サッカー元日本代表・名良橋晃は、なぜ無名校から「日本ユースに入れたのか」…強豪に進めなかった「大人の事情」
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日本が初めてワールドカップ(W杯)に出場した1998年フランス大会のメンバーで、Jリーグ・鹿島アントラーズやベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)でプレーした名良橋晃さんが読売新聞ポッドキャスト「ピッチサイド 日本サッカーここだけの話」に出演した。千葉県内のサッカー無名高校から、県選抜、そして日本ユース代表入りしたサクセスストーリーを番組MCで元日本代表の槙野智章さんと語った。

高校はサッカー無名校
千葉県出身の名良橋さんは、市立船橋高や習志野高などのサッカー強豪校には行かず、サッカーでは無名の千葉英和高に進学した。
「本当は習志野高に行きたくて。習志野高にも練習に参加して、当時の監督からOKもいただいていましたが、『大人の事情』ってありますよね」
「中学のサッカー部の監督と千葉英和高の監督が大学の先輩後輩のつながりがあって、名良橋晃は選択肢なく(千葉英和高に進学した)」
全国高校サッカー選手権大会など全国大会の出場はかなわなかったが、千葉英和での経験をポジティブに振り返る。
「好きなようにやらしてもらったのが、逆に良かった。全部員が数十人ぐらいで、僕は1年目から3年生の試合にも出させてもらっていた。試合に出られましたし、楽しくサッカーができました。千葉英和に行って良かったなって、今では言えますね」
国体で千葉県選抜に

高校3年の国体では千葉県選抜に入った。県選抜の活躍をきっかけに、日本ユース代表に選ばれ、日本屈指のウイングバックに成長していくきっかけになる。
「若い時は人見知りだったので、選抜に行くのは嫌でした。選抜って、いろんなチームから来るじゃないですか。人見知りだと、(チームの輪に)入っていけない」
それまでは選抜入りを辞退していたとい言う。
「高校3年の国体は監督から『もう最後だから行ってくれ』って言われて、泣く泣く行った」
サッカー無名校からユース代表入り
ユース代表では、当時の静岡県の清水商業高校(現・静岡市立清水桜が丘高校)で活躍していた藤田俊哉さん、名波浩さん(現・日本代表コーチ)、大岩剛さん(現・U-22日本代表監督)らが存在感を示していたという。

「(チーム内の)静岡弁もすごかった。千葉英和って無名じゃないですか。でも、ピッチでは残りたいっていうのがあった。思い切りチャレンジして、静岡の選手たちがみんな話しかけてくれて良かった」
当時の清商は、1988年に選手権大会を優勝するなど、全国屈指の強豪校として知られていた。
「名波浩、大岩剛。僕の1つ下っすよ。みんな怖いんですけど、そこがチームの中心で、藤田俊哉が同期で。いや、清商は本当にすごかったですよ」
名良橋さんは高校卒業後、ベルマーレ平塚の前身「フジタ」に入団。93年度のジャパンフットボールリーグ(JFL)で優勝し、94年シーズンからジュビロ磐田とともにJリーグに新規参入を果たした。
プロフィル
名良橋晃(ならはし・あきら) 現役時代のポジションはディフェンダー(右サイドバック)。1990年に千葉英和高校を卒業後、日本サッカーリーグ1部のフジタ(ベルマーレ平塚から現在の湘南ベルマーレ)に入団。ベルマーレ平塚が94年にJリーグに加盟し、Jリーグ戦にデビュー。97年に鹿島アントラーズへ移籍。アントラーズ黄金期を支えた。日本代表としては国際Aマッチ38試合に出場。98年フランスワールドカップでは全3試合で先発出場した。引退後は解説者として活躍し、的確な分析と親しみやすいキャラクターで人気を博しているほか、指導者としても活動している。71年生まれ。千葉県出身。




























