記者がデフリンピックボランティアに参加、本当のバリアフリーはどこにある?
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聴覚障害者による国際スポーツ大会「デフリンピック東京大会」(読売新聞社協賛)が、11月15日から26日まで開催された。大会運営を支えたのは、公募で集まった約3500人のボランティアと、約700人のサポートスタッフだ。その一人として参加してみたら、気づかなかった大事なことがみえてきた。(読売新聞ウェブメディア部・原啓一郎)
目に留まったボランティア案内「やってみようか」
今年2月、会社でデフリンピックボランティアの案内を見つけた。読売新聞社が協賛だったため、サポートスタッフの企業枠を募集していたのだ。普段はあまり目に留めないのに、その時はその掲示になぜか、ふと心が動いた。「やってみようかな……?」
手話はもちろんできないし、聴覚に障害を持つ人との接点も少ない。スポーツ大会には仕事以外で足を運んだことはほぼなく、ボランティアの経験も皆無だ。だから、そう思った自分に驚いた。「手話、わからないよ?」「国際大会だから英語もあるよ?」という内なる不安の声を押し切り、勢いのまま申し込んでみた。
あれよあれよと参加が決まり、生涯初のボランティア活動へ身を投じることになった。
最初に覚えた手話は「ごめんなさい」

ろう者の文化の理解や手話など、簡単な事前研修はあったが、不安は尽きなかった。デフリンピックには、選手はもちろん観客や関係者にも、聴覚障害を持つ人がいる。超えるべきコミュニケーションの壁は、一般的な場より高くて厚いはずだ。
特に選手たちにとってデフリンピックは、オリンピックやパラリンピックに並ぶ、一世一代の大勝負の場だ。拙いコミュニケーションで不快にさせたり、誤った内容を伝えたりして、選手のパフォーマンスに影響を与えてしまっては取り返しがつかない。
YouTubeで「手話 初めて」などと検索し、手話の基礎を自習することから始めた。真っ先に覚えたのが「ごめんなさい」だ。人さし指と親指で眉間をつまむようにしてから、手を前に出して頭を下げる。その次が「わかりません」。片手のひらを上にして、肩のあたりを払い上げる。「話せなくてごめんなさい」「伝えられなくてすみません」……。そんな気持ちを伝える機会はきっと多いはず。共に申し訳なさそうな表情をしながら発するが、それは得意だった。

手話も言語だ。外国語の学習と同じで、覚え始めると終わりはない。最終的には基本を覚えて、ボディーランゲージや筆談を交えながら、やれることをやろうと腹をくくった。ボランティアに渡されたハンドブックには、「お手洗い」「エレベーター」などのアイコンが並んだページがあり、それを活用することにした。
できる限りのことはやったが、不安は膨らむばかり。前日はほとんど眠れなかった。
筆談も駆使してコミュニケーション
12日間の大会期間中、私がボランティアを担当するのは2日間。11月19日に行われたバドミントンと、20日の競泳だ。

初日のバドミントンの会場は京王アリーナTOKYO(東京都調布市)だ。正午過ぎに受付を済ませ、ボランティア待機所になった観客席の一角に向かう。ピンクのウェアを着用したボランティアが、話をしたり、持参した軽食を食べたりしながら待っていた。ボランティアの中には聞こえる人も聞こえない人もいて、声で会話する人もいれば、手話を使う人もいる。前日までに知り合った人もいるようで、和やかな雰囲気だった。
しばらく待っていると担当が割り振られ、15人ほどと共にロビーへ向かう。多くのボランティアは入場、受付業務の担当だが、「原さんはこちらへ」と、一人だけ少し離れた場所に連れて行かれた。向かう先はロビーの隅に設けられた、特設のバドミントンコート。コートの奥側にはアルミバルーンがいくつか置かれており、手前にはシャトルの入ったカゴと、レンタル用のラケットが数本。バドミントンの体験ブースだ。近くには高さ2メートルほどのフォトスポットもある。初日の業務は、体験ブースの運営だ。
デフリンピックの観戦は無料(ただし射撃は観戦できない)。体験ブースには、訪れた観客に、気軽にスポーツにも触れてもらうという狙いもあるのだろう。ひとまず選手や関係者と深く関わるボランティアではなさそうだ。この日は平日で、競技が予選ということもあり、体験の希望者もまばらで、ほとんどが障害のない健聴者。大きなトラブルもなく、「わかりません」の手話の出番もなかった。
突然の試練、そして見つけた解決策は…
しばらくすると、「Media」のビブスを着た外国人の女性2人組がやってきた。ブースの隣の売店を使いたかったようだが、もうシャッターが閉まっている。手を振り「It’s close」と声をかけたが、返ってきたのは英語ではなく……、手話だった。
私の前にやってきて、2人はものすごい速度で手を動かし始めた。何を伝えたいのか、理解をすることができない。「わかりません」の手話の出番だと、肩のあたりを払い上げようとも考えたが、それ以上に何か、彼女たちの力になりたいと思った。

ズボンのポケットに刺していた取材用ノートを取り出し、「kitchen car」と書き、2人に見せて外を指した。コーヒーは外のキッチンカーで買えますよ、と。
2人は首を横に振る。どうやら違ったようだ。私の肩越しに、バドミントンの体験ブースを指さしている。私は「play?」とノートに書き、また見せる。2人がサムズアップのポーズをして、パッと笑顔を見せてくれた。「OK!」と書き、私も大きくうなずく。どうやら伝わったようだ。
体験も、フォトスポットも堪能してもらった。記念撮影の際は声ではなく、指で「3、2、1」とカウントダウン。私のカウントに合わせて、表情とポーズを作ってくれる2人。きっと伝わっているだろう。
体験を終えると、2人が笑顔で手話で話してくれた。左手の甲を上にして前に出し、もう片方の手を下から上に上げる動作。大相撲の力士の手刀のようなこの手話は、日本手話の「ありがとう」だ。私もとっさにまねして「ありがとう」を返す。不慣れな手話だが、届いたのは間違いなかった。コミュニケーションの難しさと同時に、気持ちが伝わり合う喜びを、強くかみ締めた。
「ありがとう」が返ってくる喜び
ボランティア2日目の20日、担当は競泳だ。会場の東京アクアティクスセンター(東京都江東区)に向かう道すがらも、手話でやり取りする人たちを見た。夕方から決勝が行われるからか、前日のバドミントンより、関係者や観客の数が多い印象だ。相変わらず内容はわからないが、「出口」「お手洗い」くらいはわかるようになっていた。
業務は会場警備。選手や関係者エリアの前に立ち、パスを持たない人を制止するのが役割だ。他にも施設や競技時刻などを案内する場合もある。

最も頻繁に使ったのは「お手洗いはあちらです」だ。右手をパーに開き、親指と人さし指で「C」の形を作る。立てた残る3本の指が「W」で、合わせて「WC」だ。案の定、トイレの場所を聞かれることは多く、これを覚えておいたのは正解だった。日本手話と国際手話で同じなので、海外選手や関係者にも通じるのがうれしい。
それ以外のやり取りの多くは、やはり筆談が主だった。日本語と英語をノートに書き殴り、都度案内したり、より詳しい担当者につないだり……。聞こえる、聞こえない以上に、とにかく「正しく伝える」ことが最優先だ。前日に覚えた「ありがとう」の手話は大いに役立った。
手話の練度によって、ボランティアの業務は分けられていた。英語や国際手話ができる人は重宝され、窓口などコミュニケーションが多く発生する場所に配置されていたようだ。表彰式のメダルや記念品を運ぶのもボランティアの担当で、競技や運営に関わるボランティアは、恐らく大ベテランなのだろう。
私が配属された警備場所は海外選手の動線だった。メダルを手に戻ってくる選手もおり、家族や関係者と思しき人に祝福される姿を間近で見た。そんな彼らに向け、近くで同じ業務にあたっていたボランティアのひとりが、両手をひらひらと動かしていた。世界共通の手話での「拍手」だ。まねしてみると、手話の「ありがとう」が返ってきた。投げキッスのように、右手を口元から前に動かす、国際手話の「ありがとう」だった。
適切なコミュニケーションとは?
2日間のボランティアはつつがなく終わった。
相手に聞かれたことに答えるだけでなく、相手に合わせた、適切なコミュニケーションの手段を選ぶ難しさを痛感した。手話、筆談、スマートフォンのメモ帳、身ぶり手ぶり。どれが最も適切か、瞬時で判断することが求められる。

ワイヤレスイヤホンを補聴器と見間違い、筆談しようとしたら「聞こえるよ」と返されたり、「お兄さんは聞こえる人ですか?」とストレートに聞かれたこともあった。「聞こえる人ですか?」と聞くことは失礼なのか、そもそも聞くべきなのか、今も分からないままだ。
心がけたのは、「ありがとう」はなるべく、手話で伝えるようにしたことだ。ほとんどは筆談やスマートフォンのメモ帳を使ったコミュニケーションに頼らざるをえないが、「伝えたい」という気持ちは届いてほしい。その思いで2日間を過ごした。必死で不器用な手話に、多くの方が笑顔で「ありがとう」と返してくれたのは、確かな救いだった。
一歩歩み寄る、たった一つのできること
私は一度だけ、聴力を失ったことがある。高校生の時に突発性難聴になり、一時的だが左耳の聴力を失った。
聞こえない時の生活の苦労は今も覚えている。授業は右耳頼りで、声の小さい先生に難儀したし、平衡感覚が狂ってめまいのような気持ち悪さもあった。聴力が戻るか不安で仕方なく、進路や将来を憂いた。

幸い完治したが、発症が中間テストの期間と重なったことや「ただの耳鳴り」と甘く見て、1週間程度放置してしまったのが響いた。今の日常生活に支障はないが、ストレスや疲労、環境変化などで、時々左右の聞こえに差が生じる。それが後遺症なのか、あるいは心因的なものかはわからないが、聞こえなかった感覚は、今も忘れられない。
「聞こえない、聞こえにくい」にも様々ある。同じ「聞こえにくい」人でも、手話だけで話す人もいれば、発話でコミュニケーションを取る人もいるし、筆談やスマートフォンのメモ機能を使う人もいる。手話一つとっても、日本手話や、国際手話があるし、私の知らない他の手話言語もあるだろう。「聞こえない、聞こえにくい」の中にもこれだけのグラデーションがある。他の障害や身体的特徴などに目を向けると、果てしない。
そんな多種多様な人々が、同じ一つの社会で生きている。誰もが共に生きていくには、互いに一歩歩み寄るのが、結局、一番の近道なのだ。
ボランティアに臨む際、私は手話を可能な限り覚えようとした。でも、それができなかったから、筆談や身ぶり手ぶりでのコミュニケーションで、歩み寄ってみようと試みた。会場で接した人々はそんな私に、手話だけではなく、ボディーランゲージや筆談で応じてくれた。
彼らが私に歩み寄ってくれたから、コミュニケーションが成り立った。互いに歩み寄ったから、同じ場所で、同じ感情を共有できたのだ。

そんな小さな一歩の積み重ねの先に、バリアフリーは訪れる。2日間で知ったことは、少しの手話と、その一歩だった。
1日目の会場に向かう朝、駅で
「困っていないだろう」「間に合わないから」なんて心で言い訳をして、彼に背を向けた。一歩踏み出せなかった自分が恥ずかしい。
でも、今なら一歩踏み出せる。「何かお困りですか」「どう力になればよいでしょうか」と声をかけられそうだ。
今はそれだけが精いっぱい。でもその一歩が、社会を少しずつ良くしていくと信じている。




























