改修と実戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 01:35 UTC 版)
ショットの改修で手始めに行われたのは、主砲を従来の20ポンド砲から新型のL7 105mm戦車砲に換装することであった。この戦車砲は、元々センチュリオン用の新型砲として開発されたため、ショットの砲塔にもそのまま搭載可能であった。20ポンド砲とは異なり遠距離でも極端な散布界の拡大がなく(後の戦争で判明することではあるが)、T-54/55はおろか、T-62が相手でも十分な装甲貫徹能力と破壊力とを持っていたため、換装は急ピッチで進められた。しかし初陣となった1964年11月のウォーター・ウォー(ヨルダン川の取水設備を巡るシリアとの武力衝突)では、丘の上に陣取ったIV号戦車に対し砲撃した89発全てが命中しなかった。元々ショットに不信感を抱いていた乗員は105mm砲に欠陥があると主張して憚らなかったが、実際は砲煙による視界不良で目標を明確に視認できていなかったのが原因だった。この後、機甲軍団の司令官にタル将軍が就任し、信頼性の問題も搭乗員や整備員の徹底的な訓練を行うことで取りあえず解決、ショットはL7 105mm戦車砲の火力を活かして1967年の第三次中東戦争においてM50/M51 スーパーシャーマンやM48パットンと共に大活躍した。 この戦争により、イスラエルはゴラン高原やヨルダン川西岸地区、ガザ地区、シナイ半島を占領する大戦果を上げたが、外交的には不利な立場に立たされ、アラブ諸国はイスラエルに武器を供給する国への石油輸出を差し止める「石油戦略」を発動することでイスラエルの兵器供給を断つことによる軍事的弱体化を画策し始めた。まず、フランスが1967年に対イスラエル武器禁輸を決定し、イギリスも1969年にイスラエルへの武器禁輸を決定したため、チーフテンの販売契約は反故にされ、イスラエルの手に渡ったチーフテンはたったの2両に止まり、とても戦力として運用できる状態ではなかった。このため、イスラエルはチーフテンと同じ重装甲・防御力重視の国産戦車メルカバの開発に着手し、その量産体制が整うまでの間の戦力を維持するためにアメリカからM48/M60パットン(以後、M48とM60をまとめて呼ぶ際はマガフと呼称)を追加導入したり鹵獲したT-54/55をチラン4/5に改修したりするとともに、既存のM48やショットのさらなる改修を行うこととなった。
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