改称前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:41 UTC 版)
初期の発表は、陸海軍合同の「大本営陸海軍部発表」、陸軍単独の「大本営陸軍部発表」、海軍単独の「大本営海軍部発表」で行われていた。 米英に対する戦争の最初の発表は、1941年(昭和16年)12月8日午前6時に行われた。当時、ニュースを放送するには政府の許可が必要だったため、真珠湾攻撃が開始された日本標準時午前0時過ぎで、政府から許可が下り、アナウンサーがマイクの前に座ったのは午前7時のことだった。 ラジオ放送(日本で唯一の放送局だった「社団法人日本放送協会」、現在のNHKラジオ第1放送)で、対アメリカ・イギリス戦(太平洋戦争)の開戦第一報が報道された。戦後に残されている大平秀雄陸軍報道部長が発表文を読み上げる映像は、後日「再現映像」として収録されたものであり、当日の記録ではない。 臨時ニュースのチャイム(同じ合図音が21世紀の現在も変わらず使われ続けている。一部で言われている「軍艦行進曲が流れた」というのは誤り)の後に、当時のアナウンサーが読み上げた大本営陸海軍部発表(昭和16年12月8日午前6時)は、 臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。 という内容であった。 1941年12月9日夜、大本営海軍報道部長前田稔海軍少将はラジオにて国民に対し、真珠湾攻撃など開戦時の作戦における大戦果を報告、その声明の末尾で前田海軍報道部長は「わが海軍の戦況報道に当り特に正確を期するため、あるいは作戦上の要求などのため、発表時期が若干遅れることもあると思うが、決して心配することなく、安心してわが報道を信頼していただきたい」と語っている。 戦況が好調に推移していた開戦以後約半年間は内容もおおよそ現実に即しているが、海軍は1941年12月8日の開戦とともに始められたウェーク島の戦いにて、同月12日にアメリカ軍守備隊の海岸砲とF4F戦闘機4機に翻弄され、その攻撃により駆逐艦「疾風」と「如月」を轟沈喪失(両艦総員戦死)、軽巡洋艦・特設巡洋艦複数を含む他多数の艦艇も被害を受け、第一次攻略戦で撤退しているが、大本営海軍部発表(昭和16年12月13日午後3時)では「(前略) 四、帝国海軍は十一日艦艇をもってウエーキ島を砲撃し残存軍事施設に大なる損害を与えたり、わが方も若干の損害を蒙りたり」と事実を歪曲して発表した。ただし、同月21日に攻略戦力を増強し、再度実施された第二次攻略戦では損害を出しながらも23日に同島を制圧、その大本営海軍部発表(昭和16年12月24日午前11時)では「一、帝国海軍は激浪烈風を冒して二十二日夜半ウエーキ島を攻略しわが陸戦隊は頑強なる抵抗を排除しつつ敵前上陸を敢行し二十三日午前十時半同島を完全に占領せり 二、同方面の作戦においてわが方駆逐艦二隻を失えり」と駆逐艦2隻喪失を認めている(しかしこのほか「第三十二号哨戒挺」と「第三十三号哨戒挺」が陸戦隊強行上陸のため海岸に擱座し、放棄・除籍されている)。 初期には、上陸戦時の軍隊輸送船の被害さえも公表されていた。大本営陸軍部発表(昭和16年12月10日午後7時45分)では、「一、八日開戦以来十日に至るわが陸軍部隊の損害は各方面を合し輸送船の撃沈せられたる損傷をうけたるもの各二隻にして右はいづれも部隊上陸後の空船なり 二、なお右の間における陸軍機にしていまだ帰還せざるもの十三機なり」と発表している。
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