fc2ブログ

    高市総務相の「電波停止発言」に脊髄反射する者たち

    ← 応援クリック、ありがとうございます。

     高市早苗総務相が、放送局が「政治的に公平であること」と定めた放送法の違反を繰り返した場合、電波法に基づき電波停止を命じる可能性に言及したことについて、野党が一斉に猛反発している。高市大臣は電波停止に関して、「行政が何度要請しても、全く改善しない放送局に何の対応もしないとは約束できない」と語ったまでだが、法律が設定され、「政治的な公平性」が定められている以上、これは当たり前のことではないか。

    高市早苗総務相


     この件について、左派メディアやブロガーたちがやいのやいのの大騒ぎだ。彼らの主張は、概ね、古館や岸井といった、安倍政権に批判的なキャスター・コメンテーターが相次いで降板することを、安倍政権による圧力と無理やり結び付けている。だが彼らは、その因果関係を示す明確な根拠を全く提示していない。要するに、彼らの勝手な妄想であり、現象をプロパガンダと結び付けたいだけなのだ。

     また、「放送法は倫理規定であり、努力目標であって義務ではない。だから公権力が介入するのは、表現の自由の侵害だ」という意見も散見される。私は法律に詳しいわけではないが、彼らのこの主張は、放送法第174条を読めば一目瞭然で誤りだということがわかる。

    (業務の停止)
    第174条 総務大臣は、放送事業者(特定地上基幹放送事業者を除く。)がこの法律又はこの法律に基づく命令若しくは処分に違反したときは、3月以内の期間を定めて、放送の業務の停止を命ずることができる。


     倫理規定なら、罰則を設ける必要はない。放送法が罰則規定を定め、その所管が総務相であるから、高市大臣はその法律に沿って、一般論を述べたに過ぎない。これが問題視されるのなら、「法治国家」の看板を返上しなければならないのではないか。「倫理規定」だの「表現の自由」など主張する輩には、「放送法第174条、読んだ?」と返せば事足りる。

     民主党の細野豪志は、高市発言に関し、「放送法の乱用だ。電波停止に言及した意味は非常に重い」と述べ、もはや第二民主党と定義すべき維新の党の幹事長、今井雅人は、「これまで安倍晋三政権はメディアに圧力をかけている。高市氏の発言は不適切だ。もう少し政府は謙虚にならないといけない」と批判している。

     いちいち反論する気にもならないが、所管大臣が放送法第174条の「業務の停止」について法律のままを述べたことが乱用にあたるなら、「総務相は仕事をするな」と言っているようなもので、法令遵守という大原則の無視だともいえる。今井の「安倍政権はメディアに圧力をかけている」という発言は、根拠を示さない以上、憶測の域を出ず、「政府の謙虚さ」と法の優先度が滅茶苦茶だ。

    輿石東


     2012年、時の民主党幹事長だった輿石東は、番記者たちの前で「間違った情報ばかり流すなら、電波を止めてしまうぞ!政府は電波を止めることができるんだぞ。電波が止まったら、お前らリストラどころか、給料をもらえず全員クビになるんだ」と恫喝した。「気に入らない報道があると政治部長を呼びつけて恫喝することで有名(出典Wikipedia)」だった輿石は、度々この手の発言をし、逆に炎上している。

     輿石の例でもわかる通り、高市発言によってマスメディアが萎縮することはない。そもそも、法律にそって番組を構成していれば、怖いものはないのだ。放送法をチラつかされ、萎縮するようなら、彼らの今までの番組作りになんらかの瑕疵があったことの証左である。マスメディアは、「角度」をつけて大失敗した朝日新聞を反面教師とし、放送法の精神に立ち返るべきである。


    最後までお読みいただき、ありがとうございます。
    当ブログはブログランキングに参加しています。ご面倒ですが、是非ともバナークリックをお願いいたします。
    にほんブログ村 政治ブログへ
    バナーが表示されない場合はこちらから。
    人気ブログランキング | にほんブログ村 政治ブログ | FC2 ブログランキング

    5 Comments

    yasu

    法律を恣意的に解釈したがる連中

    ぱよちんブサヨどもは法律を恣意的に解釈したがる。
    罰則条項まである法律が「倫理規定」って何それ。
    「表現の自由」は法を上回る概念ではない。
    法を無視するならポルノは全面解禁してもいいことになる。
    それでもいいの? ぱよちんブサヨのお花畑さん。

    • 2016/02/10 (Wed) 10:56
    • REPLY

    NP

    反日偏向メディアの総反発

    高市総務相の放送局が「政治的に公平であること」と定めた放送法の違反を繰り返した場合、電波法に基づき電波停止を命じる可能性に言及したことにまったく問題はなく、「公共性の高い放送」というものが「政治的に偏向している」としたら社会に害毒を無制限に流しているということと同じことだと思います。

    高市総務相は別に「与党に従わない放送局は電波停止を命じる可能性がある」と言っているわけではなく電波法に基づいて当たり前の事を言っているだけのことでしょう。

    しかし、日本のメディアはほぼ左サイドに又反日サイドに偏向しています。
    NHKをはじめ、朝日、毎日(TBS)、テレビでは特にこれらが目立ちます。
    フジテレビも含まれます。
    また日本テレビ(読売)、東京放送(日経)なども度合いは違いますが、左側、反日色が時に見受けられます。

    それはテレビだけの話ですが、更に既存の新聞、出版社、タブロイドに至るまで広くさよく・反日的風潮は蔓延しています。

    そのような日本の現状ですから、高市総務相のこの反日偏向メディアの心臓部に刃を突きつけた発言だけに何が何でも全力を挙げて「報道は自由であるべきで政府の圧力は民主主義に反するもの」と大上段に総勢力を持って攻撃をして行くでしょう。
    そんな偏向反日メディアとグルの野党などと共に。

    高市総務相はストレートに核心を突いていますが、問題は日本にはびこる偏向メディアを改心、乃至駆逐出来るのかという日本正常化をどう進められるのかというものでしょう。

    http://www.sankei.com/politics/news/160209/plt1602090012-n1.html

    http://www.sankei.com/politics/news/160210/plt1602100025-n1.html


    • 2016/02/10 (Wed) 12:37
    • REPLY

    voice of tami 民の声

    ギャー!生ゾンビ輿石来たー!ゾンビは民主党内に多く実在した。
    比例復活当選もゾンビ化当選。

    民主的手順を経て有権者がNOと判断して落選した謂わば死んだ筈の候補が比例で拾われて当選するゾンビ当選も狂ったシステムだ。こんなバカげた民意を反故にする悪法の見本のような(成立に汚沢有り)狂った制度などとっとと廃止してしまえば良いし中選挙区制度に戻さずして民意の正確な反映は難しい、民意反映の為に中選挙区制に戻す事こそ実は重要な課題ではないか。

    今の制度では自民が連立を組む公明党に議席を譲ってる小選挙区に関しては、選ぶべき候補が見付らないと云うのが正確な現状だ。

    アカ野党は選択の範囲外当然違憲宗教政党にして反社会的な勢力を後ろ盾とするアカ染みた政党もお断り。
    今のままでは小選挙区は罰ゲームか無きに等しい存在だ。

    小選挙区不必要論
    小選挙区必要無し、比例代表必要無し
    中選挙区全都道府県区一本に統一希望

    敦子

    韓国人と共産シナ朝鮮族と共産シナ人も、日本国への入国を全面禁止して欲しいですね。そして、韓国人と共産シナ朝鮮族と共産シナ人の日本国への留学、外国人技能実習、外国人人材、定住、永住、特別永住、帰化も全面禁止して欲しいですね。

    韓国人と共産シナ朝鮮族と共産シナ人も、日本国への入国を全面禁止して欲しいですね。

    そして、韓国人と共産シナ朝鮮族と共産シナ人の日本国への留学、外国人技能実習、外国人人材、定住、永住、特別永住、帰化も全面禁止して欲しいですね。

    レッドバロン

    オーストリア万歳!

    ルキノ・ヴィスコンティ監督の名画「夏の嵐」…の有名なラスト・シーンは、実は違っていたのだそうです。

    オーストリア軍がイタリア諸邦の同盟軍を破った戦勝の後で、酒に酔った少年兵が「オーストリア万歳!」と叫ぶというか、泣きながら呟く、これが本来のラストシーンだというのです。

    何とイタリアには検閲があり、このシーンが甚だしく「非愛国的」ということで、検閲官から改訂を命じられたそうで。

    それで私達は映画の最後に、アリダ・バリ演じる伯爵夫人が、自分を裏切った恋人を脱走兵として死に追いやって、しかも敵国の青年士官の名を「フランツ・フランツ」と叫びながら夜のヴェネチアの街を彷徨う名場面に遭遇するのです。まるでヴェネチアの曲がりくねった迷路のような暗い道が、そのまま彼女の心の迷路のような。


    しかし「オーストリア万歳!」も惜しい。破滅型の青年士官フランツ・マーラー中尉が伯爵夫人に語っていた「仲間が戦闘に勝っても嬉しくない、オーストリアはいずれ負ける」という台詞にこれは対応するものですからね。

    それはヴィスコンティが愛したウィーン、ミラノ、ミュンヘン枢軸=滅びゆく中欧文化圏への最後の挽歌であったように思います。


    とにかくイタリアには、ヴィスコンティの芸術映画に「非愛国的」とメスを入れるタフな検閲官がいたのです。

    戦後の日本ほど言論・表現の自由が守られた国はありません。なにしろ日本兵といえば、昔の西部劇に出てくる獰猛にして悪辣なインディアン並みの扱いですからね。はは、アメリカでももはやけっして許されん、表現の自由の極北でありましょう。

    それが占領者に対する阿諛追従以外の何物でもないとするならば、日本には言論・表現の自由以前に、「思想」のレベルに達しているものがないのです。

    「七人の侍」のラストシーンを見てください。
    「勝ったのは百姓達だ」

    黒澤は大した職人だと思うけど、思想の中味は戦後民主主義マンセー、要するに皆無です。戦後映画の最高傑作にしてこれですから。

    テレビ?改善の余地はありません。ジャンルそれ自体を捨て去るべき。番組ごとに課金するとか、とにかく何を見ても「定額」或いは「無料」というのがいけませんわ。所詮は作る方も見る方も無責任になります。

    • 2016/02/11 (Thu) 17:26
    • REPLY

    ※ 記事の内容に直接関係ないコメント、トラックバックはご遠慮させていただきます。
    ※ 管理人及びコメント投稿者への誹謗中傷、嫌がらせ等と判断した場合は、管理人の判断により、コメントを削除致します。