはいきません。

 

数十年かけて、手がつけられないほどモノが増えてしまった状態にあっては、

小手先の収納術など、焼石に水です。「一時置きボックス」など、言わんやをや。

まずは、捨てなければ始まらない。

鉄の意志を持って、「要」と「不要」を軸に、バッサバッサと捨てまくって、

それで「不要」なモノの量を半分くらいに減らしてから、

それからようやく「理想の暮らし」のイメージが朧げに見えてきて、

そうすると「残したいモノ」の軸がより明確になるから、

片付けが加速度的に進んでいく。

片付けって、そういうサイクル。まずは、捨てなければ始まらない。

 

そして、「片付けたいという強い意志」がなければ、「捨てること」は、始まらない。

大切な両親には、綺麗に整頓された清潔な家で暮らしてほしい。そんな気持ちもあるけれど、両親の人生は両親の人生だから、彼らがそれを望まないのであれば、私にできることはありません。

 

彼らは彼らの望む生き方を。

私は、私が心地よいと感じる生き方を。

それぞれ選んで、それぞれ愉快に生きていくしかありません。

同居家族以外との価値観の違いに思い悩むのはめっちゃ不毛だから、

フルーツ食べて美肌活動に勤しむよ。

そんな、月曜日。