やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

指示待ち人間にさせないために大切なことは?~葛藤を抱えていればいるほど…~

「指示待ち人間」

…今日、言われたくない言葉の代表例かもしれません。

「ここ」のイラスト「そこ」のイラスト

だから、教育現場でも、「主体的・対話的で深い学び」を実現すべく、アクティブラーニングなどが声高に叫ばれ続けているわけです。

ただ、行動あって学びなし、という批判があるように、生徒の「目に見える」学習活動ばかり取り上げて、授業が終わったらただ瞬間風速的に楽しいだけで、何も残らなかった…というオチにならないような注意が必要ですが…

主体性のジレンマ

指示待ち人間をつくらないために、なんとか主体的・対話的で深い学びを実現するために、主体性を鍛えるような授業設計を心がけている先生方は多いでしょう。

あるいは、そういう部下を育てたいという上司のあなたや、そういうお子さんを育てたいという親のあなたでしょうか。

でも、主体性を育てようとすると、猛烈なジレンマを抱えることになるのです。

引用しましょう。それは、こういうことです。

「主体的になれ!」と第三者に命令して、第三者が発揮する<主体性>とは、本当に求められる「主体性」ではない

「主体性」を育成したい人が、もれなく「葛藤」と「反発」の渦に巻き込まれる理由!? | 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する

「わかる~」と思われる方も多いのではないでしょうか。

しかも、反発されたり、期待したほどのものが出なかったり、がっかりすることも多くあるわけです。(それ以上にワクワクするのだけれど)

それでも、主体性を育てるために何が必要?

少なくとも、保護者・教員・上司・リーダーである人たちは、どれだけ反発されようが、期待に応えてくれなかろうが、期待し続けるのです。もはやそれが仕事かもしれない。

でも、育てる人も人間なので、やっぱりつらいんですよね。

そんなときに、東大・中原先生はこれが大事!とおっしゃっているのが、

「主体性を育成するために、非主体的な環境で試行錯誤させる」 

もういっちょ付け加えると、

主体性の育成とは、まず「外部からの働きかけによる目標の達成の反復」からはじまります。

具体的にはどういうこと?

これはもう記事を読んで頂いたほうが早いのかもしれませんが、かいつまんで引用します。

 要するに、こういうことです。 
「まずは、監督者のもとで、非主体的に物事を成し遂げる。単純に物事を成し遂げるのではなく、一応、自分で目標をたてさせて、それに対して挑戦させる。挑戦の際には、監督者からフィードバックをする。かくして、目標を達成させ、また次の目標を設定させる。外部からのフィードバックを得ながらの目標達成を繰り返しつづけさせる」
  
 そうこうしているうちに、人は、こうした「外部にお膳立てされた非主体的環境」に「反発」や「葛藤」を覚えるようになります。
  
「もしかして、自分だけでもできるんじゃないだろうか」
「いちいち、あのひと、うるさい」
「言われなくても、わかってるってーの」

この最後の、「言われなくてもわかってる」とか「放っておいてくれたら自分でやるわ!」という気持ち。主体性を育てたい立場の人は、これを引き出すことがどうしても不可欠なんだと。

そして、それに対して、こう思うといいんじゃないか、と。

そこが、「支援の解除」のポイントです。
 非主体的な環境に置かれている第三者が覚える「反発」と「葛藤」を利用し、少しずつ「外部からの働きかけ」を引いていくのです。
  
「だったら、自分でやってみなよ」

自分でやってみなよ

と言わせる環境になれば、逆説的ですがこちらの勝ち。

こちらがおぜん立てした環境以上のものを求めるようになる。

「いちいちうるせー」と思われながらも、そういう風にして自分から動いてくれれば、それこそまさに主体性。

非主体的な環境こそが、主体性をつくる土台

ということになるのでしょうか。気になる方はほかにも引用したかった文章がたくさんありますので是非本編をご覧ください。

www.nakahara-lab.net

あえて、突っ込んでみる

ここで終わっては当ブログの意味がありません(大げさ)。日々生徒にクリティカル・シンキングも教えている立場としては、やはりもうひと押しほしい。

だって、

非主体的な環境こそが、主体性をつくる土台

であれば、「クソ管理職」、「ダメ教員・親」が放置されると思いません?

つまり、「なんだ、こちらが管理して主体性を少し抑制したって、それで主体性がはぐくまれる土台になるんだから、自分は別に今まで通りでいいんだ!」と思うかもしれない。

結論から言いますが、中原先生の議論は、「できる人」を議論の前提にしています。もう少しいうと、自律的な人です。そこは注意して読まないと、盲目的な現状追認を生んでしまいます。

主体的な人を育てたい人は、常に、「葛藤」や「反発」の中に巻き込まれることになります。
でもね、それは宿命であり、役割だ。

であれば、こう考えましょう。

常に自分が「葛藤」や「反発」に巻き込まれているかどうか、が主体性育成者のバロメーターなのかもしれません。これなら、ストンとくるでしょうか。

自分が「これは生徒が主体的な授業だった!」と思った時ほど気を付けなければいけない、そんな気持ちになりました。

おまけ:中原先生はここでも登場していました

www.yacchaesensei.com