はっしゃ‐じょう〔‐ヂヤウ〕【発射場】
読み方:はっしゃじょう
⇒射場2
射場

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射場(しゃじょう、launch site)とは、ロケット等を打ち上げる施設のこと。発射場とも呼ばれる。宇宙へ向けて人工衛星を打ち上げるローンチ・ヴィークルの射場については宇宙船基地などと呼ぶこともある。通常はNASAなどの宇宙開発機関が管理する。空軍の基地と人工衛星の射場が共用されていることもある。民間宇宙飛行の観点から、宇宙港 (Spaceport) と称する施設もある[1]。
静止衛星の射場は、地球の自転を利用してロケット燃料をなるべく使わずに軌道速度を得るため、赤道に近い場所にあることが多い。
射場の条件



ロケット発射の安全性、確実性などを確保するため以下のような自然・地理的および人為的条件があげられる。
緯度
射場の位置は低緯度が望まれ、出来れば赤道直下が最適となる。赤道直下から真東に発射されたロケットは地球の自転遠心力をもっとも効率よく利用できる。また、打ち上げ後に赤道面への静止衛星投入のための移動に伴う衛星搭載燃料が少なく済み、相対的にロケットの搭載量低下、衛星の大型化が行える。赤道直下で真東に発射する場合、第一宇宙速度の 7.9km/s に対し地球自転周速度の分 0.46km/s だけロケットの燃料を節約できるのは大きな利点である。日本の種子島宇宙センターは緯度30度に位置し、0.4km/s [2]だけ地球の自転が利用できる[3]。
安全確保
発射場では大量の火薬類や危険物を扱うため、十分に広い土地を必要とする。また発射後のロケット各段の落下点に加え、万一故障した場合の飛翔経路、破損した場合の破片の落下範囲などを考慮して、人的・物的被害の出ないように発射場の位置や発射方向が決定される。ゆえにロシアや中国のように射場を人の少ない内陸部にとれる場合を除き、海に面した場所に射場を設置することが多い。海に向かって発射する場合にも海上船舶を考慮する必要がある。一般に陸地や島の存在によって発射方位は制限を受け、漁期との関係で発射期間が限られている射場もある。そのほかにも航空路なども考慮されねばならない。イスラエルでは東側のアラブ諸国とのトラブルを避けるため、打ち上げ速度の不利を承知で西向きに打ち上げが行われている。
天候
発射の天候待ちを減らし射場の年間利用率向上のため、年間を通じて晴れの多い安定した気候、発射時ロケットの姿勢に影響を及ぼす風があまり強くないことなどが条件として挙げられる。
地上設備
最低でも、ロケットを組み立てる施設、打ち上げのためのロケット固定施設、液体燃料ロケットの場合にはロケット燃料を保管し注入する施設などが必要である。人工衛星を打ち上げる場合は大気圏外までの管制を行う施設、さらに有人飛行の場合には宇宙飛行士の宿泊施設や待機場所等も必要となる。軌道投入後は管制業務は運用担当施設に引き継がれる。
その他
脚注
- ^ “「宇宙ビジネス」は、みんなのものになる~スペーステックの進化がもたらす可能性~(前編)”. Transformation SHOWCASE (2022年7月21日). 2023年4月7日閲覧。
- ^ 緯度θにおける自転速度は0.46×cos(π×θ/180) [km/s]で求められる。
- ^ 的川泰宣『宇宙ロケットの本』日刊工業新聞社、2002年8月31日初版1刷発行。ISBN 4526049980。
- ^ “中国、運搬ロケットの海上打ち上げ試験に成功”. AFP (2019年6月5日). 2019年6月6日閲覧。
関連項目
- ロケット
- ロケット発射場および宇宙港の一覧
- 宇宙センター
- 発射台
- 打上げウィンドウ
- アストロバン - 宇宙飛行士輸送用の車
- ノヴォモスコフスク (潜水艦) - 戦略ミサイル原子力潜水艦。SLBMを改造したShtil使った人工衛星打ち上げを行った。ほかに、人工衛星COMPASS-2を打ち上げた戦略ミサイル原子力潜水艦エカテリンブルクなどもある。SLBMを改造した打ち上げロケットとして、ヴォルナなどがある。
外部リンク
発射場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 11:57 UTC 版)
1900年(明治33年)竣工。日清戦争後のことである。元々呉海軍工廠の試射場は鍋山の麓にあったが近くに民家があり危険であったことから、周辺に障害物がなく機密が守りやすい亀ヶ首へ移設したとされる。 以下呉戦災を記録する会がまとめた略歴を中心に記す。 1901年(明治34年) : 速射砲の試験実施 1904年(明治37年) : 東南方へ大砲発射試験 1904年-1905年(明治37-38年) : 新設工事 1915年(大正4年) : 発射場との境界線確定、標柱設置 1917年(大正6年)第16回発射実験で安式3インチ砲閉鎖機が事故、4人死傷 皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)呉工廠や試射場を見学、巨砲試射実施 1918年(大正7年) : 増備工事 1921年(大正10年) : (ワシントン海軍軍縮条約締結、新造休止により呉工廠内で整理が行われたが研究部門は逆に推進) 1923年(大正12年)呉工廠砲熕実験部が設立、試射場がその管轄となる 土佐(加賀型戦艦、軍縮条約により建造中止)の実験射撃実施 増築工事、大口径試験砲架給弾薬装置の据付 1924年(大正13年)土佐を標的とする射撃実験、水中弾研究が始まりのち九一式徹甲弾開発に至る 漁民が経済的損失が大きくなったとして呉鎮に陳情 1926年(昭和2年)時計式信管の爆発事故 毒ガス弾の円筒内実験 1930年-1931年(昭和5年-6年): 改造工事 1932年(昭和7年) : 由利島観測所(右図B4)用地買い入れ、大和型の46cm砲試射の大射線用 1933年(昭和8年)日進を標的とする各種の砲撃実験 諸実験のため1ヶ月20日間の区域内入漁禁止 1933年-(昭和8年-) : 大改築工事計画が始まる 1938年(昭和13年) : 大和主砲の性能試験 戦後、1945年9月から1946年2月まで米海軍訪日技術使節団が大砲試験を行い、破壊する。のちに中四国地方を管轄したイギリス連邦占領軍(BCOF)もここで作業している。なお試験資料はアメリカへ持ち帰っており、その一つである26インチ装甲板が現在アメリカ海軍国立博物館(英語版)で屋外展示されている。 2006年くらはし観光ボランティアガイドの会が慰霊碑を建立する。2020年日本遺産に追加登録される。
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